ブロックチェーンの衝撃(著:ビットバンク株式会社&『ブロックチェーンの衝撃』編集委員会)を読みました

ビットコインを成立せしめた技術的バックボーン、ブロックチェーンの基本原理と応用範囲について、2016年6月時点でまとめた一冊。

 

「ブロックチェーンは、取引プロトコルの設計により、ピア・ツー・ピアネットワークにおいて、中央のサーバーや管理者不在でも、不正を起こせずダウンしない分散型の台帳を実現した。これは大規模なシステムや管理者への信頼を不要とする破壊的技術であり、金融や有価証券、書類の公証に活用可能である。」(140字)

 

本書では取引のブロックチェーンへの記帳の法的位置づけについても検討されていました。

一読して到達した結論としては、特に金融系のシステムを作っている人たちには破壊的になりうるかもしれないけど、エンドユーザーとしてこの技術の破壊性を享受できるようになるためには、まず社会の側で結構な制度変化が起きることが必要、というものでした。

 

とどのつまりは、ブロックチェーンはあくまで台帳なので、いくらそれが価値ある内容の取引を保存していたとしても、それが単体で価値を持つことはない。
記載内容が価値を持つものとして受け入れられて初めて、価値の流通・移転まで含めて取引を完結できる仕組みになる。
極端な話、それまでは単に安くて、安全で、安定している、『破壊的なメモ』でしかない。

一番のポイントは、仮想通貨(これ自体ブロックチェーンの一形態ですが)がどこまで普及するかではないでしょうか。
お金の決済ができなければ取引がクローズできないでしょうから。

その意味で、本書でも取り上げられていましたが、地域通貨の基盤システムとしての活用というのは、相性がよさそうな仕組みだと思いました。

 

「旅行」と絡めても考えてみたのですが、お金の決済が別システムになるとしたら、いわゆる「予約台帳」として活用するくらいかなぁと。要は楽天トラベルとかじゃらんとかのサーバーをブロックチェーンに置き換えて、代わりに宿から徴収する手数料を下げるという。
ビットコインで決済まで済ませられれば、さらにサービスとしての包括性は高くなると思います。その意味ではインバウンドの予約システムとしての方が立ち上がりやすいんでしょうかねぇ。
expediaやbooking.comを向こうにまわして日系のOTAが今から一発逆転するには、ブロックチェーンを使った予約管理・決済システムを先に作ることくらいしかないんじゃないでしょうか。

 

仮想通貨の流通と言えば、最近沖縄で琉球コインというオリジナルの仮想通貨を作る構想を記事で読みました。(その構想の一員に本書著者のビットバンク株式会社も噛んでるみたいですね)
決済まで含めて完結する環境が整ったら、沖縄で一気にイノベーションが進む可能性があるかもしれないですね。
もはや円さえも交換可能な一通貨とかになったとしたら、沖縄にとってその他日本の必要性ってどうなっていくんでしょう・・・。

ブロックチェーンの衝撃

ブロックチェーンの衝撃

 

 

世界正義論(著:井上達夫)を読みました

『リベラルは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないで下さい』、『憲法の涙』の著書、法学者井上達夫氏が世界正義について論じた一冊です。

両書読んだときから気になっていた本だったのですが、先だってコフィ・アナン元国連事務総長の回顧録を読み、一見むき出しのパワーの衝突のようであっても、各国がそれなりに筋を通しつつ外交を繰り広げているさまに触れ、これは何を筋として掲げるべきか考える材料が欲しいぞと思い、いよいよ本書を手に取ることになりました。

 

「国家の主権性と市民的政治的人権保障は一体不可分である。このことは、国家の正統性承認という政治面での、世界貧困問題の是正という経済面での、国際社会でいかなる武力公使が正当かという安全保障面での、世界正義論を成立せしめる。世界の秩序形成においては中途半端な強さの国家の並立が望ましい。」(140字) 

 

もはや若干手垢がついた感がありますが、個人的には「人間の安全保障」というのはとても有効な概念なのではないかと考えていました。本書ではより厳密に人権保障が中核に据えられていたように思います。

 

国家がその領域内において特権的な地位を持ちうるのは、市民的政治的人権を保障しているからであって、「人権なくして主権なし」、それら人権を保障しない国家の正統性は国内からはもちろんのこと、諸外国からも認められるべきではない。(より具体的には、国内資源の処分と借款借受の権利を認めるべきではなく、諸外国はこれら取引を慎むべきである。)

また、1日5万人が貧困が原因で命を落としている状況については、社会経済的人権保障の問題であり、市民的政治的人権を保障している国家でも貧困から抜け出せないのは、自らの力の及ばない外的要因、資源賦存や世界経済の制度的阻害があるからと推定される。諸外国は、できうる範囲での支援をすればよいというものではなく、貧困国の社会経済的人権保障のため、制度的阻害要因を除去し、それによって被っている不利益を補償しなければならないという義務がある。

武力行使については、自衛目的のものに限定し、戦争遂行に当たっても方法を抑制的におさえる消極的正戦論が最も支持可能性が高い。 近年課題となっている人道的介入については、あくまで状況改善の主体は現地市民であることを尊重し、諸外国は体制転換を目的とした市民の試みをまずは非軍事的な方法で支援するべきであるが、ジェノサイドなど、そもそもそうした試みの主体自体の抹殺が図られるような時には軍事的な介入が要請される。

 

 すごく緻密に概念が定義され、議論が積み重ねられているのですが、ざっくりまとめるとこういう主張をされていたと理解しました。

 

 シリアやパレスチナなど中東の状況にしても、貧困の問題にしても、遠くの出来事として何もしなくてよくないのはなぜか、自分たちにも責任があって看過することはできないのはなぜか、一貫していてとても骨太な理論的根拠を示してもらったような気がします。

しかし、リベラルに立つはずの著者が、世界秩序を覇権性・階層性がない形で築くためには、世界政府や地域的連合でもなく、NGOなどの市民社会でもなく、国家というある意味一番オーソドックスな存在が主体となるべきであるという主張に行きつくのは、「あ、そうなんだ」と面白かったです。
こんな言い方するとですが、変に浮ついてなくて、地に足が付いていて、やはりちゃんとした議論をなさる方なんだなぁと改めて感じました。

 

はっきり言って使われている用語や言い回しはかなり難解です。
が、ロジカルに積み上げられた主張はかなり骨太です。時間をかけても読み解く価値がある一冊でした。

 

世界正義論 (筑摩選書)

世界正義論 (筑摩選書)

 

 

瞬間を生きる哲学<今ここ>に佇む技法(著:古東哲明)を読みました

時は過去から未来に向かってリニアーに続いているのではない。
一瞬一瞬が次々に立ち現われてきている。
その一瞬一瞬がどれだけ尊いことか。どれだけかけがえのない奇跡的なものか。

未来にだけ目を奪われることのもったいなさ、今この瞬間に秘められている生の息吹き、その生の息吹きを感じさせる技法としての芸術について書かれた一冊でした。

 

「本当の生は今この瞬間にしかない。しかし過去を下敷きにする人間の認識構造と、今この瞬間を生きる=忘我であるというそれ自体の存在論的理由により、今この瞬間を直接知覚することはできない。芸術はその忽然たる今この瞬間の生を追想的に表徴し、生命を息吹かせる技法の一種である。」(133字)

 

本書で、時間を連続にとらえるのではなく、瞬間瞬間がつど立ちあがってくるのであるという一ケースとして、人間自身、構成する60兆個の細胞は数日ですっかり入れ替わってしまうということが取り上げられていました。
同じようなくだりをどこかで目にしたなと思っていたのですが、それがシンギュラリティ論者のレイ・カールワイツの本の中だったと気付いてびっくり。
カールワイツの場合、だからこそ身体なんて本質じゃない、脳さえコンピューター上に移せてしまえばアイデンティティは保たれると展開するので、本書の論旨とは真逆な感じに行くわけで。
同じ事象からこうも違ったインプリケーションが出てくるとは。

 

万物が流転する無常生起のこの世・この生、未来にとらわれ過ぎず、本書のタイトルにある通り足許の今ここにもっと身を委ねる場面がもっとあってもいいなぁと思わせてもらいました。

 

瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)

瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法 (筑摩選書)

 

 

「生きづらさ」について-貧困、アイデンティティ、ナショナリズム(著:雨宮処凛・萱野稔人)を読みました

今から10年前、2007年11月~12月にされた対談をまとめた一冊。
非正規雇用ゆえの所属の不安定さ→社会的承認の不足(欠如)→ナショナリズムへの一種逃避という流れがあったことを、実体験も交えつつ解き明かしています。

 

「終身雇用が崩壊し流動化した日本社会では、仕事や社会での自分の立ち位置を得るため高度なコミュニケーション能力が求められる。それがなければ仕事、収入、所属先、社会的承認を一気に失う。そうして不安定な立場に追いやられた人たちが、国籍を持つだけで所属できるナショナリズムに逃避している。」(139字)

 

このナショナリズムに走る背景にあるものって、アメリカ大統領選でトランプを勝たせた構図と似ていなくもない気がします。 
仕事が不安定(または失業している)、それは移民と、もしくは海外の低賃金で働くやつらと仕事を奪いあっているからだ、周縁化されているけれども自分たちはアメリカ人だ、Make Amrica Great again、America first。

 

本書は10年前の日本の社会的状況を巡って書かれたものですが、イスラム原理主義に走る若者の話でも、アメリカの保守派とキリスト教福音主義の結びつきの話でも、はたまたヨーロッパで躍進しつつあるポピュリズムの話でも、自分たちにとって「本来的で正当なもの」(多分英語で言うところのauthenticity)への凝集とそこに所属することで得られる承認みたいなことが通じているんじゃないかと思いました。

 

それにしても、当時派遣業(特に製造業へのスポット的な)がここまで悪どいビジネスモデルで動いていたとは知りませんでした。
働き手が足りない足りないと喧伝されている現在の状況からすれば、そんなに低賃金しか払えない生産性の仕事に人をつぎ込むことはもはや贅沢なんじゃないかとすら思えるのですが、果たして今はどうなっているんでしょう…

 

 

「生きづらさ」について (光文社新書)

「生きづらさ」について (光文社新書)

 

  

観劇のあとさき

年に1、2本ですが、演劇を観ます。
公演関係者の方から声をかけてもらった時、自分の都合の調整が付けば断らないようにしていると、だいたいそのくらいの頻度になるみたいです。
先日も劇場ではなく、民家を本拠地として作品を公演されているゲッコーパレードさんの『ハムレット』を観てきました。

演劇に限らず各種コンサートやライブ、ショーなど、パフォーミング・アーツは、その場・その時限りの一回性がとても強いので、そこに臨席できることはとっても贅沢な時間の過ごし方だなぁと思っています。

 

わけても演劇は、ちょっと他では味わえない特別な心地が味わえるので、実は結構好きだったりします。

何がってやっぱり、そうじゃない作品ももちろんありますが、観ている最中、筋書きというか、ストーリーが追えない、意味が分からない、っていう展開に出くわすことがあるのですが、これが自分にとってはとてもとてもレアな経験で。

そういう非論理的な、不条理な経験って、普段ふつうに暮らしているとなかなかしないもんじゃないですか。あるいは、あったとしても、自分なりに説明をつけたり、やり過ごしたりして、すぐに消化できてしまう。
でも、演劇で出くわす意味不明はそんなに簡単に消化できない。すぐには乗り越えられない。

だから、言ってみれば、自分はまた分からなさを味わいたいがために、演劇を観に行っているんだと思います。

 

そして自分にとって観劇が一番味わい深くなるのは、受け取ってきてしまった意味不明さやもやっとした感じが、観劇後折々のタイミングでふと上がってきたり、あるいは自覚的にためつ・すがめつしてみたりして、「あれは自分にとってはこういう風に受け取れる」、「こういうことを伝えたかったんじゃないか」と想いを巡らせるとき、独り言みたいなものですが作り手の人(たち)と脳内対話をくりひろげているとき、だったりするのです。
それこそ誘ってくれた方とかに「あれってこういうことよね?」と聞いてみたい衝動にも駆られますが、そこはあえて確かめずにずっと自分の中に畳みこんでお酒のように発酵させ続け、思い出せばまた覗き込んでくんくんしてみたり。

 

とまぁ、こんな感じの姿勢で観劇に臨むためもあって、行けば席に置かれている例のアンケートにお答えするのがとっても苦手で、出さずに(出せずに)失礼してくることが大抵です。関係者のみなさん、ごめんなさい。
ただ、その時点で書けるものが本当の自分の感想・気持ちじゃないよなぁというのをよくよく自覚しているので、一生懸命作って下さった作品に差し出すには薄っぺら過ぎてとてもとても、という感じなのです。
(ちなみに同じような理由で、終幕直後に役を抜けた役者の方とお話しするのも、ちょっと苦手です。一人遊びできる余韻というか、余白を残しておきたくって。)

 

だから、関係者の皆さん。
こんな私ですが、どうかお気を悪くなさらず、これからもお声掛け下さいね。

シリア難民(著:パトリック・キングスレ-)を読みました

素晴らしいルポであればあるほど、これが現実に今起きていると思うといたたまれなくなる、そんな本です。

 

「あるシリア人難民のスウェーデンへの旅程を追いつつ、ヨーロッパを目指す難民が直面する現実を描いた一冊。難民はどれだけ危険でもそれがましな選択肢だから地中海を渡るので移動を食い止めるのは不可能である。現状、難民は移動中・移動後も迫害されている。秩序だった受け入れが必要である。」(136字)

 

タイトルはシリア難民と付けられていますが、それは本書の半分の内容。
家族呼び寄せがしやすいからとヨーロッパの中でも北方に位置するスウェーデンを目指した一人の難民の旅路を追う章と、シリア発に限らず西アフリカやアフガニスタン難民も含め、地中海を渡りヨーロッパに入ろうとする難民たちを描いた章が交互にやってきます。

 

正式なビザやパスポートさえ持たないため、難民たちは公共交通機関を使うことができず、何倍もコストがかかり何倍も危険度が高い密航業者をたよって移動しています。
難民を乗せた船の転覆事故が相次いだ地中海で何が繰り広げられ、車の荷台でぎゅうぎゅう詰めにされた難民が多数亡くなるという事件がなぜ起きたのか、その背景が本書でよく分かりました。

 

もともと祖国に居られなくなったからこそ脱出を図ったのに、一時滞在した中東の国々でも差別を受け、さらに命を危険にさらして海を渡ることを余儀なくされ、辛くもヨーロッパに渡ってからも、目当ての国にたどりつく前に捕まって送還されないかと怯え、人間らしい扱いを受けられない。
あまりにも悲惨すぎて言葉が出ません。

 

「近くで起きなくて良かった」では済まされないー。

ニュースでは顔を持たない塊りとしてしか扱われませんが、難民となった人たち、押し寄せられた欧州各地の人たち、ひとりひとりがどんな現実に直面しているのかちゃんと知るための一歩目として、本書は貴重な資料だと思います。

 

シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問

シリア難民 人類に突きつけられた21世紀最悪の難問

 

 

介入のとき-コフィ・アナン回顧録【上】・【下】(著:コフィ・アナン)を読みました

1997年~2006年、国連事務総長を務めたコフィ・アナン氏の回顧録。
次から次に起こる人道危機に際し、内紛当事国のトップや安保理常任理事国の首脳・外相との息の詰まるような協議・交渉の様子が生々しく描かれています。

「コフィ氏は、国連を構成メンバーたる主権国家ではなく、憲章の主体たる「われら人民」のための組織とするべく変革を試みた。具体的には「保護する責任」の概念を打ち立て主権を隠れ蓑として使えないようにし、ミレニアム開発目標を設定し貧困の解決へのグローバルなコミットメントを高めた。」(135字)

 

上下巻に分かれたこの本は、細部にこそ読み応えが詰まっています。
自前の資金的・軍事的リソースを持たず加盟国の拠出に依拠している国連にあって、各国のある意味利己的な利害関心と地球益をどう調和させていくか、道徳的・道義的になされなければならないことにどう注意と資源を注ぐよう促していくか。

今この時の判断・決定次第で、数千・数万の人の生命の行方が変わってしまうかもしれない。
そんな緊迫した状況での外交交渉のやりとりは読んでいて息が詰まりそうになります。

ものすごい忍耐とコミュニケーションスキルが求められる職責なのだなぁと思い知らされました。

 

中東和平のプロセスがどう構築されていったのか本書で初めて知りましたし、イラク戦争についても、開戦に至るまでの安保理でのやりとりが振り返られていますが、安保理の承認がない中での武力行使がいかに重い意味を持っていたのか改めて気付かされました。

 

複雑な現実に対応しながら理想を求めたアナン氏の姿勢は、ポピュリズムが台頭し内向きになる国が増える今グローバル・ジャスティスをどう形成していけばいいのか、ヒントを示しているように思えます。

 

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(上)

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(上)

 

 

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(下)

介入のとき――コフィ・アナン回顧録(下)