スペキュラティブ・デザイン 問題解決から、問題提起へ(著:アンソニー・ダン、フィオーナ・レイビー)を読みました

副題の通り、デザインが違った未来のあり方についての想像を喚起するためにできること=スペキュラティブ・デザインについての考え方や事例を紹介した本。

 

既存のデザインのアプローチが、今あるニーズによく応える、商業的な、問題解決のためのものに偏っているという問題意識から、世界や未来の違ったあり方について考えを巡らせるきっかけとなるような、表現的な、問題提起のためのデザインについても、より積極的に取り組んでいくべき、と指摘しています。

例えば科学や技術について言えば、その現状を分かりやすく伝えたり、現実的な商品に結実させるためにデザインを用いるのが既存のアプローチだとすれば、それらが招来するかもしれない未来を象徴するプロダクトを具現化することで、未来について思いを巡らせ、何もしないままとは”違う”パラレルな未来を構想し引き寄せるようなアプローチがスペキュラティブ・デザインの例に当たります。

答えではなく問いを提起するスペキュラティブ・デザインは、それに触れた人の解釈に委ねる余白があるという点で、よりアートに近しい存在でもあるようです。

今ある姿かたち以外の可能性を認める、未来志向である、オープンエンドで創造の余地を残している、というあたりがとても余白探究的で、読んでいてワクワクしました。

余白探究のアプローチを分かりやすく人に伝えるためのいいヒントをもらったような気がします。

 

問いが同定された後の問題解決はAIがより上手にこなしていくようになるんだとすると、スペキュラティブ・デザイン的なアプローチで問い立てすることこそが人間が習熟していかなければいけない領域なのではないかと思いました。

 

スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。?未来を思索するためにデザインができること

スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。?未来を思索するためにデザインができること

 

 

おもてなし幻想-デジタル時代の顧客満足と収益の関係(著:マシュー・ディクソン、 ニック・トーマン、 リック・デリシ )を読みました

日経の書評で見かけて、逆説的なタイトルに惹かれて読んだ一冊。

 

顧客ロイヤルティを高めるために顧客の期待を上回る対応をしようとすることは効果的ではなく、むしろ顧客対応の仕方を間違えると顧客ロイヤルティを損なうことになる。
顧客は自己解決(セルるサービス)での問題解決を希望しているので、顧客対応はどちらかというと攻め(顧客対応によって付加価値をつけようとすること)より守り(誤った顧客対応を避けること)の方が大事。
その守りの側面で大事なのは、顧客の自分がしなければならなかった努力についての捉え方であって、なるべくセルフサービスで問題解決できるようタッチポイントを設計しなければいけない、というのが本書のコアでした。

 

詳しいテクニックについては本書に譲るとして、感じたことは、確かに顧客努力の低減というのが昨今の顧客のニーズに合っていそうだなということと、同時に本書の内容がコンタクトセンターの事例に偏っていてもうちょっとタッチポイント全般の作り方についてバランスよく論説されていたらよかったなぁということでした。

 

それでも引き算の顧客対応という視点は、人不足に陥っていくこれからの日本にとって新しくも有効な視点なのではないかと思いました。

 

おもてなし幻想 デジタル時代の顧客満足と収益の関係

おもてなし幻想 デジタル時代の顧客満足と収益の関係

 

 

宗教は人を救えるのか(著:釈徹宗)を読みました

アサダワタルさんの『コミュニティ難民のススメ』を読んだときに、住み開きを本書が取り上げていたことがきっかけで巻末対談をされていたのを目にし手に取った一冊。

 

仏教が中心ですが、キリスト教イスラム教その他の宗教も触れつつ、逃れられない苦しみや悲しみを引き受けながら人はどう生きていくのか、 その方向性を示そうとしている本でした。

避けられない苦しみ・悲しみとして取り上げられているのは老・病・死で、そのためALSを患いながらスペースALS-Dというアートスペースを仲間と立ち上げた甲谷匡賛さんや、自身は無神論者の立場に立ちながらガンと戦った宗教学者の岸本英夫さんについての紹介・省察もされています。

 

甲谷さんの事例から引き出しているように、苦悩を引き受ける手掛かりは、「明らかに知って」「あきらめる」ことのようです。少し長いですが該当箇所を引用します。

 

 「明らかに知る」は、自分の心と身体の状況を克明に観察すること、自分を取り巻く関係性を見つめること、自分が立っている位置や場を点検すること、見える世界を支えている見えない世界の声を聞くこと、そのような営みから始まります。
 そして究極的には「自分の都合」をいったんカッコに入れて、自分の都合を通さずにモノゴトを見る、それが「明らかに知る」ということです。
 「自分の都合」を通じてモノゴトを見ることの具合悪さがわかってきたら、「自分の都合」への執着が変化してきます。それが「あきらめる」へとつながっていくのではないか。

 

「明らかに知る」ためには「自分の都合」をわきに置いておくー言われてみれば全くその通りなのですが、何事も引き受けるためにはとても大切なことだなと改めて感じました。

 

 それと興味深かったのは仏教には「仮有の存在論」をとっているという話。それは確固たる実在としての自分というのはなくて、自分とは複数の要素が変転しながら構成されている集合的なものであるという考え方なのですが、仏教では自分への執着を持たないために、常に変わり続ける自分という考え方をとるようになっているそうです。つい最近読んだ平野啓一郎さんの本に出てきた「分人」が全く同じようなコンセプトで、あぁつながっているんだなぁと思いました。

 

 本書のどこかに、仏教の道とは、苦悩を抱えないで済むよう、身体と心を調えていくこと、あきらめて仏さまに委ねること、という内容の説明があったように記憶しています。あまりストレスを貯めたくないので、なるべく「こうでなくちゃ」というこだわりは持たないようにしてきたつもりですが、まだまだ自分起点の執着は捨てきれていないように思います。
 人生も中盤に差し掛かった今、もっとこだわらない姿勢を仏教から学ぶのもいいな、と思わせてくれる本でした。

 

 

 

ボランタリー経済の誕生ー自発する経済とコミュニティ(著:金子郁容、松岡正剛、下河辺淳)を読みました

ボランタリー・エコノミー研究会の3年間の研究活動を総括する意味で、20年前の1998年に出版された本。

windows98がやっとリリースされ、ブラウザはネットスケープがまだインターネットエクスプローラーより優位だったという時代に書かれたことを考えると、とてもいいところに目を付けた研究会だったのだなぁ、と思います。

 

バブル崩壊失われた10年を歩みつつあった日本国内の状況もあってでしょうか。

上意下達的なヒエラルキカルな組織や、むき出しの資本主義の行き詰まりを指摘し、水平的・相互編集的な関わり方のコミュニティによる自発的な経済循環に次なる道を見出そうという提言がなされています。

しかもそういった自発するコミュニティは、講や結、野沢温泉の野沢組の例のように、伝統的な日本の社会機構の中にすでに見出すことができる存在であって、何も新しいものではない、とも。

 

具体例として取り上げられていたケアセンター成瀬やライフケアシステムは、当時から利用者をお客様にせず、ともに支える支え手として参画させることで、柔軟かつヒューマンタッチな医療サービスをより低コスト・高効果で提供する取り組みがなされていたことを知れて興味深かったです。

同じく本書で紹介されていた「コミュニティ・メーカー」というインターネットサービスは、地域の掲示板機能を提供するもので、書き込み内容やテーマ設定について「拍手」「ブーイング」「納得」「はてな?」などのリアクションを示せる機能を備えていました。さながらFBの「いいね!」のようです。

 

惜しむらくは、20年も前にこれだけいい考察がなされながら、実社会のメジャーチェンジにはつながらなかったこと。医療・福祉の分野など、今多くの人が「こうなっていればいいなぁ」というアイデアや事例にたくさん行きついているのに、それが社会の主流には全然なっていないのがとってももったいない・・・

大学の研究・提言と社会での実践がもっとクローズに両輪としてまわっていくといいのになぁと感じてしまいました。

 

しかし目の付け所やカバーしているトピックなどは、まだ現在でも古びていないので一種の古典的に読むといい本かもしれません。

 

ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ
 

 

私とは何かー「個人」から「分人」へ(著:平野啓一郎)

アサダワタルさんの「コミュニティ難民のススメ」でリファーされていて読んだ一冊。

 

平野啓一郎さんと言えば『日蝕』書いた人くらいのイメージしかなかったのですが、小説を読むより先に論説から読むことになるとは思いませんでした。

しかも著者自身によるどういうつもりで各作品を書いたかという「つもり」話の解説付き!

ちょっとは小説読んでから本書読んでもよかったかなぁーとも思いました。

 

内容としては副題の通りで、「ブレない本当の私」というのは、絶対神に相対する一神教の信者にとって自然なあり方だけれども、もともと多神教に親しんでいる日本人には実はそうでもない。

むしろ人や場ごとにコミュニケーションを通じて形成されるそれぞれ違った顔が複数あることの方が自然で、それは「巧妙に使い分けている」と悪くとらえる必要はないことである。

この複数の顔こそが分人で、どのような人・場でコミュニケーションを重ねるかで移り変わっていくし、比重も変わっていく。その構成こそが私の個性を作っている。

 

アイデンティティーが複数あることは自然なことだし、無理してまとめる必要はない、むしろ時々で足場にできるアイデンティティーを選べる方が安心できるとも指摘されています。

個人的にも単線の生き方は危うさがあると感じていたのですが、それはこういう風に理由づけできるのか、と気づかされました。

 

鷲田清一さんの「じぶんーこの不思議な存在」を読んだときにも、わたしとは何か?はいくら自分の中だけに目を凝らしていても見えてこない、誰にとっての他人かがわたしを作ると書かれていたと記憶していますが、平野さんのいう「分人」の概念もかなり近いものがあるように思います。

何がしたいか分からないとか、自分の軸が定まらない、という方に時折出会うことがあるのですが、こういう分人の集合体が自分であると思えば、ブレ幅をポジティブにとらえられるんじゃないでしょうか。

 

遅ればせながらですが、今度は平野さんの小説も読んでみようと思います。

 

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

日本史のツボ(著:本郷和人)を読みました

確か日経の書評で見かけて読んでみました。

一般的に歴史の勉強って、時代を輪切りにする同時代史的見方ですると思うのですが、本書は日本史の流れを押さえられるようテーマごとに通史的に見ていくところが特徴だと思います。

 

取り上げられているテーマは、天皇、宗教、土地、軍事、地域、女性、経済の7分野。

 

外圧によって生まれた律令体制や、土地所有をめぐる天皇を頂点とする職の体系、古来の領土観(京都を中心とし、再訪に開けた博多までが大動脈で、関ヶ原など以東および博多以南は外地である)など、日本史の新しい見方を教えてくれる面白い本でした。

 

中でも印象的だったのは、やはり織田信長は稀代のイノベーターであったということ。

戦国大名が自領内の地方経営を主眼としていたところに、信長は流通を軸として考えて、分割された領土は商業の妨げになるので全部壊して日本全体をひとつとした流通網を作ろうとしていたそうです。

また職の体系によって曖昧になっていた土地の所有権の一元化を図るなど、統一的な権力の下での所有権を確立しようという志向が強くありました。(所有権を動産に拡大したものが楽市楽座。)

 

新書なのでちょっとあっさりしてますが、ざっと流れをつかむような読み方にはぴったりの一冊だと思いました。

 

日本史のツボ (文春新書)

日本史のツボ (文春新書)

 

 

世界のなかで自分の役割を見つけること(著:小松美羽)を読みました

なんででしょう、多分ネットサーフィンしててたまたま「へぇ、そういうアーティストがいるのね」と思ったのが、本書を手に取ったきっかけと思われます。

 

なので、ご本人の来歴も作品も一切知らないまま読んだのですが、人と人・人と見えない世界を魂でつなげるために絵を描いているという「つもり」の話や、アーティスト目線での世界に出ていくために必要なステップ・関係者(ギャラリー、キュレーター、コレクター、オークションハウスなどなど)の話など、「へぇ、そうなんだ」という内容があちこちにあって、楽しく読めました。

 

もちろん本を読んだら、作品現物を観にいきたくなります。
国内で常設されているのは、出雲大社に奉納された『新・風土記』という作品のよう。今度海士町に行くときにでも寄ってこれたらいいな~。

 

世界のなかで自分の役割を見つけること――最高のアートを描くための仕事の流儀

世界のなかで自分の役割を見つけること――最高のアートを描くための仕事の流儀