愚者の黄金(著:ジリアン・テット)を読みました

過度の専門分化が招く問題を提起した「サイロ・エフェクト」の著者、ジリアン・テット氏の前著。(というか、たぶん世間的には「サイロ・エフェクト」が本書「愚者の黄金」の次著なんでしょうが、、、)

2008年の金融危機実相とか、新聞で読んでた以上の内容には興味なかったのですが、「サイロ・エフェクト」があまりに面白かったので、この著者、そして土方奈美さんの訳ならきっと楽しんで読めるだろう、と思って今更ながらさかのぼって読んでみました。

 

CDSの起源となるBISTROを、J・Pモルガンのチームがなぜ作ったのか、それがどう「誤用」されて金融危機に至ったのかが読み解けて、期待通りの面白さでした。

 

きっとそれも「サイロ・エフェクト」を書くひとつのきっかけになったのだと思うのですが、CDSCDOのリスクが各金融機関に(間接的にであれ)積みあがっていっているとき何が行われているか分かっていたのは限られたセクションの人たちだけだった、というのが俄かに信じがたいですが、ああそうなんだ、という感じでもあります。

 

でも、トップもそれでいいのか、というのはちょっと違和感を禁じえません。

自分の会社が何で利益を上げているのか、それがどういう仕組みでそうなっているのかを分かっていないというのは、何があるとそれが損なわれるかへの備えもできないということなので(そして実際、リスクオフに失敗して、危機が起きると会社に損失を与えてしまったわけですが)、それって果たして経営していると言えるのだろうか?

もしそんなもんなら、巨額の報酬を正当化できるほどの能力はないんじゃないだろうか。(これはきっと今もそんなに変わってない。)

 

だから規制で縛ることも必要かもしれないけど、それも回避しようとする「創意工夫」(規制との両立を目指したBISTROにだってその性格がないわけではない)が続けば結局はいたちごっこに終わってしまう。
 精神論に近いものになってしまうけれども、短期的な利益に走りすぎない自制へのコミットと企業文化・倫理性でしか「音楽が鳴っている間は踊りをやめられない」という事態を回避できないし、金融機関に資金を投じている投資家もそれを美点ととらえられるようにならなければ、最終的にはムリがたたってしっぺ返しを食うことになるだろう。

 

 

愚者の黄金

愚者の黄金

 

 

中国モノマネ工場ー世界ブランドを揺さぶる「山塞革命」の衝撃(著:阿甘、生島大嗣、徐航明)を読みました

ブランド携帯の模倣・コピーから始まった「山塞」携帯の躍進をきっかけに、大陸中国では徹底した分業とマーケット密着、少量多品種のプロダクトを早いサイクルで投入するという「山塞」モデルが広がっていっている。
この「山塞」モデルは、こと国営企業が幅を利かせている中国にとってもさることながら、世界的に見ても革命的な新しいビジネスモデルである(と著者の阿甘氏は主張している)。

 

本書が題材にしているのは2007年頃の携帯市場で、まだノキアが健在で、iPhoneは世に出ておらず、EMSと言えばパソコン分野に限られた話だった頃のこと。その頃すでに中国では水平分業がものすごい勢いで進んでいたというから、その後日本の家電メーカーが苦戦するのもさもありなんという話で。
早くプロダクトを投入して、ユーザー・消費者の動向を受けて素早く次の商品開発に活かすというのは、プロトタイピングの考え方にもとっても近い。
物価・賃金水準の低さから、ひとつひとつのビジネスユニットが低単価・薄い利幅でプロダクト・チェーンに加われていたという一過性の強みではあったかもしれないけれど、いろんな分野での垂直統合を相対化した、という意味ではやはり一種の革命だったのかもしれない。

 

 

中国モノマネ工場

中国モノマネ工場

 

 

自民党ー「一強」の実像(著:中北浩爾)を読みました

タイトルこそ「自民党」と銘打たれていますが、単にひとつの政党の正体を暴くというような本ではなく、1990年代からの一連の政治改革の意味や、政策立案(という名の陳情処理)過程など、学校では教わってこなかった政治のリアルまでバランスよくカバーした一冊でした。

 

例えば、幹事長や政調会長など、新聞で党人事決定と目にして何気なく「そうか」と思っていたポジションが、それぞれどういう役職で、そこにその人が就くことがどういう意味を持つのか、ということを本書を読んで初めてちゃんと分かるようになりました。

また、つい都議会選前まで安倍一強と言われてきましたが、これは安倍総裁に帰することのできる属人的な要因もあるかもしれませんが、小選挙区制の導入(中選挙区より高い得票率を得られる顔役としての総裁の比重の増加)や政党助成金制度(派閥を通じた資金配分が難しくなった)など、一連の政治改革に対応していった結果党の集権化が進んだことの現われでもあったようです。

そしてその安倍総裁が首相に返り咲く時の基軸になったのが、地方組織を反抗の拠点とした民進党への対抗という戦略だったとのこと。こうして考えてみると、もちろん一連のスキャンダルもありましたが、悲しいかな仮想敵であった民進党が弱くなりすぎてあまりにも一人勝ちに見えてしまった結果「おごり」と言われるようになった部分もあったのではと思えてしまいます。

 

実は個人的にも一度自民党の「朝食勉強会」の末席の末席に座らせてもらったことがあったのですが、役所の人もたくさん詰めていて「ああ、こうやって政策の根回しがされているのか」と身をもって体験したことがありました。国会答弁案作りでの残業と合わせ、民主主義ってのは本当にコストがかかるんだな、と思ったのを覚えています。
それと同時に、三権分立って何だっけ??みたいな気持ち悪さもありました。
与党にこれだけの役人がブレーンというか、ぶら下がりというか、いずれにせよアウトプット受け取ると同時にインプットしていれば、それは野党より断然有利だろうなと。
国会の論戦って本当に意味ないんだなとも…。

これで思い当たりましたが、こういう慣性的な利害調整過程の原体験があるから、具体的な制度変更案と実施の戦略を持たずに政治プロセスの転換をスローガン的に掲げる勢力にはまず「ホンマかいな」と眉唾になってしまうみたいです。

 

 最近の選挙の動向は、見聞きしてうっすら想像していた通り、投票率が低いときに固定票が厚い自民党が有利になり、投票率が高い時には無党派層の風が吹いて追い風にも向かい風にもなる。固定票の中でも強いのは世襲議員の地元後援会と創価学会の票とのこと。
そういう環境下で広くて薄い利益の実現を求めるにはよっぽど強い風を吹かせるしかないんでしょうかねぇ…。

 

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

 

 

人々の声が響き合うときー熟議空間と民主主義(著:ジェイムズ・S・フィシュキン)を読みました

齋藤純一氏著の「不平等を考える」 で見かけた「熟議民主主義」の親玉っぽい本と目して手に取った一冊でした。

現実の政治に自らが及ぼせる影響がほぼないと考えられるとき、政治的イシューに関心を寄せ情報収集したり考察したりする苦労はどうせ報われないから何もしないという「合理的無知」や、本質的な政策の比較ではなく候補者への個人攻撃や人々の感情を動かそうとする「説得産業による印象操作」があるとき、単純な投票では真の民意は諮れない。

実際の社会構成を反映した、参加者一人一人が自分の声が尊重されると感じられるぐらいの小グループで、公平な情報を与えらえれかつ偏りのないファシリテーションにより討議を行った場合にこそ、本当に人々が望む声を見出すことができる。それを実現するのが討論型世論調査であり、熟議民主主義である。

というのが著者の主な主張です。

 

この主張を裏付けるため、民主主義の形態として、競争的民主主義、エリートによる熟議、参加民主主義、熟議民主主義の4形態を挙げ、民主主義が叶えるべき4つの価値、政治的平等、政治参加、熟議、非専制、を各形態がどう満たすかの比較考察も行われていました。

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民主主義についてこういう整理がされているものを目にしたのは初めてでしたし、政治的平等、政治参加、熟議の3つを同時に満たすことはできないというトリレンマの存在も初めて知りました。
なので、この整理と評価がどのくらい標準的(もしくは熟議民主主義びいき)であるのか、もっと他の立場からの考察も含めて相対化する必要があるなと考えています。

 

一方で本書を手に取ったおおもとの関心、多様な視点を含んだ「理由のプール」を蓄積する手段としての「熟議」とは?というところに立ち返って考えてみると、「熟議」の質を閉示す5つの指標ー情報・実質的バランス・多様性・誠実性・考慮の平等ーは、実際何に気を付けて「熟議」の場を設定・運営しなければならないか考えるうえで参考になりました。
他方「熟議」の結果をフォーマルな政治プロセスに直接反映させようとすると、かなり大がかり(参加者を全国から一か所に集め、謝金も払って泊まり込みで議論させる)な仕組みが必要となるようで、あまり現実的ではないように思いました。
ここはフォーマルな政治プロセスへの接続にこだわりすぎず、「熟議」の結果を発信・見える化することで「理由のプール」を貯めていくという齋藤氏の見立ての方が現実性がありそうです。

 

バイオやAIなど先端的な技術をめぐる規制を定めるためだったり、セクシャルマイノリティー・認知症当事者・相対的貧困下にある家庭や子どもなど当事者の意思を実際の制度や慣行の変革に活かすためだったり、はたまた憲法改正のような自分たちに大きく影響する政治的判断だったり、代表を選ぶための選挙だけでは真の民意を汲み取れず、かといって生の意見を問う直接投票をするだけでは乱暴で、「熟議」が求められる場面は少なからずあると感じています。
これをカジュアルに、でも実質を伴うように開けるようになれたらワクワク刺激的だろうなぁと妄想してしまうのでした。

 

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義

 

 

生活保障ー排除しない社会へ(著:宮本太郎)、共生保障ー<支え合い>の戦略(著:宮本太郎)を読みました

齋藤純一さんの「不平等を考える」で言及されていたことがきっかけで読み始めた2冊。

 

夫が働き妻が家族のケアをするといういわゆる標準家庭を前提に、各種補助金や公共事業など主に供給サイドへのテコ入れで経済成長と雇用の確保、さらには企業内での人材育成を賄うことで「支える側」を作り、そこから外れ困窮する人たちを属性ごとに絞り込むことで「支える側」を支えるという形で整えられてきたのが日本の社会保障制度の特徴でした。
しかしこの社会保障制度が、未婚化、高齢化、グローバル化、雇用の劣化などの環境変化により機能不全に陥っており、制度の間に落ちてしまったり、困難が複合化することで十分な社会保障が受けられなくなっているのが現状だそうです。

この環境変化に対応するため著者が必要と指摘しているのが、「支える側」・「支えられる側」という二分法や福祉と雇用の断絶を乗り越え、支え合いへの参加をひろく促すことと指摘しています。

これを端的に概念図として示しているのが下記のもの。

支え合いへの参加の機会として「雇用」と、生きる場である「居住・コミュニティ」があり、そこを一時離脱しなければならないような周囲の要因があっても、再びこの支え合いに戻ってこられるような、出入りができる施策が求められるとしています。

 

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Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの詳細な内容や、すでに地域で実践されている例(藤里町社会福祉協議会NPO法人ふるさとの会、社会福祉法人生活クラブ風の村、弘前市富士宮市鹿児島市ナガヤタワー、シェア金沢など)は本書に譲るとして、感じたことを3点ほど。

 

1点目は、住宅の問題は大きいのだな、ということ。
たまたま並行して読んでいた都市における住宅サービスをめぐる政治の論考でも指摘されていましたが、日本では新築住宅を購入することへの動機づけが制度的に(多分文化的にも)強く、住まいを得ること・住まうことが極めて個人的な選択とみなされている傾向があるんじゃないでしょうか。
それが良質な賃貸住宅の供給や中古住宅の流通を妨げ、基本的なニーズである住まうことのコストを非常に高くしているし、同時に地域的な連帯、社会関係資本の蓄積の妨げとなり、困窮世帯の孤立化を招きやすくしていると思います。

 

2点目は、これはもう社会契約を新しく結びなおすくらいのつもりでやらなければ、実現しえないのではないか、ということ。

上記の住宅の件もそうですが、今まで量の差はあれ企業を通じて提供されてきた住宅や家族扶養にかかる手当をもはや企業が支給しえなくなっている現状を踏まえれば、こういった基本的なニーズを自力で満たせない場合には公的な制度で手当を支給する必要があると思います。

また社会保障や福祉へのニーズが社会全体に広がっているという見方にもとづき、選別主義から普遍主義への移行が模索されてきたそうですが、これはまさに今の時代に必要とされているアプローチです。
すなわち、LIFE SHIFTにも著されている通り、人生100年時代を迎え、「強い個人」として「支える側」であり続けるためにも、意識的に、一時的に、働くことの第一線から離れ、じっくりトレーニングを受けたり、自分が進みたい道について落ち着いて考える時間をとることが必要になってくるんじゃないかと思います。でも実際は、一時的に(あるいはその後好条件の仕事につけなければ恒久的に)収入が落ち込むことを懸念して、働くことを休めない。そうするとどこかで自分の働き手としての劣化が著しくなり、働きたくても働けない状況に追い込まれてしまう。
高齢化に伴う介護への従事の必要性や自らの病気の発症、グローバル化とテクノロジーの加速的進化による経済競争の激化(による失業)など、起きてしまった困難への事後的対処という意味もさることながら、社会保障や福祉は、今働き手として活躍している人たちにとっても、これからも積極的な役割を果たし続けるために必要になってきているのだと思います。

これらを実現するためには、当然今よりさらに大きな財源が必要になるのですが、追加的な負担への抵抗感がとても大きい。

これまでは、とりあえず真面目に働くから、そこからこぼれた人たちへの対応はよしなにやっておいてよ、でやってこれたかもしれません。 
でも上記の通り、社会保障や福祉はどこか別のあっち側の人たちだけのものではなく、今は一見遠いところにいるように感じている人たちにとっても、実はすぐ隣にあるべきものになってきているのが現実なのではないでしょうか。同じ制度の下にいる者として、自分たちが必要としている権利・義務関係が大きく変わってきているのだと思います。

著者である宮本太郎氏は政府の審議会の座長等も務められた方で、こういう主張を持った人が中にいてもこれだけ制度変革は進まないということは、制度の受益者であり同時に法の編者でもある自分たち一人一人の発想がよほど大きく変わらないと 変革も実現しなさそうだなぁと感じました。

 

3点目は、共生社会でも目指されているアクティベーションや社会的包摂を実際に実現できたとすれば、それは日本の大きな世界への貢献にもつなげられるかもしれないということです。
違いを違いとして認め、ないものではなくあるものに目を向け、本人の意思を尊重しながら多様な形で社会への参加の機会を開いていくというのが、アクティベーション・社会的包摂の根底にある姿勢だと理解しています。これは、高齢者や障碍者のみならず、ありとあらゆるマイノリティとされる人たちも含むダイバーシティを容れた社会と極めて親和性が高い姿勢だと思います。
テロに走ってしまう人たちや、移動先の社会になじめない難民・移民の人たち、自分たちは取り残されたその他大勢だと感じているような、周縁化されていると感じている人たちにどう社会参加の道を開いていくかというのは、グローバルにも緊急性が高い課題だと思うのです。
もし日本でダイバーシティを容れつつ社会的包摂を実現するような社会保障も含む制度が実現できたら、それは世界にとっても何らか示唆を与えうるようなものになるのではないかと思います。

 

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

 

  

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

 

 

2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方(著:藤野貴教)を読みました

読後の感想は一言「やはり」である。
何がって、やはり自分は彼に、彼の本拠地・幡豆で会いたい。
どういう道のりでここにたどり着いたのか。
ここからどこに向かおうという「意思」をもっているのか。


もともと面白そうなことやっているな、というのはSNSで見て感じていました。

しかし本書の端々から垣間見える彼の視線には、僭越ながら感覚的に近しいものを感じたし(例えば、お金になりやすいことと引き換えに、自分の中の大切なもの、時間・自由・感情を犠牲にしているのかもという一節とか)、さらには実は一番取り組みたいのが「子どもの教育の未来を創る」ことというのを読んで、これはもう、と思うに至ったのであります。

 

頭に思い浮かぶ話したい・聞きたいことも多々あります。
本書の肝であるこの図は『Powers of Two』と読み合わせると二人が組み合わさって達成されるのでもいいんじゃないかとか、

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なんでこの二人がつながってないんだろうっていう将来教育のことをやりたいけど今職業的には人材育成・研修を仕事にしている自分のソウルメイトの話とか、問いを立てるAIって本当に作れないんだろうかとか。

でもそれとは別に、気持ちの部分で彼の世界(観)を体感してみたいという好奇心がムクムク湧くし、きっとそれは自分にとって他では得がたい異化体験になるんじゃないかという予感もびんびんする、というのが大きいです。

 

じゃ果たして逆に自分が返せるものがあるんだろうか?というのが不安ではあるのですが、気持ちを持っていれば、機会はいつか来るべき時にやってくると思っているので、その時にちゃんとキャッチできるようにアンテナをオンにしておかなくっちゃと。

 

ちなみに、本の内容は、AIが当たり前になっていく世の中で、AIと人間がそれぞれどんな仕事に向いていてどう協働することがハッピーかを、ロールモデルとなる方たちの例も引きながらわかりやすく示してくれています。

AIの最新の動向もよくまとまっているし、読みやすいので、ぜひ読んでみてください!

 

2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方

2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方

 

 

「接続性」の地政学(著:パラグ・カンナ)を読みました

本書での著者パラグ・カンナの主だった主張を要約するとこんな感じになります。


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21世紀、これからの世界中の人々の繁栄は、サプライチェーンにかかっている。
メガシティを含む都市が基本的な経済の単位になり、外部への開放性・他の都市との接続性が地政学的な重要性を増していく。

そこでは国境はサプライチェーンの流れを阻害する要因になりかねない。
政治的な軋轢があるようなら、主権国家はどんどん小さく分割していけばいい。
政治的に落ち着けば、経済活動がスムーズになり、小さすぎる国家は国を開放して接続性を高めようとするだろう。
(EUに加盟した東欧諸国や、東ティモールのように)
政治的な国境を無理に守り続けることは高価につく。
紛争を解決し、しばしばその原因となる貧困を緩和し、そのままでは周縁化されかねない人々に社会参加と雇用の機会を提供するには、経済的な接続性を高めサプライチェーンに参加できるような施策が必要である。

 

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著者は上記のことを、中国の一帯一路構想をはじめとする各国へのインフラ建設支援や、中東~ヨーロッパに至る様々なパイプライン敷設など様々な具体例を挙げつつ説明しています。

特に中国の動きは本当にたくさん取り上げられていて、中国の視点から世界をどう見ているか、何を戦略的な目標に据えているのか、を垣間見ることができます。
例えば中国が南シナ海の資源開発に固執し、ミャンマーを抜けてインド洋に至るアクセスのためにインフラを建設し、はたまた陸上でシルクロードの復活を目指すのは、ひとえに化石燃料資源の多くをボトルネックであるマラッカ海峡を通して輸入し続けることのリスクを低減したいからである、というように。

 

日本の外交、特にODAも、長らくインフラ重視で展開されてきていたのですが、一時ソフト重視の風潮に流され、折からの予算縮減と合わさって、右肩上がりに対外投資・対外支援を増やしていった中国に全く追いつけなくなってしまいました。

国レベルであれ自治体や都市レベルであれ、経済的な活力を維持しそこに暮らす人々の雇用・生活を守るため、限られた資源を有効に投資するにはそれが「接続性」の向上に寄与するかどうかがひとつの判断基準になるのではないかと思います。

 

もはやグローバリゼーションの流れが逆行することは考えられなくなった今、何を戦略的な目標に据えればいいのかの指針を示している一冊でした。

 

「接続性」の地政学 上: グローバリズムの先にある世界

「接続性」の地政学 上: グローバリズムの先にある世界

 

 

「接続性」の地政学 下: グローバリズムの先にある世界

「接続性」の地政学 下: グローバリズムの先にある世界