POWERS OF TWO二人で一人の天才(著:ジョシュア・ウルフ・シェンク)を読みました

「孤高の天才」というイメージは誤りであって、クリエイティビティやイノベーションは社会的つながりやネットワークから生まれる。最も分かりやすい例は二人組で、ビートルズしかり、アップルしかり、創造的な偉業は、相互補完的な二人組が成し遂げている。

具体的には二人組は6つのステップを踏む。

似ているけど違う二人が出会い(①)、信用・信頼を深め互いを自らの一部と感じて「私たち」が前面に出るようになり(②)、弁証法的な関係をもとに役割分担が決まり(③)、互いに相手が動きやすい十分な余地がある距離を保ち(④)、協力と競争を同時に繰り広げてさらなる高みに挑戦するが(⑤)、やがて互いの違いに耐えきれなくなったり外からくさびを打ち込まれたりするとお互いへの積極的関与の中断に至ることもある(しかし不可逆的な変化を遂げてしまった二人の関係は完全には消えてなくならない)(⑥)。

 

うまくいくペアの役割分担として「主演俳優と監督」「液体と容器」「夢想家と実務家」が挙げられていましたが、実体験で腹落ちして良く分かります。
監督で容器で実務家の自分は、主演俳優で液体で夢想家の相手と組むと、モノゴトがはかどるんだなぁ。

必ずしもペアだけではなく、うまくワークするチームの目安としても応用できるんじゃないかと思いました。

POWERS OF TWO 二人で一人の天才

POWERS OF TWO 二人で一人の天才

 

 

日本の思想(著:丸山真男)を読みました

多分「保守主義とは何か?」を読んだ時に言及されていた一冊。日本には保守すべき機軸が確立してこなかったという指摘を、思想面で論じている本だろうと思って読みました。

曰く、日本人の中で、思想は、古いものが新しいものと対決せず、雑然と同居してしまう。だから新しいものもすぐに受け入れるし、外的環境が変われば旧い思想が忽然と姿をあらわしたりもする。
唯一伝統らしいものといえば「思想的寛容性」であり、それゆえに一貫性を備えたそれだけに排他的ともなるイデオロギーや思想に対しては、アレルギーを持っている。

著者の神道の評価も面白かったです。

神道はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。

1957年に初出の論稿で、当時の時代背景を踏まえた立論(全体主義マルクス主義・政治と文学など)も多分に含んでいて必ずしも全てを消化しきれたわけではないですが、思想の雑居という伝統を脱し、せめて交雑した雑種を生み出すためにも、仲間内のタコ壺から出て「他者」とコミュニケーションしようとする強靭な自己統御力を具えた主体を自分たちが生み出さなければならない、という本文むすびの指摘は、(あいにく)今なお有効な箴言だと感じました。

 

 

 

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

なぜ僕たちは金融街の人びとを嫌うのか?(著:ヨリス・ライエンダイク)を読みました

知識ゼロから始めてその道のいろんな人にインタビューしながら理解を深め、核心に迫っていく様子を読者と共有するというスタイルで取材・執筆する著者。
本書はロンドン、シティーを舞台に金融界をテーマに取材した2年間を追った記録です。

『ゼロ・トゥー・ワン』や『TED TALKS』も手掛けた関美和さんの訳でとても読みやすくスイスイ読めますが、読後は「あぁ、やっぱりか」という感じでもやっとする一冊です。

 

「金融業界にも多様な業態・職種があり、立場によってリーマンショックの見方も様々である。あの危機は一般の人びとの生活をも崩壊させかねない危険なものであったが、その真因である金融業界の文化、雇用環境、利益相反、逆インセンティブの構造は人びとの目から隠され、そのままに温存されている。」(138字)

 

監査部門とトレーダー・バンカーの力関係(もちろん、後者が圧倒的に強い)や、いったん足を踏み入れると生活レベルが落とせなくなるので抜けられなくなる(そして成績を上げるためにリスクをとり過ぎるなど無理筋を追ってしまう)というハイプレッシャーな環境、 何となくそうなんだろうなぁと思ってたことが中の人の口から実際に証言されていて、「ふむむー、そうかー。。。」という感じです。

 

モデルの上では分散されたはずのリスクが、個別の商品を超えた全社、あるいは会社をもまたいだマーケット全体では分散されておらず、誰も自分たちが抱えているリスクを正しく定量的に捉えられていない、というのも「さもありなん」という話し。

モデルが妥当性を持つ前提条件や外的環境がどの程度満たされているのかを把握するのは、どれだけコンピューティングが進んでも最終的には人間の直感に頼らざるをえないのではないかと思うのですが、商品が複雑になり過ぎているのと会社の規模が大きくなり過ぎているので、それを総体的に把握・判断できる人(たち)がいないんだろうなぁ。

それはそれはコワい話しだ。
金融機関のトップの方の人たちの仕事はほとんどババ抜きみたいなもんだな。

 

 現在の金融と通貨のシステムは”バブル”を生み出すようにできている、というのもなるほどな指摘。
金融商品を使って水増しした信用力をつぎこんで消費を促すと、それは経済成長にカウントされる。こうしてGDPが膨らむと、今度は従来以上の借り入れと信用創造が正当化される。これが循環すると、バブルが膨らんでいく。

 当面の間は自己実現的であるオーバーシューティングがないと「経済成長」が始まらないんじゃないか、とぼんやり考えていたのですが、こういうサイクルで説明できるんですね。

 

ともあれ、とっても多くの個人のエピソード(打ち明け話)が出てくるので、その悲喜こもごも様々な様子を垣間見るだけでも、読み物として面白いと思います。

なぜ僕たちは金融街の人びとを嫌うのか?

なぜ僕たちは金融街の人びとを嫌うのか?

 

 

孤独と不安のレッスン(著:鴻上尚史)、学問と「世間」(著:阿部謹也)を読みました

日本という社会での「世間」と個人の関係について論じた本を続けて読みました。

『学問と「世間」』は2001年、『孤独と不安のレッスン』は2006年の著作です。
たった5年しか違わないのに、「世間」についての見方が大きく違っていることが興味深かったです。

 

阿部謹也さんは、「世間」は日本においてまだまだ強固で個人の行動を強く制約している、特に学問の世界では研究者たちが仲間うちでの問題設定・評価に閉じこもってしまっていて、世間一般の生活者を含む仲間うち以外の人たちと断絶してしまっていることが問題だと指摘しています。

その一方で鴻上尚史さんは、「世間」は中途半端に壊れてしまっていて今や従っていても個人を守ってはくれない、それよりも自分は自分、一人なんだということを受け入れて、自分で自分を守っていく不安と折り合える姿勢を身につけた方がいい、ということを切々と説いています。

 

両者読み比べてみて、2017年の今読むからかもしれませんが、阿部謹也さんの「世間」観はあまりにスタティックで、今後の環境変化が「世間」と個人の関係にどう影響しそうかという観点がすっぽり抜けていて、ちょっと説得力がないなぁという印象を受けました。
これからの日本の学問に対する処方箋も、理念的なアカデミックの世界に閉じこもらず、生活世界=「世間」を対象化し、生活者に寄り添って共に学び続ける生涯学習を志向すべきだという内容なのですが、では生活者の側になぜ大学と一緒になって「世間」を対象化するニーズがあるのかについては踏み込まれておらず、言ってみれば現状の学問・大学のあり方に問題意識を持つ人からの一方的な片思いのようになってしまっているなぁと感じました。

 

それに比べると、鴻上尚史さんの一人のススメの方が、今なお通用するインプリケーションを含んでいました。

どうせ世間は責任を取ってくれないのだから、振り回されるのはやめよう。
自分は自分。
一人になって自分が本当に何をしたいのかを考える。
周りと比べるのはやめて67点の人生を受け止める。
少しの分かりあえる人がいれば友だちは100人いなくていい。
頭で考えて不安でいっぱいになったら身体のスピードに合わせてみよう。
分かりあえないを前提に、自分にとって意味のある他者と交わる。

むしろ、本格的なネット社会の到来を経て、今度はソーシャル・ネットワークや、巨大プラットフォーマーの網の目に絡み取られている今の私たちにはますます刺さるアドバイスなのではないかとさえ思えます。

 

さて。
ここでやっぱり気になるのが、じゃあこれからの日本でいわゆる「社会」はどう切り結んでいくのがいいんだろうか、という話し。
ひとりひとり違うことを引き受けた個人、しかも都合よく居心地がいい似た者同士のソーシャルネットワークに取り込まれた個人を、世間の同調圧力に代わり、共通の社会を営む当事者として集合させるにはどうしたらいいんだろうか・・・。
平田オリザさんのコミュニケーション論でも触れられていたように思いますが、もうちょっと政治よりの観点からの立論も目を通してみたいので、次はそっち方面読んでみようかなぁ。

 

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

学問と「世間」 (岩波新書)

学問と「世間」 (岩波新書)

 

 

これはドラマか、現実か~リゾートホテルのスイートルームで演劇鑑賞

リゾートホテルのスイートルームで観劇という突拍子もない企画のコーディネーションに関わりました。

足を伸ばして損はないプログラムです。
演劇・アートの新しい棲み家を垣間見たい方、ぜひお越しください。

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これはドラマか、現実か――。

結婚式場から逃げてきた新婦が、妻を待つ男の客室に飛び込み始まる二人の会話劇。
高橋いさを原作の戯曲『ここだけの話』を、本物のホテルのスイートルームで上演します。

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このありそうでなかったユニークな公演を行うのは、本拠地・埼玉県蕨市の旧加藤家住宅で「戯曲の棲む家」シリーズvol1.~6.を上演するなど、劇場外での公演や異ジャンル芸術家との共同創作に積極的に取り組み今注目を集めている舞台芸術集団ゲッコーパレード。演出家の黒田瑞仁は早稲田大学建築学専攻出身、舞台となる建築物の特性やその場所性を踏まえた独特の演出が高い評価を受けています。
今回の公演でも、本物のホテルを舞台に高橋いさをの結婚をめぐる喜劇をどう演出してくるか、期待されるところです。

 

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公演は2日間にわたる2部構成。1日目夕方に第1部・本編を上演、2日目朝に朝食会場のレストランで第2部・エピローグを上演します。上演の時間的・空間的な広がりや、観劇後にそのまま同じホテルに泊まるからこそ感じられる余韻も今回公演ならではの魅力ではないでしょうか。

公演日は6月30日(金)~7月1日(土)、7月1日(土)~7月2日(日)の計2回。臨場感ある観劇をお楽しみ頂けるよう、定員は各回25組50名限定となります(ホテルの宿泊2名様一室利用の場合)。

お申込みは受付が始まっています。
すでに予約が入り始めていますので、鑑賞ご希望の方はぜひお早めにお申込み下さい。
予約・お問い合わせは、インターナショナルゴルフリゾート京セラ予約センター0996-57-0808または下記予約サイトから。
https://www.yadoken.jp/…/FrontCtrlShowPlanRecommendationDet…

★インターナショナルゴルフリゾート京セラ
週末別荘「IGRドラマナイト」
『ここだけの話』公演・宿泊プラン詳細★

【作】高橋いさを
【演出】黒田瑞仁
【出演】渡辺恒・河原舞(ゲッコーパレード)
【会場】インターナショナルゴルフリゾート京セラ
    (鹿児島県薩摩郡さつま町求名6122)
【公演日】6月30日(金)~7月1日(土)
     7月1日(土)~7月2日(日)1泊2日間×2回
     ※上演はチェックイン日の16:30と翌日の8:30
【料金】ツインルーム1室2名利用 15,000円/人
    ツインルーム1室1名利用 19,000円/人
    (1泊2食観劇付)
【定員】1公演あたり25組50名様限定
【予約・問合せ】インターナショナルゴルフリゾート京セラ予約センター 0996-57-0808

 

◎◎インターナショナルゴルフリゾート京セラ概要◎◎

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鹿児島県北にあるゴルフ場併設のリゾートホテル。
露天風呂やサウナ付の温泉、スポーツジム、屋内外のプール、テニスコートなどスポーツ施設も備え、長期での滞在にも対応可能です。
スタンダードでも30㎡を越すゆったりとした客室は全室ゴルフコースビューで、眼下に広がる芝の緑が美しく映えます。
シェフが腕を振るう地元鹿児島の食材を使った料理も人気です。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ(著:加藤陽子)を読みました

日清戦争日露戦争第一次世界大戦満州事変・日中戦争、太平洋戦争という、明治以降日本が戦った戦争がなぜ戦われたのかー。著者が行った栄光学園・中高生への特別集中講義の様子をまとめた一冊。

今起きつつあることを理解するとき、未来に起こりそうなことを予測するとき、人は意識的・無意識的に過去にあった事例を下敷きにして考えるもの。
その理解・予測の質を高め判断の誤りや災禍を招かないようにするためには、広い視点から俯瞰した偏りのない歴史についての理解・蓄積が必要で、それには若いうちから歴史に興味をもって歴史的なものの見方を身につけて欲しい、そういう想いで著者は講義に臨んだそうです。

果たせるかな、著者は様々な資料を引きつつ、生徒たちとのキャッチボールも交えて、海外各国の諸事情から日本国内の社会政治情勢まで縦横無尽に伏線をたどり、重層的に戦争に至った経緯や戦後の影響を解き明かしていきます。

 

客観的な数字を引けば明らかに無謀な太平洋戦争をなぜ戦わなければならなかったのか。
庶民はなぜ開戦を支持したのか。

「1941:決意なき開戦」がどちらかというと開戦に至る日本の指導者たちのやり取りを辿った本だとすると、本書は時間的にも視点的にもより広範なスコープから「あの戦争はなんだったのか」に迫る内容だと言えると思います。

続けてセットで読むと面白かったかもなぁ。

 本書の中で、戦争とは単に軍事的な勝利や戦後の権益確保を目的になされるのではなく、主権や社会契約といった相手国の社会を成り立たせている基本秩序(=憲法)に手を突っ込み書きかえようとすることだ、というルソーが提示した洞察が紹介されていました。

 この洞察に基づけば、敗戦した日本で憲法を書きかえられるのは必定であり、勝者がアメリカ以外でも憲法は書きかえられただろう、と筆者は推定しています。そして書きかえられる対象となった従前の憲法原理とは「国体」であったと。

文庫版のあとがきで著者自身が指摘していますが、改憲・護憲を議論するに当たっては、今の憲法をもたらした戦争はなぜ戦われたのか、をまずは考えなければならないというのは、まさにその通りだと思います。

そして政治家でも軍部指導者でもない一市民として、災禍に向かって進んでいくのに気付かないままに加担することを避ける、あわよくば食い止めるため、いかに徴候をキャッチすることができるのか。

市井の社会感情にも目配りした本書は得るところ大の一冊でした。

 

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

「蜜蜂と遠雷」(著:恩田陸)を読みました

ピアノコンクールを舞台に、若きコンテスタントたちとそれを見つめる大人や周囲の人たち、音楽とは何かを描いた群像劇。

この小説では音楽が題材になっていましたが、それに限らず、一人ひとりの人はもともとそれぞれの本能的な喜び、根源的な楽しみをもっているはず。
でも、いろいろな事情や、しがらみなんかもあって、過ぎゆく日々の中でそれははるか後ろの方に遠ざかっていってしまう。ちょっと違う方に逃げてしまったり、見て見ないふりをしてしまったりするもの。

でも、本当の意味で生きるには、それとちゃんと向き合わなきゃいけない。
せわしない日常の中でも折り合いをつけて引き受けて行かなきゃいけない。
それは、いつか、どこかからやってくるものではない。
自分の中にありつづけるものを、今、この瞬間に生きなければ。

それは骨が折れることかもしれないけど、乗り越えてなお余りあるほどの、自分にとって、そして周りの人にとってもmovingな生き方が待っている。

そんなメッセージが込められていたように感じました。

 

それにしても、本作は挑発的だなぁというのも同時に感じた感想です。

そもそもピアノコンテストを文章で作品に仕上げるというのも、挑戦的な試みです。

本屋大賞受賞後のインタビューで「読者の側でいたい」と語る著者の記事を読んだことがありますが、本作は、そのスタンス・スタイルで文章を書く覚悟と、書いた作品がいかなる存在でありたいのかを、登場人物とそれぞれの演奏する音楽に載せて提示している、温かみのある外見とともに内奥は「熱い」小説なんじゃないかと思うんですが…。

読み手は、この本質的な問いについて来られるか?
それこそ賞の審査員は、本作を受け容れられるか?

本書を“ギフト“とするか、“災厄“とするかは、あなたたち次第である。

そう言って著者がニヤリとしていそうな気がしたのは私だけでしょうか?

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷