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孤独と不安のレッスン(著:鴻上尚史)、学問と「世間」(著:阿部謹也)を読みました

日本という社会での「世間」と個人の関係について論じた本を続けて読みました。

『学問と「世間」』は2001年、『孤独と不安のレッスン』は2006年の著作です。
たった5年しか違わないのに、「世間」についての見方が大きく違っていることが興味深かったです。

 

阿部謹也さんは、「世間」は日本においてまだまだ強固で個人の行動を強く制約している、特に学問の世界では研究者たちが仲間うちでの問題設定・評価に閉じこもってしまっていて、世間一般の生活者を含む仲間うち以外の人たちと断絶してしまっていることが問題だと指摘しています。

その一方で鴻上尚史さんは、「世間」は中途半端に壊れてしまっていて今や従っていても個人を守ってはくれない、それよりも自分は自分、一人なんだということを受け入れて、自分で自分を守っていく不安と折り合える姿勢を身につけた方がいい、ということを切々と説いています。

 

両者読み比べてみて、2017年の今読むからかもしれませんが、阿部謹也さんの「世間」観はあまりにスタティックで、今後の環境変化が「世間」と個人の関係にどう影響しそうかという観点がすっぽり抜けていて、ちょっと説得力がないなぁという印象を受けました。
これからの日本の学問に対する処方箋も、理念的なアカデミックの世界に閉じこもらず、生活世界=「世間」を対象化し、生活者に寄り添って共に学び続ける生涯学習を志向すべきだという内容なのですが、では生活者の側になぜ大学と一緒になって「世間」を対象化するニーズがあるのかについては踏み込まれておらず、言ってみれば現状の学問・大学のあり方に問題意識を持つ人からの一方的な片思いのようになってしまっているなぁと感じました。

 

それに比べると、鴻上尚史さんの一人のススメの方が、今なお通用するインプリケーションを含んでいました。

どうせ世間は責任を取ってくれないのだから、振り回されるのはやめよう。
自分は自分。
一人になって自分が本当に何をしたいのかを考える。
周りと比べるのはやめて67点の人生を受け止める。
少しの分かりあえる人がいれば友だちは100人いなくていい。
頭で考えて不安でいっぱいになったら身体のスピードに合わせてみよう。
分かりあえないを前提に、自分にとって意味のある他者と交わる。

むしろ、本格的なネット社会の到来を経て、今度はソーシャル・ネットワークや、巨大プラットフォーマーの網の目に絡み取られている今の私たちにはますます刺さるアドバイスなのではないかとさえ思えます。

 

さて。
ここでやっぱり気になるのが、じゃあこれからの日本でいわゆる「社会」はどう切り結んでいくのがいいんだろうか、という話し。
ひとりひとり違うことを引き受けた個人、しかも都合よく居心地がいい似た者同士のソーシャルネットワークに取り込まれた個人を、世間の同調圧力に代わり、共通の社会を営む当事者として集合させるにはどうしたらいいんだろうか・・・。
平田オリザさんのコミュニケーション論でも触れられていたように思いますが、もうちょっと政治よりの観点からの立論も目を通してみたいので、次はそっち方面読んでみようかなぁ。

 

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

学問と「世間」 (岩波新書)

学問と「世間」 (岩波新書)

 

 

これはドラマか、現実か~リゾートホテルのスイートルームで演劇鑑賞

リゾートホテルのスイートルームで観劇という突拍子もない企画のコーディネーションに関わりました。

足を伸ばして損はないプログラムです。
演劇・アートの新しい棲み家を垣間見たい方、ぜひお越しください。

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これはドラマか、現実か――。

結婚式場から逃げてきた新婦が、妻を待つ男の客室に飛び込み始まる二人の会話劇。
高橋いさを原作の戯曲『ここだけの話』を、本物のホテルのスイートルームで上演します。

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このありそうでなかったユニークな公演を行うのは、本拠地・埼玉県蕨市の旧加藤家住宅で「戯曲の棲む家」シリーズvol1.~6.を上演するなど、劇場外での公演や異ジャンル芸術家との共同創作に積極的に取り組み今注目を集めている舞台芸術集団ゲッコーパレード。演出家の黒田瑞仁は早稲田大学建築学専攻出身、舞台となる建築物の特性やその場所性を踏まえた独特の演出が高い評価を受けています。
今回の公演でも、本物のホテルを舞台に高橋いさをの結婚をめぐる喜劇をどう演出してくるか、期待されるところです。

 

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公演は2日間にわたる2部構成。1日目夕方に第1部・本編を上演、2日目朝に朝食会場のレストランで第2部・エピローグを上演します。上演の時間的・空間的な広がりや、観劇後にそのまま同じホテルに泊まるからこそ感じられる余韻も今回公演ならではの魅力ではないでしょうか。

公演日は6月30日(金)~7月1日(土)、7月1日(土)~7月2日(日)の計2回。臨場感ある観劇をお楽しみ頂けるよう、定員は各回25組50名限定となります(ホテルの宿泊2名様一室利用の場合)。

お申込みは受付が始まっています。
すでに予約が入り始めていますので、鑑賞ご希望の方はぜひお早めにお申込み下さい。
予約・お問い合わせは、インターナショナルゴルフリゾート京セラ予約センター0996-57-0808または下記予約サイトから。
https://www.yadoken.jp/…/FrontCtrlShowPlanRecommendationDet…

★インターナショナルゴルフリゾート京セラ
週末別荘「IGRドラマナイト」
『ここだけの話』公演・宿泊プラン詳細★

【作】高橋いさを
【演出】黒田瑞仁
【出演】渡辺恒・河原舞(ゲッコーパレード)
【会場】インターナショナルゴルフリゾート京セラ
    (鹿児島県薩摩郡さつま町求名6122)
【公演日】6月30日(金)~7月1日(土)
     7月1日(土)~7月2日(日)1泊2日間×2回
     ※上演はチェックイン日の16:30と翌日の8:30
【料金】ツインルーム1室2名利用 15,000円/人
    ツインルーム1室1名利用 19,000円/人
    (1泊2食観劇付)
【定員】1公演あたり25組50名様限定
【予約・問合せ】インターナショナルゴルフリゾート京セラ予約センター 0996-57-0808

 

◎◎インターナショナルゴルフリゾート京セラ概要◎◎

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鹿児島県北にあるゴルフ場併設のリゾートホテル。
露天風呂やサウナ付の温泉、スポーツジム、屋内外のプール、テニスコートなどスポーツ施設も備え、長期での滞在にも対応可能です。
スタンダードでも30㎡を越すゆったりとした客室は全室ゴルフコースビューで、眼下に広がる芝の緑が美しく映えます。
シェフが腕を振るう地元鹿児島の食材を使った料理も人気です。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ(著:加藤陽子)を読みました

日清戦争日露戦争第一次世界大戦満州事変・日中戦争、太平洋戦争という、明治以降日本が戦った戦争がなぜ戦われたのかー。著者が行った栄光学園・中高生への特別集中講義の様子をまとめた一冊。

今起きつつあることを理解するとき、未来に起こりそうなことを予測するとき、人は意識的・無意識的に過去にあった事例を下敷きにして考えるもの。
その理解・予測の質を高め判断の誤りや災禍を招かないようにするためには、広い視点から俯瞰した偏りのない歴史についての理解・蓄積が必要で、それには若いうちから歴史に興味をもって歴史的なものの見方を身につけて欲しい、そういう想いで著者は講義に臨んだそうです。

果たせるかな、著者は様々な資料を引きつつ、生徒たちとのキャッチボールも交えて、海外各国の諸事情から日本国内の社会政治情勢まで縦横無尽に伏線をたどり、重層的に戦争に至った経緯や戦後の影響を解き明かしていきます。

 

客観的な数字を引けば明らかに無謀な太平洋戦争をなぜ戦わなければならなかったのか。
庶民はなぜ開戦を支持したのか。

「1941:決意なき開戦」がどちらかというと開戦に至る日本の指導者たちのやり取りを辿った本だとすると、本書は時間的にも視点的にもより広範なスコープから「あの戦争はなんだったのか」に迫る内容だと言えると思います。

続けてセットで読むと面白かったかもなぁ。

 本書の中で、戦争とは単に軍事的な勝利や戦後の権益確保を目的になされるのではなく、主権や社会契約といった相手国の社会を成り立たせている基本秩序(=憲法)に手を突っ込み書きかえようとすることだ、というルソーが提示した洞察が紹介されていました。

 この洞察に基づけば、敗戦した日本で憲法を書きかえられるのは必定であり、勝者がアメリカ以外でも憲法は書きかえられただろう、と筆者は推定しています。そして書きかえられる対象となった従前の憲法原理とは「国体」であったと。

文庫版のあとがきで著者自身が指摘していますが、改憲・護憲を議論するに当たっては、今の憲法をもたらした戦争はなぜ戦われたのか、をまずは考えなければならないというのは、まさにその通りだと思います。

そして政治家でも軍部指導者でもない一市民として、災禍に向かって進んでいくのに気付かないままに加担することを避ける、あわよくば食い止めるため、いかに徴候をキャッチすることができるのか。

市井の社会感情にも目配りした本書は得るところ大の一冊でした。

 

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

「蜜蜂と遠雷」(著:恩田陸)を読みました

ピアノコンクールを舞台に、若きコンテスタントたちとそれを見つめる大人や周囲の人たち、音楽とは何かを描いた群像劇。

この小説では音楽が題材になっていましたが、それに限らず、一人ひとりの人はもともとそれぞれの本能的な喜び、根源的な楽しみをもっているはず。
でも、いろいろな事情や、しがらみなんかもあって、過ぎゆく日々の中でそれははるか後ろの方に遠ざかっていってしまう。ちょっと違う方に逃げてしまったり、見て見ないふりをしてしまったりするもの。

でも、本当の意味で生きるには、それとちゃんと向き合わなきゃいけない。
せわしない日常の中でも折り合いをつけて引き受けて行かなきゃいけない。
それは、いつか、どこかからやってくるものではない。
自分の中にありつづけるものを、今、この瞬間に生きなければ。

それは骨が折れることかもしれないけど、乗り越えてなお余りあるほどの、自分にとって、そして周りの人にとってもmovingな生き方が待っている。

そんなメッセージが込められていたように感じました。

 

それにしても、本作は挑発的だなぁというのも同時に感じた感想です。

そもそもピアノコンテストを文章で作品に仕上げるというのも、挑戦的な試みです。

本屋大賞受賞後のインタビューで「読者の側でいたい」と語る著者の記事を読んだことがありますが、本作は、そのスタンス・スタイルで文章を書く覚悟と、書いた作品がいかなる存在でありたいのかを、登場人物とそれぞれの演奏する音楽に載せて提示している、温かみのある外見とともに内奥は「熱い」小説なんじゃないかと思うんですが…。

読み手は、この本質的な問いについて来られるか?
それこそ賞の審査員は、本作を受け容れられるか?

本書を“ギフト“とするか、“災厄“とするかは、あなたたち次第である。

そう言って著者がニヤリとしていそうな気がしたのは私だけでしょうか?

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

ブロックチェーンの衝撃(著:ビットバンク株式会社&『ブロックチェーンの衝撃』編集委員会)を読みました

ビットコインを成立せしめた技術的バックボーン、ブロックチェーンの基本原理と応用範囲について、2016年6月時点でまとめた一冊。

 

「ブロックチェーンは、取引プロトコルの設計により、ピア・ツー・ピアネットワークにおいて、中央のサーバーや管理者不在でも、不正を起こせずダウンしない分散型の台帳を実現した。これは大規模なシステムや管理者への信頼を不要とする破壊的技術であり、金融や有価証券、書類の公証に活用可能である。」(140字)

 

本書では取引のブロックチェーンへの記帳の法的位置づけについても検討されていました。

一読して到達した結論としては、特に金融系のシステムを作っている人たちには破壊的になりうるかもしれないけど、エンドユーザーとしてこの技術の破壊性を享受できるようになるためには、まず社会の側で結構な制度変化が起きることが必要、というものでした。

 

とどのつまりは、ブロックチェーンはあくまで台帳なので、いくらそれが価値ある内容の取引を保存していたとしても、それが単体で価値を持つことはない。
記載内容が価値を持つものとして受け入れられて初めて、価値の流通・移転まで含めて取引を完結できる仕組みになる。
極端な話、それまでは単に安くて、安全で、安定している、『破壊的なメモ』でしかない。

一番のポイントは、仮想通貨(これ自体ブロックチェーンの一形態ですが)がどこまで普及するかではないでしょうか。
お金の決済ができなければ取引がクローズできないでしょうから。

その意味で、本書でも取り上げられていましたが、地域通貨の基盤システムとしての活用というのは、相性がよさそうな仕組みだと思いました。

 

「旅行」と絡めても考えてみたのですが、お金の決済が別システムになるとしたら、いわゆる「予約台帳」として活用するくらいかなぁと。要は楽天トラベルとかじゃらんとかのサーバーをブロックチェーンに置き換えて、代わりに宿から徴収する手数料を下げるという。
ビットコインで決済まで済ませられれば、さらにサービスとしての包括性は高くなると思います。その意味ではインバウンドの予約システムとしての方が立ち上がりやすいんでしょうかねぇ。
expediaやbooking.comを向こうにまわして日系のOTAが今から一発逆転するには、ブロックチェーンを使った予約管理・決済システムを先に作ることくらいしかないんじゃないでしょうか。

 

仮想通貨の流通と言えば、最近沖縄で琉球コインというオリジナルの仮想通貨を作る構想を記事で読みました。(その構想の一員に本書著者のビットバンク株式会社も噛んでるみたいですね)
決済まで含めて完結する環境が整ったら、沖縄で一気にイノベーションが進む可能性があるかもしれないですね。
もはや円さえも交換可能な一通貨とかになったとしたら、沖縄にとってその他日本の必要性ってどうなっていくんでしょう・・・。

ブロックチェーンの衝撃

ブロックチェーンの衝撃

 

 

世界正義論(著:井上達夫)を読みました

『リベラルは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないで下さい』、『憲法の涙』の著書、法学者井上達夫氏が世界正義について論じた一冊です。

両書読んだときから気になっていた本だったのですが、先だってコフィ・アナン元国連事務総長の回顧録を読み、一見むき出しのパワーの衝突のようであっても、各国がそれなりに筋を通しつつ外交を繰り広げているさまに触れ、これは何を筋として掲げるべきか考える材料が欲しいぞと思い、いよいよ本書を手に取ることになりました。

 

「国家の主権性と市民的政治的人権保障は一体不可分である。このことは、国家の正統性承認という政治面での、世界貧困問題の是正という経済面での、国際社会でいかなる武力公使が正当かという安全保障面での、世界正義論を成立せしめる。世界の秩序形成においては中途半端な強さの国家の並立が望ましい。」(140字) 

 

もはや若干手垢がついた感がありますが、個人的には「人間の安全保障」というのはとても有効な概念なのではないかと考えていました。本書ではより厳密に人権保障が中核に据えられていたように思います。

 

国家がその領域内において特権的な地位を持ちうるのは、市民的政治的人権を保障しているからであって、「人権なくして主権なし」、それら人権を保障しない国家の正統性は国内からはもちろんのこと、諸外国からも認められるべきではない。(より具体的には、国内資源の処分と借款借受の権利を認めるべきではなく、諸外国はこれら取引を慎むべきである。)

また、1日5万人が貧困が原因で命を落としている状況については、社会経済的人権保障の問題であり、市民的政治的人権を保障している国家でも貧困から抜け出せないのは、自らの力の及ばない外的要因、資源賦存や世界経済の制度的阻害があるからと推定される。諸外国は、できうる範囲での支援をすればよいというものではなく、貧困国の社会経済的人権保障のため、制度的阻害要因を除去し、それによって被っている不利益を補償しなければならないという義務がある。

武力行使については、自衛目的のものに限定し、戦争遂行に当たっても方法を抑制的におさえる消極的正戦論が最も支持可能性が高い。 近年課題となっている人道的介入については、あくまで状況改善の主体は現地市民であることを尊重し、諸外国は体制転換を目的とした市民の試みをまずは非軍事的な方法で支援するべきであるが、ジェノサイドなど、そもそもそうした試みの主体自体の抹殺が図られるような時には軍事的な介入が要請される。

 

 すごく緻密に概念が定義され、議論が積み重ねられているのですが、ざっくりまとめるとこういう主張をされていたと理解しました。

 

 シリアやパレスチナなど中東の状況にしても、貧困の問題にしても、遠くの出来事として何もしなくてよくないのはなぜか、自分たちにも責任があって看過することはできないのはなぜか、一貫していてとても骨太な理論的根拠を示してもらったような気がします。

しかし、リベラルに立つはずの著者が、世界秩序を覇権性・階層性がない形で築くためには、世界政府や地域的連合でもなく、NGOなどの市民社会でもなく、国家というある意味一番オーソドックスな存在が主体となるべきであるという主張に行きつくのは、「あ、そうなんだ」と面白かったです。
こんな言い方するとですが、変に浮ついてなくて、地に足が付いていて、やはりちゃんとした議論をなさる方なんだなぁと改めて感じました。

 

はっきり言って使われている用語や言い回しはかなり難解です。
が、ロジカルに積み上げられた主張はかなり骨太です。時間をかけても読み解く価値がある一冊でした。

 

世界正義論 (筑摩選書)

世界正義論 (筑摩選書)

 

 

瞬間を生きる哲学<今ここ>に佇む技法(著:古東哲明)を読みました

時は過去から未来に向かってリニアーに続いているのではない。
一瞬一瞬が次々に立ち現われてきている。
その一瞬一瞬がどれだけ尊いことか。どれだけかけがえのない奇跡的なものか。

未来にだけ目を奪われることのもったいなさ、今この瞬間に秘められている生の息吹き、その生の息吹きを感じさせる技法としての芸術について書かれた一冊でした。

 

「本当の生は今この瞬間にしかない。しかし過去を下敷きにする人間の認識構造と、今この瞬間を生きる=忘我であるというそれ自体の存在論的理由により、今この瞬間を直接知覚することはできない。芸術はその忽然たる今この瞬間の生を追想的に表徴し、生命を息吹かせる技法の一種である。」(133字)

 

本書で、時間を連続にとらえるのではなく、瞬間瞬間がつど立ちあがってくるのであるという一ケースとして、人間自身、構成する60兆個の細胞は数日ですっかり入れ替わってしまうということが取り上げられていました。
同じようなくだりをどこかで目にしたなと思っていたのですが、それがシンギュラリティ論者のレイ・カールワイツの本の中だったと気付いてびっくり。
カールワイツの場合、だからこそ身体なんて本質じゃない、脳さえコンピューター上に移せてしまえばアイデンティティは保たれると展開するので、本書の論旨とは真逆な感じに行くわけで。
同じ事象からこうも違ったインプリケーションが出てくるとは。

 

万物が流転する無常生起のこの世・この生、未来にとらわれ過ぎず、本書のタイトルにある通り足許の今ここにもっと身を委ねる場面がもっとあってもいいなぁと思わせてもらいました。

 

瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)

瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)