デジタル・ゴールド(著:ナサニエル・ポッパー)を読みました

ビットコインの誕生から2014年頃までの紆余曲折を、関わった人々の群像劇的に描いた一冊。
これだけの内容を説明調でなく、物語としてまとめたのがとても秀逸だと思います。
記憶に残っているのはマウント・ゴックスくらいでしたが、あの破綻劇がどんな文脈で、どんな社長のもとで起きていたのか、よく分かりました。

 

それにしても、ビットコインの熱烈な支持者が生まれた背景が、勝手に戦争したり、勝手に通貨価値を上げ下げする(紙幣を刷ったり、為替に介入したり)国家権力からの自由を希求するリバタリアン的思想にあったとは、さすがアメリカ(のある一面)らしい。

 

あと、IT・金融系の投資家・企業家たちがどんな形で出会い、どうやって事業を興していくのか、という観点で読んでも面白い本だと思います。

「ああ、物事はこういうインナーサークルで動いて行くのね」と。

それはこのプロセスから全く疎外され、大きな格差に疑問を持ち、反発する人たちがたくさん出てくるのも無理はないです。

 

ちょうど久しぶりに小説が読みたい気分だったので 、まぁ半分くらいは満たされた感じがしました。

デジタル・ゴールド──ビットコイン、その知られざる物語

デジタル・ゴールド──ビットコイン、その知られざる物語

 

 

大卒無業女性の憂欝(著:前田正子)を読みました

取り上げられているケース・データや背景の考察が関西に偏っており、全国的に大卒無業女性がどうなっているのか、という全体像はつかみきれませんでした。
正直、タイトルはちょっと盛り気味かもしれません。

※関西で大卒無業女性が多いと主張されていますが、全国平均8.7%に対し大阪府9.6%なので、関西について論じれば問題の大勢はつかめる、というものでもないと思います。

「現在女子大生の8.7%、約2.2万人が無業状態で卒業する。特に関西ではその割合が約1割に達する。関西は地域的に専業主婦志向が強く、男性や親が仕事を続けることをよしとせずまたロールモデルとなる働く女性に触れ合う機会が少ないため、本人のキャリア意識が希薄なまま大学に進学・通学するからである。」(139字)

本書の個人的なハイライトは、全6章中5章は未婚大卒女子についての考察ですが、それとは別に、1章既婚の無業女性について働けない理由の分析がなされていたこと。

一億総活躍の号令のもと、働く女性が子どもを産むことに感じるハードルを下げるべく待機児童の解消などの施策がうたれていますが、それに比べると、すでに家庭に入り子どもを産んだ女性が働きに出やすくする施策は打ち出し不足の感が否めません。

両者は同じことのようですが、例えば認可保育園の入園審査時の点数評価が母親が在職したまま産休・育休に入っている子どもの方が、いったん退職しこれから復職しようという母親を持つ子どもより一般的に高いということにもあられているように、細かく見ていけば全く違った(もしかしたら正反対の)ベクトルが働いています。

今現在繰り出されてくる政策から透けて見える政治からのメッセージを超単純化してしまうと、「働く女性には(結婚し)子どもを産んで欲しいが、家庭に入り子どもを産んだ女性にはそんなに働いて欲しくない」となってしまうのではないか・・・。

このあたりには、時の政権の「家族観」も大きく影響するように思えてなりません。

 

本書でも指摘されていたロールモデルに触れる機会が少ないために女子大生のキャリア意識が育たないという問題を解消するには、今働いている女性が子どもを持ちやすくすることもさることながら、今働いていない子どもを持つ女性が働きやすくすることも同じくらいかそれ以上に大事なのではないかと思いました。
そういう女性が増えていくことは、女子大生のみならず、働きつつも結婚・出産をためらっている女性たちにとっても心強いことなんじゃないかなぁ。

 

一見遠回りのようですが、子どもを増やしたければ、これから産む女性たちより(あるいは並行して)、すでに産んだ女性たちへのサポートを手厚くするのが近道なのかも。
改めてそんなことを思いました。

 

大卒無業女性の憂鬱―彼女たちの働かない・働けない理由

大卒無業女性の憂鬱―彼女たちの働かない・働けない理由

 

 

テクノロジーは貧困を救わない(著:外山健太郎)を読みました

著者はマイクロソフト・リサーチ・インドの共同設立者。
テクノロジーは貧困問題の解決に寄与しうるのか/そうではないのか、寄与しうるとしたら/寄与できないとしたら、それはどんな条件の時なのかをリサーチしてきた経験をまとめ、考察したのが本書です。

 

「テクノロジーは既存の傾向を増幅し、無から有を生まない。先立つプラスの人的能力、心(意図)・知性(判断力)・意志(自制心)が必要である。テクノロジーのばらまきに比べ不足しがちな内面の成長をメンター的に後押しする介入は、私たち自身成長し願望を自己超越的対象に拡大することで増やせる。」(139字)

 

アクセスさえ提供すれば、あとは自動的に全てが解決されるー。
そんなテクノロジー楽観主義を著者は一蹴します。

エジプトでの革命もfacebookがあったから実現したわけではなく、すでに市民の間に不満がたまっており、それらを共有し運動を組織化するのにぴったりな仕組みだったからfacebookが使われただけ。
一時華々しく喧伝された「ワン・ラップトップ・パー・チャイルド」(子ども一人に1台のノートPCを支給し教育に活用しようというプロジェクト)も教育的効果を生んだという結果には至らなかった。
「ホール・イン・ザ・ウォール」(スラムの壁にPCを埋め込んでネットアクセスを提供し自己学習等に活用してもらおうというプロジェクト)もまた然り。

 

そして計測され目につきやすいものに飛びつく安易さを戒める著者は、貧困を含む社会問題を解決するには、効果が測りづらく、成果が出るのにも時間がかかって粘り強い並走が必要となる人間の内面の成長を促すことこそ重要であると指摘します。
そして被助言者にとっても助言者にとっても、こうした活動にコミットし続けるためのキードライバーとして位置付けられているのが願望です。
『私たちに救える命』のピーター・シンガーも引きつつ、自分も含めて今幸福に生きられている人たちそしてその人たちの集まりである社会は、その願望の対象を自己にとどめず他者をも含むものに拡張することによって、 安直な一見解決策のように見えるものを避け、真に必要な内面的成長への粘り強い並走にもっと踏み出さなければならないと主張するのです。

 

技術オタクを自任する著者が重ねてきた様々な試行錯誤の末の著作なので、取り上げられている事例も直接関わったものであり、主張のひとつひとつに説得力があります。

開発・貧困の分野における議論の時流や幅も十分押さえられていて、とても読み応えがありました。
なかでも「おぉ」と思ったのが、ジェフリー・サックスとウィリアム・イースタリーの、ある意味イデオロギーチックな論争をまぁまぁととりなした『善意で貧困はなくせるのか?』で提起されていたランダム化比較試験までもが、本書ではやり玉に挙がっていたこと。
すなわち、計測できるよう条件をコントロールしている時点で対象群は一定の介入にさらされているケースがあり(モラルが上がるなどして)効果が上がることが運命づけられているようなものであるという方法論的な観点や、計測できないけれども大事なことがあるというそもそも論的な観点での批判がありました。

 

ランダム化比較試験を取り入れたプロジェクトは「おお、これこそ今後の主流かも」と思ったのですが、やはりと言うか、ことはそんなに単純ではないようで、開発の世界において自分が行う介入の立ち位置・性格付けをどう客観的に見ていくかは、なにかに寄りかからず常に自己点検を怠らないことが必要なんだなぁと考えさせられました。

 

 

テクノロジーは貧困を救わない

テクノロジーは貧困を救わない

 

 

 

仕掛学(著:松村真宏)を読みました

もともと人工知能の研究者だった著者が、データ化されていない事象の多さに直面し、データに頼らず人の行動を促すにはどうしたらいいか思い悩んでたどりついたのが「仕掛け」。

例えば、問題解決につながる行動を促す「仕掛け」として、男性用便器の的や、駐輪スペースに引かれた斜線、バスケットゴールに擬せられたゴミ箱、などが取り上げられていました。

それらはいずれも、①公平で(誰も不利益をこうむらない)、②誘因的で(行動が誘われる)、③目的が二重(仕掛ける側と仕掛けられる側の目的が異なる)である、という特徴があって、この3要素が「仕掛け」と「非仕掛け」を分ける要件とされています。

 

行動経済学で取り上げられる「ナッジ」(肘でそっと押して行動を促すという意味)と比較すると、「ナッジ」は人があまり考えずに選択をしても不利益をこうむらないように選択肢を設計する(デフォルトの選択肢の設計)のに対し、「仕掛け」はつい選びたくなるもうひとつの行動を設計する(オルタナティブな選択肢の設計)とのこと。

 

著者曰く、「仕掛学」という新しい学問領域を立ち上げるため、「仕掛学」の考え方を広く知ってもらいたくものした入門書なんだそうです。
内容は極めて実用的ではあるのですが、果たして学問として成り立つだけの独自の方法論が確立し、分析・研究の厚みが出ていくんでしょうか・・・

 

あ、読み物と事例集として読むのであれば、面白い一冊だとは思います。

 

仕掛学

仕掛学

 

 

日本会議の研究(著:菅野完)と神道の入門書を読みました

裁判沙汰にもなった話題作「日本会議の研究」。
2度目は読まないだろうと思い、図書館で延々待ってようやっと読みました。

随分待ったので、その間に神道の入門書で予習してみました。

去年仏教の本は何冊か読みましたが、そういえば神道の成りたちとか教義とか知らないなぁと思い当たり、いいきっかけかとも思って、毛色の違う3冊をチョイス。

神道入門(著:戸矢学)は、本当の神道の概説書。神話や、神道にルーツがある風習、神さまの系譜など、幅広く紹介されています。

「日本人の神」入門(著:島田裕巳)は、特に日本人にとって神とはどういう存在と捉えられてきたのか、どんな神を祀ってきたのか、が解説されています。

神道入門(著:井上順孝)は、神道を伝えてきたメディアとして、見える神道・神社/教団組織と、見えない神道・文化/習俗、の歴史をひも解いています。

3冊通読して感得した主なポイントは、

神道には、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランなど教典がない、という意味で教義はない。

神道を通じて見える日本人にとっての「神」とは、人智を超えた力に対する畏怖の念を体化した存在である。(だから山などいろんな自然物がご神体となり、菅原道真など死後の祟りをなだめるために神に祀られる人もいる)

神道は時の政治権力の影響を受け、神や、神にまつわるストーリーが塗り替えられてきたし、宗教としての特権性も変わってきた。特に仏教とは一時、神仏習合といって表裏一体のような関係にあったが、維新後神道を非宗教化するため仏教と切り離された。

ということ。
初詣や七五三は神社、除夜の鐘や葬式はお寺、というよくよく考えたら宗教的にはチャンポンな生活ぶりですが、歴史的経緯を踏まえると、それも無理からぬことで、それはそれでいいんだな、と思えるようになりました。

 

それを踏まえての「日本会議の研究」ですが、知られなきゃしれっと思い通りにできただろうに、当事者たちにすれば騒がれてイヤだっただろうなというのが率直な感想です。

「国会にも多数の議連参加者を擁する日本会議の中核は、生長の家学生連合にルーツを持つ日本青年協議会の人々である。その政治的アジェンダは、反現行憲法(自主憲法制定、自衛隊国軍化、緊急事態条項追加)、伝統的な皇統の継承、家族の固守(夫婦別姓反対、反ジェンダーフリー)にある。」(133字)

 

理念の当否はいったん置くとして、刮目すべきは、本書で紹介されていた草の根での動員システムの緻密さ。
これこそが今優勢な勢力にあって、劣勢な勢力にないものだと思いました。

しかし、厳密なところは票数のシェアを確認しないとなのでしょうが、自民党さえも宗教票を恃んでいる(連立相手は別にしても)としたら、日本では宗教以外の一体何をベースに政治へのコミットメントを引き出すことができるのだろうか・・・

グローバルにも、ナショナルにも、薄くて広い一般利益を守るための具体的な指針が求められているように思えてなりません。

 

日本会議の研究 (扶桑社新書)

日本会議の研究 (扶桑社新書)

 

  

神道入門

神道入門

 

  

  

神道入門 日本人にとって神とは何か (平凡社新書)

神道入門 日本人にとって神とは何か (平凡社新書)

 

 

最後の秘境東京藝大-天才たちのカオスな日常(著:二宮敦人)を読みました

東京藝大在学中の妻を持つ著者が、藝大生・OB/OGへのインタビューを重ねてつづった一冊。

優雅で折り目正しい音楽学部”音校” 、バンカラで自由な美術学部”美校”と、両学部での藝大生の生態は一見対照的だが、その奥底には「アートから離れたくても離れられない」、「作品と人生がつながっている」、という共通点があるよう。

入学時に「数年に一人天才が出ればいい」と学長に言われ、卒業後は半数が行方不明という、傍目にはリスクいっぱいの進路を敢えて選んだワカモノたちが、試行錯誤しながらそれぞれの道を進んでいこうとする姿が愛情たっぷりに描かれています。

神輿やミスコンなど、音校と美校の合作がいろいろ見られる藝大祭、一回行ってみたいなぁ。

 

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

 

 

<インターネット>の次に来るもの-未来を決める12の法則(著:ケヴィン・ケリー)を読みました

著者は元ワイアードの編集長。
今現在インターネットやコンピューティングについて作用している技術的傾向を分析・分類し、それが今後どのような帰趨をもたらすか、避けがたい未来(原題は THE INEVITABLE)はどのような姿かを素描した一冊。

 

「自分も自分を取り巻くモノや環境もデータ化され、ネット上にストックされるようになった。しかも潤沢にあり過ぎてスマートマシンの助力なしには選べない。今や最も希少なのは人間の経験とアテンションである。この傾向は今後ますます加速していく。今は避けがたい大きな変動の始まりの時期である。」(138字)

 

キーワードとして現在進行形の12個の動詞が挙げられているのですが、個人的にもっとも興味深かったのは FILTERING の章。

選ぶ側の人間からしたらフィルタリングであることも、選ばれる側からしたら人間のアテンションの奪い合いであって、それを仲介するプラットフォーム・サービスとしてはまだまだ未開拓の分野がいっぱいあるとのこと。

一例として挙げられていたのが、メールを読むことに対して課金できるサービス。
ある文脈で影響力が高い人(インフルエンサーであるなど)には、高い料金を提示してでもメールを読んでもらう価値がある場合がある。
友人やネットワークへの影響力が測れるようになってきた今なら、こんな仕組みも作れるんじゃないかと構想されてました。

それとコモディティー化した対象へのアテンションは低い価値しか持たないが、希少性の高い対象へのアテンションは高い価値を持ちうるという指摘もされていました。(言われてみれば当たり前ですが)
テクノロジーが発達するにつれモノはどんどんコモディティー化していく一方人間の経験は唯一希少性が高いものとして残っていくだろうと著者は指摘していて、そうであれば経験に対するアテンションを獲得するサービス・プラットフォームはいいビジネスになるのかもしれません。

 

それとこういうフィルタリングが進むと逆に問われるのは、自分はいったい何者か、何を望んでいるのかという問いで、過去の自分の選択を知っているフィルタリングは自分を映す鏡のような存在になっていくのでは、という指摘もされていました。
だからテクノロジーが人間を画一化しコモディティー化するという恐れは間違っていて、むしろパーソナライズされていくフィルターを使うことで自分自身も形作らていくのである、というのは新しい見方でした。

 

大著につき一読しかしていないのですが、カバーしているトピックが幅広いこともあり、時を置いて二度・三度読むとその時々で違ったインスピレーションが得られそうな本だと思います。

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則

〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則