クラウド時代の思考術(著:ウィリアムパウンドストーン)を読みました

邦題よりも英語の副題の方が本書の内容をよく表しています。
すなわち、簡単にググれる今の時代に物事を記憶することは大事なのだろうか??

知識を得るための努力が、知識を得たことで手に入る見返りより大きいという合理的な無知がありうる。
また脳は(調べられるからなどの理由で)それを必ずしも記憶しなくていいと判断したことは忘れるようにできている。
つまり些細な事実を覚えておくことは、インターネットがなかったころに比べて格段に不利な状況にあるといえる。

それでも、本書の結論としては、物事を自分の頭で記憶することは大事なんだそうです。

物事を自分の頭でたくさん覚えていればそれだけたくさんの物事周辺の文脈を捕まえることができて、これによって直観力と想像力が磨かれる。
それは自分が何を知らないかを理解する手助けになり、何を検索で調べればいいかを教えてくれる。
しかし自分が知らないことを理解していなければ、何を調べればいいのか/調べる必要があるのかさえ気づかない。
自分が何を知らないかを把握していない偏った世界認識が集合的に作用するとき、誤った社会的選択がなされてしまうこともある。

 

だからこそ、探求を続けること、学習を続けることは今もって大事なんだそうです。

 

それと興味深かったのが、十分な情報を得られていない人々が集まって社会的選択を行うとき(通常それが一般的なのだけれど)、その無知を補う方法として討議民主主義が挙げられていたこと。(この間読んだ「不平等を考える:政治理論入門」で目にしたばっかり!)
討議民主主義とは、社会構成を反映するような構成になるように参加者を選び、同じ情報を提供したうえで選択を討議させると(例えば自分たちのエネルギー源をどう構成するかなど)、長期的に見ても合理的な選択に落ち着くようになる、というようなもの。
学校教育の現場ではディベートが始まっていますが、すでに社会に出ていて社会的選択を行っている大人にこそ、こういう討議の場が必要なんじゃないかと思います。

本書でも指摘されていましたが、事前の条件を整えず(選ぶことについて判断の材料となる情報をよく与えらえれている、感情的な効果に重きを置いた煽りに流されない、など)投票権を行使することだけにこだわりすぎると、本当は社会にとって幸福じゃない選択がなされてしまうこともある。 

投票以外の時に何をするかこそが大事なんだなぁ。

 

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

 

 

保守とは何か(著:福田恆存、編:浜崎洋介)を読みました

福田恆存氏のまとまった一冊の本かと思ったらさにあらず。
いくつかの随筆をまとめた、短編集(?)的な書籍でした。

氏の保守観について直接言及しているのは、そのままズバリ、「私の保守主義観」というわずか5ページのごく短い小論。

いわく、保守とは、革新が自らの足下に広がり、自らが大事にしてきたものが脅かされていると感じるようになって立ち現れるもので、常に後手に回るものである。
改革の必要性の立証責任は革新にあり、そのため革新は主義を持っていなければならないが、保守にはその責任もないため、主義・イデオロギーを持つ必要などない。
保守派は改革の影響にせよ何にせよ将来の見通しを持たないものであり、積極的に先回りすべきではない。

 

現状のしきたりや掟に不満を持つ改革主義がまず立ち上がり、保守派は遅れてくるというのは、なるほどそうかもなぁと思いました。

それ以外のところについては、いわゆる政治的な保守論とは若干毛色が違っているように思います。

 

昨年「保守主義とは何か」(著:宇野重規)に始まり、日本の精神・思想のエッセンスは何だろう?という考察を続けてきました。今年の初めには神道の本を続けて読んでみたし、つい先日は丸山真男の「日本の思想」も読みました。

今改めてなんでこのテーマを追いかけてきたか振り返ってみると、日本が世界にある意味って何だろう?何をどういうやり方でやるのが、いや、むしろどういうあり方であるのが、日本自身にとっても世界にとってもハッピーなんだろう?ということについて、自分なりに答えを出したかったからだと思います。

Gゼロと言われる世界にあって、どう立ち位置をとるのか。
さすがにもう単純にキャッチアップするだけの目標を思い描くことも難しい。
(まだ日本の外側に比べればいくぶんましかもしれないけど)内外で社会の分断が広がっている。

いくら人口減に突入し縮んでいく傾向に入ってしまっているからといって、内側のことばかり考えていていいはずがない。
経済的には相当海外に依存しているわけだし。

自分の仕事に近い話で言えば、昨今右肩上がりと喧伝されているインバウンド旅行にしたって、これが今の世界の人に提供できる核心的な日本のバリューですというものに根ざした骨太で迫力のある内容のものは見出し切れていないように思うのです。

 

わずか半年ですが、渉猟の結果たどり着いた中間成果としては、過去の中にそのまま発掘してこられるような確固たる支柱はなさそうだな、ということ。
一方でヒントになりそうな財産としてはやはり思想的寛容性が高いということ。
これを異なる価値観・考え方・信仰の雑居に堕するにまかせず包摂性を高める方向に活かすことができれば、分断され断片化した世界・社会をブリッジし、ひとりひとり違うことがダイバーシティとして尊重される世界に近づけることに貢献できるんじゃないか?
そんな風に考えています。

それを実現するカギは、オープンであることと、直接のコミュニケーションを活発にすること。

うん、このあたりがこれからやるべきこと・やりたいことになっていくんだろうな。

 

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

 

 

不平等を考える:政治理論入門(著:齋藤純一)を読みました

確か日経新聞の書評で見かけたのが、本書を読もうとしたきっかけ。
たまたま都議選直前のタイミングで手に入り、タイムリーで面白かったです。

本書は3部構成になっています。

第一部では平等な関係とは何かについて色んな基準(機会の平等、結果の平等、運の平等、関係論的平等)を引きつつ検討しています。
あえて一言で言えば、共有する制度のもとで対等な市民として尊重されることが平等な関係、とされています。

ただし、この対等な市民としての尊重は、社会的・経済的格差が大きすぎると容易に損なわれる(社会・経済的なポジションが市民としての立場に影響する)とされ、それを是正する制度として、続く第二部で社会保障と平等の関係について考察されています。
社会・経済的不平等を社会保障によって抑制しなければならないのは、人びとがそれによって生きていくために他者の意思に依存しなければならないような状態に陥るのを避けるためとされていますが、特に「生の複数性」の考え方-食うや食わずやの状態を離れ自らの「善の構想」を追求できるようにすることが社会を豊かにする、という視点はとてもポジティブな捉え方だな、と思いました。
また社会保障制度のあり方についても考察されており、事後的対処と事前の支援を対比し、社会保障制度は人びとが社会的協働に参加していく際に対等な足場に立つために必要な事前の支援の方がより望ましいとされています。
個人的に刮目だったのは、個人の多様性を認める上でも、社会的包摂を考える上でも、さらにこれからますますリターンの大きい雇用口が減っていくことを踏まえても、社会的協働を、財を生産する賃金労働に限定せず、コミュニティの維持・再生のための活動や、排除や周辺化を防ぎ人々を社会につなぎとめようとする活動、国外で貧困に対処するための活動などについても正当に評価し、これに従事する人びとが安定した生活条件を得られるようにすることもまた、社会保障の役割と指摘されていることでした。

続く第三部では、こうした制度を市民が生み、維持・再編していく仕組みとしての民主主義と平等の関係について考察されています。

本書で一番読み応えがあったのがこの第三部で、投票者という立場にせよ立候補者という立場にせよ、選挙以外の手段・機会で、普通の人が制度をつくることにどう関わっていけばいいかのヒントが示されていたように思います。

筆者によれば民主主義とは多数決で押し切るための手段ではなく、少数者も同じく尊重されるべきと指摘します。それを具体的に実現するため必要なのが、ある政策や制度を支持するまたは支持しない理由を開示し検討することで、これによって多様な観点-もしかしたら今ここにはいない・参加できない主体の観点も含めてーを決定に反映できるようになるとしています。このプロセスは「熟議」と呼ばれ、「熟議」を経て蓄積されていく「理由のプール」が、将来にわたって政治的決定を方向づける政治文化を形成するのだそうです。
この熟議の機会をひらくことこそ、必ずしも特定の政策について支持・不支持を表明できるわけではない選挙とは違ったルートで、市民に制度の編者・作者としての役割を果たさせうるものだろうと思いました。

アプローチにおいては保守的な手段をこそ取るべき(理想やビジョンにおいてはアイデアリスティックであったとしても)というのが基本的なスタンスでありながら、こらえ性がない自分にはとても政治家はムリで、じゃあどうしたもんかねぇと思っていたのですが、この熟議の「場をひらく」というのであればこれまで経験がないわけでもなく、また好きなことでもあるので、無理せずできるかもしれないなぁと思っています。

コンパクトながら自分にとっていいヒントがいっぱい詰まった一冊でした。

 

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

 

 

POWERS OF TWO二人で一人の天才(著:ジョシュア・ウルフ・シェンク)を読みました

「孤高の天才」というイメージは誤りであって、クリエイティビティやイノベーションは社会的つながりやネットワークから生まれる。最も分かりやすい例は二人組で、ビートルズしかり、アップルしかり、創造的な偉業は、相互補完的な二人組が成し遂げている。

具体的には二人組は6つのステップを踏む。

似ているけど違う二人が出会い(①)、信用・信頼を深め互いを自らの一部と感じて「私たち」が前面に出るようになり(②)、弁証法的な関係をもとに役割分担が決まり(③)、互いに相手が動きやすい十分な余地がある距離を保ち(④)、協力と競争を同時に繰り広げてさらなる高みに挑戦するが(⑤)、やがて互いの違いに耐えきれなくなったり外からくさびを打ち込まれたりするとお互いへの積極的関与の中断に至ることもある(しかし不可逆的な変化を遂げてしまった二人の関係は完全には消えてなくならない)(⑥)。

 

うまくいくペアの役割分担として「主演俳優と監督」「液体と容器」「夢想家と実務家」が挙げられていましたが、実体験で腹落ちして良く分かります。
監督で容器で実務家の自分は、主演俳優で液体で夢想家の相手と組むと、モノゴトがはかどるんだなぁ。

必ずしもペアだけではなく、うまくワークするチームの目安としても応用できるんじゃないかと思いました。

POWERS OF TWO 二人で一人の天才

POWERS OF TWO 二人で一人の天才

 

 

日本の思想(著:丸山真男)を読みました

多分「保守主義とは何か?」を読んだ時に言及されていた一冊。日本には保守すべき機軸が確立してこなかったという指摘を、思想面で論じている本だろうと思って読みました。

曰く、日本人の中で、思想は、古いものが新しいものと対決せず、雑然と同居してしまう。だから新しいものもすぐに受け入れるし、外的環境が変われば旧い思想が忽然と姿をあらわしたりもする。
唯一伝統らしいものといえば「思想的寛容性」であり、それゆえに一貫性を備えたそれだけに排他的ともなるイデオロギーや思想に対しては、アレルギーを持っている。

著者の神道の評価も面白かったです。

神道はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。

1957年に初出の論稿で、当時の時代背景を踏まえた立論(全体主義マルクス主義・政治と文学など)も多分に含んでいて必ずしも全てを消化しきれたわけではないですが、思想の雑居という伝統を脱し、せめて交雑した雑種を生み出すためにも、仲間内のタコ壺から出て「他者」とコミュニケーションしようとする強靭な自己統御力を具えた主体を自分たちが生み出さなければならない、という本文むすびの指摘は、(あいにく)今なお有効な箴言だと感じました。

 

 

 

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

なぜ僕たちは金融街の人びとを嫌うのか?(著:ヨリス・ライエンダイク)を読みました

知識ゼロから始めてその道のいろんな人にインタビューしながら理解を深め、核心に迫っていく様子を読者と共有するというスタイルで取材・執筆する著者。
本書はロンドン、シティーを舞台に金融界をテーマに取材した2年間を追った記録です。

『ゼロ・トゥー・ワン』や『TED TALKS』も手掛けた関美和さんの訳でとても読みやすくスイスイ読めますが、読後は「あぁ、やっぱりか」という感じでもやっとする一冊です。

 

「金融業界にも多様な業態・職種があり、立場によってリーマンショックの見方も様々である。あの危機は一般の人びとの生活をも崩壊させかねない危険なものであったが、その真因である金融業界の文化、雇用環境、利益相反、逆インセンティブの構造は人びとの目から隠され、そのままに温存されている。」(138字)

 

監査部門とトレーダー・バンカーの力関係(もちろん、後者が圧倒的に強い)や、いったん足を踏み入れると生活レベルが落とせなくなるので抜けられなくなる(そして成績を上げるためにリスクをとり過ぎるなど無理筋を追ってしまう)というハイプレッシャーな環境、 何となくそうなんだろうなぁと思ってたことが中の人の口から実際に証言されていて、「ふむむー、そうかー。。。」という感じです。

 

モデルの上では分散されたはずのリスクが、個別の商品を超えた全社、あるいは会社をもまたいだマーケット全体では分散されておらず、誰も自分たちが抱えているリスクを正しく定量的に捉えられていない、というのも「さもありなん」という話し。

モデルが妥当性を持つ前提条件や外的環境がどの程度満たされているのかを把握するのは、どれだけコンピューティングが進んでも最終的には人間の直感に頼らざるをえないのではないかと思うのですが、商品が複雑になり過ぎているのと会社の規模が大きくなり過ぎているので、それを総体的に把握・判断できる人(たち)がいないんだろうなぁ。

それはそれはコワい話しだ。
金融機関のトップの方の人たちの仕事はほとんどババ抜きみたいなもんだな。

 

 現在の金融と通貨のシステムは”バブル”を生み出すようにできている、というのもなるほどな指摘。
金融商品を使って水増しした信用力をつぎこんで消費を促すと、それは経済成長にカウントされる。こうしてGDPが膨らむと、今度は従来以上の借り入れと信用創造が正当化される。これが循環すると、バブルが膨らんでいく。

 当面の間は自己実現的であるオーバーシューティングがないと「経済成長」が始まらないんじゃないか、とぼんやり考えていたのですが、こういうサイクルで説明できるんですね。

 

ともあれ、とっても多くの個人のエピソード(打ち明け話)が出てくるので、その悲喜こもごも様々な様子を垣間見るだけでも、読み物として面白いと思います。

なぜ僕たちは金融街の人びとを嫌うのか?

なぜ僕たちは金融街の人びとを嫌うのか?

 

 

孤独と不安のレッスン(著:鴻上尚史)、学問と「世間」(著:阿部謹也)を読みました

日本という社会での「世間」と個人の関係について論じた本を続けて読みました。

『学問と「世間」』は2001年、『孤独と不安のレッスン』は2006年の著作です。
たった5年しか違わないのに、「世間」についての見方が大きく違っていることが興味深かったです。

 

阿部謹也さんは、「世間」は日本においてまだまだ強固で個人の行動を強く制約している、特に学問の世界では研究者たちが仲間うちでの問題設定・評価に閉じこもってしまっていて、世間一般の生活者を含む仲間うち以外の人たちと断絶してしまっていることが問題だと指摘しています。

その一方で鴻上尚史さんは、「世間」は中途半端に壊れてしまっていて今や従っていても個人を守ってはくれない、それよりも自分は自分、一人なんだということを受け入れて、自分で自分を守っていく不安と折り合える姿勢を身につけた方がいい、ということを切々と説いています。

 

両者読み比べてみて、2017年の今読むからかもしれませんが、阿部謹也さんの「世間」観はあまりにスタティックで、今後の環境変化が「世間」と個人の関係にどう影響しそうかという観点がすっぽり抜けていて、ちょっと説得力がないなぁという印象を受けました。
これからの日本の学問に対する処方箋も、理念的なアカデミックの世界に閉じこもらず、生活世界=「世間」を対象化し、生活者に寄り添って共に学び続ける生涯学習を志向すべきだという内容なのですが、では生活者の側になぜ大学と一緒になって「世間」を対象化するニーズがあるのかについては踏み込まれておらず、言ってみれば現状の学問・大学のあり方に問題意識を持つ人からの一方的な片思いのようになってしまっているなぁと感じました。

 

それに比べると、鴻上尚史さんの一人のススメの方が、今なお通用するインプリケーションを含んでいました。

どうせ世間は責任を取ってくれないのだから、振り回されるのはやめよう。
自分は自分。
一人になって自分が本当に何をしたいのかを考える。
周りと比べるのはやめて67点の人生を受け止める。
少しの分かりあえる人がいれば友だちは100人いなくていい。
頭で考えて不安でいっぱいになったら身体のスピードに合わせてみよう。
分かりあえないを前提に、自分にとって意味のある他者と交わる。

むしろ、本格的なネット社会の到来を経て、今度はソーシャル・ネットワークや、巨大プラットフォーマーの網の目に絡み取られている今の私たちにはますます刺さるアドバイスなのではないかとさえ思えます。

 

さて。
ここでやっぱり気になるのが、じゃあこれからの日本でいわゆる「社会」はどう切り結んでいくのがいいんだろうか、という話し。
ひとりひとり違うことを引き受けた個人、しかも都合よく居心地がいい似た者同士のソーシャルネットワークに取り込まれた個人を、世間の同調圧力に代わり、共通の社会を営む当事者として集合させるにはどうしたらいいんだろうか・・・。
平田オリザさんのコミュニケーション論でも触れられていたように思いますが、もうちょっと政治よりの観点からの立論も目を通してみたいので、次はそっち方面読んでみようかなぁ。

 

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

学問と「世間」 (岩波新書)

学問と「世間」 (岩波新書)