「生きづらさ」について-貧困、アイデンティティ、ナショナリズム(著:雨宮処凛・萱野稔人)を読みました

今から10年前、2007年11月~12月にされた対談をまとめた一冊。
非正規雇用ゆえの所属の不安定さ→社会的承認の不足(欠如)→ナショナリズムへの一種逃避という流れがあったことを、実体験も交えつつ解き明かしています。

 

「終身雇用が崩壊し流動化した日本社会では、仕事や社会での自分の立ち位置を得るため高度なコミュニケーション能力が求められる。それがなければ仕事、収入、所属先、社会的承認を一気に失う。そうして不安定な立場に追いやられた人たちが、国籍を持つだけで所属できるナショナリズムに逃避している。」(139字)

 

このナショナリズムに走る背景にあるものって、アメリカ大統領選でトランプを勝たせた構図と似ていなくもない気がします。 
仕事が不安定(または失業している)、それは移民と、もしくは海外の低賃金で働くやつらと仕事を奪いあっているからだ、周縁化されているけれども自分たちはアメリカ人だ、Make Amrica Great again、America first。

 

本書は10年前の日本の社会的状況を巡って書かれたものですが、イスラム原理主義に走る若者の話でも、アメリカの保守派とキリスト教福音主義の結びつきの話でも、はたまたヨーロッパで躍進しつつあるポピュリズムの話でも、自分たちにとって「本来的で正当なもの」(多分英語で言うところのauthenticity)への凝集とそこに所属することで得られる承認みたいなことが通じているんじゃないかと思いました。

 

それにしても、当時派遣業(特に製造業へのスポット的な)がここまで悪どいビジネスモデルで動いていたとは知りませんでした。
働き手が足りない足りないと喧伝されている現在の状況からすれば、そんなに低賃金しか払えない生産性の仕事に人をつぎ込むことはもはや贅沢なんじゃないかとすら思えるのですが、果たして今はどうなっているんでしょう…

 

 

「生きづらさ」について (光文社新書)

「生きづらさ」について (光文社新書)

 

  

観劇のあとさき

年に1、2本ですが、演劇を観ます。
公演関係者の方から声をかけてもらった時、自分の都合の調整が付けば断らないようにしていると、だいたいそのくらいの頻度になるみたいです。
先日も劇場ではなく、民家を本拠地として作品を公演されているゲッコーパレードさんの『ハムレット』を観てきました。

演劇に限らず各種コンサートやライブ、ショーなど、パフォーミング・アーツは、その場・その時限りの一回性がとても強いので、そこに臨席できることはとっても贅沢な時間の過ごし方だなぁと思っています。

 

わけても演劇は、ちょっと他では味わえない特別な心地が味わえるので、実は結構好きだったりします。

何がってやっぱり、そうじゃない作品ももちろんありますが、観ている最中、筋書きというか、ストーリーが追えない、意味が分からない、っていう展開に出くわすことがあるのですが、これが自分にとってはとてもとてもレアな経験で。

そういう非論理的な、不条理な経験って、普段ふつうに暮らしているとなかなかしないもんじゃないですか。あるいは、あったとしても、自分なりに説明をつけたり、やり過ごしたりして、すぐに消化できてしまう。
でも、演劇で出くわす意味不明はそんなに簡単に消化できない。すぐには乗り越えられない。

だから、言ってみれば、自分はまた分からなさを味わいたいがために、演劇を観に行っているんだと思います。

 

そして自分にとって観劇が一番味わい深くなるのは、受け取ってきてしまった意味不明さやもやっとした感じが、観劇後折々のタイミングでふと上がってきたり、あるいは自覚的にためつ・すがめつしてみたりして、「あれは自分にとってはこういう風に受け取れる」、「こういうことを伝えたかったんじゃないか」と想いを巡らせるとき、独り言みたいなものですが作り手の人(たち)と脳内対話をくりひろげているとき、だったりするのです。
それこそ誘ってくれた方とかに「あれってこういうことよね?」と聞いてみたい衝動にも駆られますが、そこはあえて確かめずにずっと自分の中に畳みこんでお酒のように発酵させ続け、思い出せばまた覗き込んでくんくんしてみたり。

 

とまぁ、こんな感じの姿勢で観劇に臨むためもあって、行けば席に置かれている例のアンケートにお答えするのがとっても苦手で、出さずに(出せずに)失礼してくることが大抵です。関係者のみなさん、ごめんなさい。
ただ、その時点で書けるものが本当の自分の感想・気持ちじゃないよなぁというのをよくよく自覚しているので、一生懸命作って下さった作品に差し出すには薄っぺら過ぎてとてもとても、という感じなのです。
(ちなみに同じような理由で、終幕直後に役を抜けた役者の方とお話しするのも、ちょっと苦手です。一人遊びできる余韻というか、余白を残しておきたくって。)

 

だから、関係者の皆さん。
こんな私ですが、どうかお気を悪くなさらず、これからもお声掛け下さいね。

シリア難民(著:パトリック・キングスレ-)を読みました

素晴らしいルポであればあるほど、これが現実に今起きていると思うといたたまれなくなる、そんな本です。

 

「あるシリア人難民のスウェーデンへの旅程を追いつつ、ヨーロッパを目指す難民が直面する現実を描いた一冊。難民はどれだけ危険でもそれがましな選択肢だから地中海を渡るので移動を食い止めるのは不可能である。現状、難民は移動中・移動後も迫害されている。秩序だった受け入れが必要である。」(136字)

 

タイトルはシリア難民と付けられていますが、それは本書の半分の内容。
家族呼び寄せがしやすいからとヨーロッパの中でも北方に位置するスウェーデンを目指した一人の難民の旅路を追う章と、シリア発に限らず西アフリカやアフガニスタン難民も含め、地中海を渡りヨーロッパに入ろうとする難民たちを描いた章が交互にやってきます。

 

正式なビザやパスポートさえ持たないため、難民たちは公共交通機関を使うことができず、何倍もコストがかかり何倍も危険度が高い密航業者をたよって移動しています。
難民を乗せた船の転覆事故が相次いだ地中海で何が繰り広げられ、車の荷台でぎゅうぎゅう詰めにされた難民が多数亡くなるという事件がなぜ起きたのか、その背景が本書でよく分かりました。

 

もともと祖国に居られなくなったからこそ脱出を図ったのに、一時滞在した中東の国々でも差別を受け、さらに命を危険にさらして海を渡ることを余儀なくされ、辛くもヨーロッパに渡ってからも、目当ての国にたどりつく前に捕まって送還されないかと怯え、人間らしい扱いを受けられない。
あまりにも悲惨すぎて言葉が出ません。

 

「近くで起きなくて良かった」では済まされないー。

ニュースでは顔を持たない塊りとしてしか扱われませんが、難民となった人たち、押し寄せられた欧州各地の人たち、ひとりひとりがどんな現実に直面しているのかちゃんと知るための一歩目として、本書は貴重な資料だと思います。

 

シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問

シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問

 

 

介入のとき-コフィ・アナン回顧録【上】・【下】(著:コフィ・アナン)を読みました

1997年~2006年、国連事務総長を務めたコフィ・アナン氏の回顧録。
次から次に起こる人道危機に際し、内紛当事国のトップや安保理常任理事国の首脳・外相との息の詰まるような協議・交渉の様子が生々しく描かれています。

「コフィ氏は、国連を構成メンバーたる主権国家ではなく、憲章の主体たる「われら人民」のための組織とするべく変革を試みた。具体的には「保護する責任」の概念を打ち立て主権を隠れ蓑として使えないようにし、ミレニアム開発目標を設定し貧困の解決へのグローバルなコミットメントを高めた。」(135字)

 

上下巻に分かれたこの本は、細部にこそ読み応えが詰まっています。
自前の資金的・軍事的リソースを持たず加盟国の拠出に依拠している国連にあって、各国のある意味利己的な利害関心と地球益をどう調和させていくか、道徳的・道義的になされなければならないことにどう注意と資源を注ぐよう促していくか。

今この時の判断・決定次第で、数千・数万の人の生命の行方が変わってしまうかもしれない。
そんな緊迫した状況での外交交渉のやりとりは読んでいて息が詰まりそうになります。

ものすごい忍耐とコミュニケーションスキルが求められる職責なのだなぁと思い知らされました。

 

中東和平のプロセスがどう構築されていったのか本書で初めて知りましたし、イラク戦争についても、開戦に至るまでの安保理でのやりとりが振り返られていますが、安保理の承認がない中での武力行使がいかに重い意味を持っていたのか改めて気付かされました。

 

複雑な現実に対応しながら理想を求めたアナン氏の姿勢は、ポピュリズムが台頭し内向きになる国が増える今グローバル・ジャスティスをどう形成していけばいいのか、ヒントを示しているように思えます。

 

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(上)

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(上)

 

 

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(下)

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(下)

 

 

デジタル・ゴールド(著:ナサニエル・ポッパー)を読みました

ビットコインの誕生から2014年頃までの紆余曲折を、関わった人々の群像劇的に描いた一冊。
これだけの内容を説明調でなく、物語としてまとめたのがとても秀逸だと思います。
記憶に残っているのはマウント・ゴックスくらいでしたが、あの破綻劇がどんな文脈で、どんな社長のもとで起きていたのか、よく分かりました。

 

それにしても、ビットコインの熱烈な支持者が生まれた背景が、勝手に戦争したり、勝手に通貨価値を上げ下げする(紙幣を刷ったり、為替に介入したり)国家権力からの自由を希求するリバタリアン的思想にあったとは、さすがアメリカ(のある一面)らしい。

 

あと、IT・金融系の投資家・企業家たちがどんな形で出会い、どうやって事業を興していくのか、という観点で読んでも面白い本だと思います。

「ああ、物事はこういうインナーサークルで動いて行くのね」と。

それはこのプロセスから全く疎外され、大きな格差に疑問を持ち、反発する人たちがたくさん出てくるのも無理はないです。

 

ちょうど久しぶりに小説が読みたい気分だったので 、まぁ半分くらいは満たされた感じがしました。

デジタル・ゴールド──ビットコイン、その知られざる物語

デジタル・ゴールド──ビットコイン、その知られざる物語

 

 

大卒無業女性の憂欝(著:前田正子)を読みました

取り上げられているケース・データや背景の考察が関西に偏っており、全国的に大卒無業女性がどうなっているのか、という全体像はつかみきれませんでした。
正直、タイトルはちょっと盛り気味かもしれません。

※関西で大卒無業女性が多いと主張されていますが、全国平均8.7%に対し大阪府9.6%なので、関西について論じれば問題の大勢はつかめる、というものでもないと思います。

「現在女子大生の8.7%、約2.2万人が無業状態で卒業する。特に関西ではその割合が約1割に達する。関西は地域的に専業主婦志向が強く、男性や親が仕事を続けることをよしとせずまたロールモデルとなる働く女性に触れ合う機会が少ないため、本人のキャリア意識が希薄なまま大学に進学・通学するからである。」(139字)

本書の個人的なハイライトは、全6章中5章は未婚大卒女子についての考察ですが、それとは別に、1章既婚の無業女性について働けない理由の分析がなされていたこと。

一億総活躍の号令のもと、働く女性が子どもを産むことに感じるハードルを下げるべく待機児童の解消などの施策がうたれていますが、それに比べると、すでに家庭に入り子どもを産んだ女性が働きに出やすくする施策は打ち出し不足の感が否めません。

両者は同じことのようですが、例えば認可保育園の入園審査時の点数評価が母親が在職したまま産休・育休に入っている子どもの方が、いったん退職しこれから復職しようという母親を持つ子どもより一般的に高いということにもあられているように、細かく見ていけば全く違った(もしかしたら正反対の)ベクトルが働いています。

今現在繰り出されてくる政策から透けて見える政治からのメッセージを超単純化してしまうと、「働く女性には(結婚し)子どもを産んで欲しいが、家庭に入り子どもを産んだ女性にはそんなに働いて欲しくない」となってしまうのではないか・・・。

このあたりには、時の政権の「家族観」も大きく影響するように思えてなりません。

 

本書でも指摘されていたロールモデルに触れる機会が少ないために女子大生のキャリア意識が育たないという問題を解消するには、今働いている女性が子どもを持ちやすくすることもさることながら、今働いていない子どもを持つ女性が働きやすくすることも同じくらいかそれ以上に大事なのではないかと思いました。
そういう女性が増えていくことは、女子大生のみならず、働きつつも結婚・出産をためらっている女性たちにとっても心強いことなんじゃないかなぁ。

 

一見遠回りのようですが、子どもを増やしたければ、これから産む女性たちより(あるいは並行して)、すでに産んだ女性たちへのサポートを手厚くするのが近道なのかも。
改めてそんなことを思いました。

 

大卒無業女性の憂鬱―彼女たちの働かない・働けない理由

大卒無業女性の憂鬱―彼女たちの働かない・働けない理由

 

 

テクノロジーは貧困を救わない(著:外山健太郎)を読みました

著者はマイクロソフト・リサーチ・インドの共同設立者。
テクノロジーは貧困問題の解決に寄与しうるのか/そうではないのか、寄与しうるとしたら/寄与できないとしたら、それはどんな条件の時なのかをリサーチしてきた経験をまとめ、考察したのが本書です。

 

「テクノロジーは既存の傾向を増幅し、無から有を生まない。先立つプラスの人的能力、心(意図)・知性(判断力)・意志(自制心)が必要である。テクノロジーのばらまきに比べ不足しがちな内面の成長をメンター的に後押しする介入は、私たち自身成長し願望を自己超越的対象に拡大することで増やせる。」(139字)

 

アクセスさえ提供すれば、あとは自動的に全てが解決されるー。
そんなテクノロジー楽観主義を著者は一蹴します。

エジプトでの革命もfacebookがあったから実現したわけではなく、すでに市民の間に不満がたまっており、それらを共有し運動を組織化するのにぴったりな仕組みだったからfacebookが使われただけ。
一時華々しく喧伝された「ワン・ラップトップ・パー・チャイルド」(子ども一人に1台のノートPCを支給し教育に活用しようというプロジェクト)も教育的効果を生んだという結果には至らなかった。
「ホール・イン・ザ・ウォール」(スラムの壁にPCを埋め込んでネットアクセスを提供し自己学習等に活用してもらおうというプロジェクト)もまた然り。

 

そして計測され目につきやすいものに飛びつく安易さを戒める著者は、貧困を含む社会問題を解決するには、効果が測りづらく、成果が出るのにも時間がかかって粘り強い並走が必要となる人間の内面の成長を促すことこそ重要であると指摘します。
そして被助言者にとっても助言者にとっても、こうした活動にコミットし続けるためのキードライバーとして位置付けられているのが願望です。
『私たちに救える命』のピーター・シンガーも引きつつ、自分も含めて今幸福に生きられている人たちそしてその人たちの集まりである社会は、その願望の対象を自己にとどめず他者をも含むものに拡張することによって、 安直な一見解決策のように見えるものを避け、真に必要な内面的成長への粘り強い並走にもっと踏み出さなければならないと主張するのです。

 

技術オタクを自任する著者が重ねてきた様々な試行錯誤の末の著作なので、取り上げられている事例も直接関わったものであり、主張のひとつひとつに説得力があります。

開発・貧困の分野における議論の時流や幅も十分押さえられていて、とても読み応えがありました。
なかでも「おぉ」と思ったのが、ジェフリー・サックスとウィリアム・イースタリーの、ある意味イデオロギーチックな論争をまぁまぁととりなした『善意で貧困はなくせるのか?』で提起されていたランダム化比較試験までもが、本書ではやり玉に挙がっていたこと。
すなわち、計測できるよう条件をコントロールしている時点で対象群は一定の介入にさらされているケースがあり(モラルが上がるなどして)効果が上がることが運命づけられているようなものであるという方法論的な観点や、計測できないけれども大事なことがあるというそもそも論的な観点での批判がありました。

 

ランダム化比較試験を取り入れたプロジェクトは「おお、これこそ今後の主流かも」と思ったのですが、やはりと言うか、ことはそんなに単純ではないようで、開発の世界において自分が行う介入の立ち位置・性格付けをどう客観的に見ていくかは、なにかに寄りかからず常に自己点検を怠らないことが必要なんだなぁと考えさせられました。

 

 

テクノロジーは貧困を救わない

テクノロジーは貧困を救わない