引き裂かれた道路ーエルサレムの「神の道」で起きた本当のこと(著:ディーオン・ニッセンバウム)を読みました

エルサレムに4年間駐在したウォールストリートジャーナル記者の著者が描いた、かつて東西エルサレムを分けていたアブトル地区・アサエル通り沿いに住む「普通の」人々の暮らしの様子。 

 

アサエル通りを挟んで、西側にはユダヤ系の人々が、東側にはアラブ系の人々が住んでいた。ひとくちにユダヤ系、アラブ系といっても、2陣営に真っ二つに分かれるわけではない。ユダヤ系の中には、中東の各国からイスラエルに移住してきた、アラブ系イスラエル人もいる。

イスラエルユダヤ人の国である」という国家のアイデンティティゆえに、アラブ系住民への差別的待遇を受けることもある中、ユダヤ系・アラブ系どちらの住民もそのことに多様な意見を持っていて、ユダヤ系住民の中にも待遇の差を認め正すべきと考える人もいれば、アラブ系住民の中にも一定の生活インフラや行政サービスが提供されることを評価する人もいる(特にパレスチナ自治機構に比べて)。

 

民族や宗教でひとくくりにせず、そういう機微を含んだ双方の住民たちの葛藤や交流が偏りなく描写されていて、とっても興味深い本でした。

ありきたりですが、「うぉ、エルサレムの現実ってこうなんだ!」と。

銃声が響いていたり、車が突っ込んだり、暴力と隣り合わせの緊張を強いられる一方、道の東西またいでのご近所付き合いや、共存に向けたコミュニティ活動も展開される。

親はやはりというか、もちろんというか、「無事今日帰ってくるだろうか」とっても心配しながら子どもを学校に送り出す。

 

ニュースではセンセーショナルな映像しか飛び込んでこないけれども、多くの普通の人たちは普通の暮らしを続けていけることを願っている。

ユダヤ系・アラブ系両陣営間の緊張が高まるのは、そういう日常の営みとは別の次元で始まることなのに、お互いの「普通」が何か、普段から交換していなければ、日常の生活の中にも猜疑が入りこみ大きくなっていってしまう。

近くにいるだけ、というのは、問題を大きくややこしくしかねなくって、近くにいるほど互いのことを知り合う機会が大切なんだなと思いました。

 

あと、本書で嬉しかったのは、アラブ系・ユダヤ系住民の相互理解促進のため、両方の子どもたちが合同で合唱団を作っていたのですが、その合唱団が日本へリサイタルしに行ったと触れられていたこと。
どこがかは分かりませんが、きっとどこか招聘元が日本にあったに違いない。
いいことやってるなーって、うれしくなりました。

 

引き裂かれた道路: エルサレムの「神の道」で起きた本当のこと

引き裂かれた道路: エルサレムの「神の道」で起きた本当のこと

 

 

プラチナタウン(著:楡周平)、和僑(著:楡周平)を読みました 

東北のとある町を舞台にした地域再生の物語。

商社で穀物取引部門の部長を務めていた主人公が、あるきっかけで故郷の町の町長に就任し、財政再建団体転落目前の町を再生していく。

1冊目プラチナタウンでは、リタイア直後の人々をターゲットに、リタイア後の生活を送るための「プラチナタウン」を築くことで、住民増と雇用増(おもに介護職)、地元農商業の再興を図る。

2冊目和僑では、老人さえ減りゆく将来に向けての次の一手として、地元農産品やそれを使った「日本食」(といってもB級グルメ)の海外輸出・展開を打ち出す。

 

小説なので調子よく進むなぁという箇所はまれにありますが、「はぁ、実際ありそうだよね」というディテールが、いろんなところに散りばめられています。商社の中の様子とか、町議会とか、箱物づくりとか。

あくまで架空の話という前提のもとですが、「地方のお作法」を窺い知る参考文献としてさらっと読むのにはいいんではないかと思いました。

 

プラチナタウン

プラチナタウン

 

 

和僑

和僑

 

 

団地の話(編:東京R不動産)を読みました

社会保障政策としての賃貸集合住宅」という概念がうっすら頭に残っていている時に、図書館の特集コーナーで団地×東京R不動産というワードに出くわし完全に「ジャケ借り」した一冊。

 

ちっちゃい本の中に、詩あり、小説あり、対談あり、写真集あり、団地をめぐる様々な表象が詰め込まれたシャレオツな本でした。個人的に一番素敵な作品と思ったのは松田青子さんの二人のユキという女性が登場する小説でした。

 

団地暮らしのイメージアップ作戦の一環としてたぶん作られたんだろうなぁとゲスな勘繰りですが、その目的は十分に果たしていると思います。

 

団地のはなし 彼女と団地の8つの物語

団地のはなし 彼女と団地の8つの物語

 

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう(著:ジャン・ガブリエルガナシア)を読みました

日経の書評で見つけて読んだ本。
タイトル(邦題)は、若干盛ってる感がします。どちらかというと原題のThe myth of the sinularityの方が内容をよく表していて、人工知能の真実というよりシンギュラリティ論の「神話性」を指摘した一冊です。

 

著者曰く、シンギュラリティ論は、ムーアの法則という観察された事実をあたかも普遍的な原理であるかのように拡大解釈・適用しており、他シナリオとの比較衡量や科学的な根拠を欠く物語=神話にすぎないと切って捨てます。

人工知能は、本来的にモデル化可能な特定目的型の道具であるにも関わらず、シンギュラリティ論や汎用人工知能・強いAIの到来を吹聴する人たちは、人工知能という言葉・外観はそのままに現実性の高くない内容に換骨奪胎しようとしている、と批判します。

 

ここまではふむふむ、そうかもな、と思える分析・批判なのですが、その先、人工知能の開発に携わるITのメジャーたち、GoogleAppleFacebookAmazon、がなぜ自ら開発を進めるAIの暴走に懸念を示す動きをするかについての分析あたりから、若干くもゆきがあやしくなってきました。

これらGAFAは、自らの責任は回避しつつ強いAIの出現は不可避であると人々に信じさせようとしており、データを囲い込むことによって政府に代わり人々を支配しようとしている、というのが著者の主張です。

 

ここまで話が行ってしまうと、それこそ科学的根拠を欠いた「まぁ、そういうシナリオも可能性ゼロではないわな」というレベルの話になってしまい、シンギュラリティ論と同じ穴のムジナになってしまっているなぁ、というのが率直な感想です。

 

今度は過去のブームとは違うといわれる人工知能・AIの先行きについては、いろんな可能性・パターンがまだオープンに存在しているというのが現状だと思っています。

何かに極端に振れているシナリオが出てきたときに、それは一方の端のシナリオだとバランスとった見方ができるよう、いろんなパターンの考察を入れておくという意味で、本書も相対的な意味がある一冊なのだと思いました。

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう

そろそろ、人工知能の真実を話そう

 

 

ヒルビリー・エレジー(著:J.D.ヴァンス)を読みました

自身その出身である著者が、自らの半生を振り返ることを通してつづった、アメリカ東部アパラチア山脈沿い一帯に暮らす白人労働者階級の暮らしぶり・価値観・文化的背景の自伝的ルポ。

 

祖母・祖父や姉・叔母など親類に守られ自身は最終的にイエール大学法科大学院を卒業し法曹界で安定した職を得た著者は、大規模製造業の生産拠点が立地することにある意味「乗っかって」中流の生活を手に入れられた時代が過ぎてしまったにも関わらず、自分たちの職業選択(の好み)を変えようとせず、また必要な努力もせず、結果的に繁栄から取り残されてしまった白人労働者階級の悲哀に寄り添いつつも、変わるべきところはあると冷静に指摘している。

 

しかし、本書に描かれたような、失業―薬物・アルコール等への依存症―家庭の崩壊ー貧困という、絵に描いたような貧困の連鎖が繰り返され、著者自身も分析しているような「学習性無力感」が階層的に蔓延しているとしたら(実際しているようだが)本当に悲劇的である。
自身の経験も踏まえて、安定した保護者の存在や、社会関係資本の有無が、子どもの将来を大きく左右していると指摘しているが、いずれも社会階層を固定化し、格差を拡大する方向に作用している。

だから、ヒルビリーにとって、よくよく主張を聞けばとてもまっとうなリベラルであるはずのオバマ前大統領は、もはや自分たちに味方しない、むしろ自分たちの転落を正当化する「実力主義」の世界の成功者で、いちいちもっともなことを言われて逆に腹が立つ存在になってしまう。
それに対して長期的に見れば自分たちの利益を損ないかねない、一見分かりやすい空証文を繰り出すトランプには支持を表明する。

 

なんで昨年大統領選でこんな結果になったのかー100の論説を読むより本書を読んだ方がよっぽど腹落ちして得心がいきました。

自身もその出身であるところのヒルビリーの人たちとその直面する現実に対して捧らえれた、まさに哀歌=エレジーでした。

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

 

愚者の黄金(著:ジリアン・テット)を読みました

過度の専門分化が招く問題を提起した「サイロ・エフェクト」の著者、ジリアン・テット氏の前著。(というか、たぶん世間的には「サイロ・エフェクト」が本書「愚者の黄金」の次著なんでしょうが、、、)

2008年の金融危機実相とか、新聞で読んでた以上の内容には興味なかったのですが、「サイロ・エフェクト」があまりに面白かったので、この著者、そして土方奈美さんの訳ならきっと楽しんで読めるだろう、と思って今更ながらさかのぼって読んでみました。

 

CDSの起源となるBISTROを、J・Pモルガンのチームがなぜ作ったのか、それがどう「誤用」されて金融危機に至ったのかが読み解けて、期待通りの面白さでした。

 

きっとそれも「サイロ・エフェクト」を書くひとつのきっかけになったのだと思うのですが、CDSCDOのリスクが各金融機関に(間接的にであれ)積みあがっていっているとき何が行われているか分かっていたのは限られたセクションの人たちだけだった、というのが俄かに信じがたいですが、ああそうなんだ、という感じでもあります。

 

でも、トップもそれでいいのか、というのはちょっと違和感を禁じえません。

自分の会社が何で利益を上げているのか、それがどういう仕組みでそうなっているのかを分かっていないというのは、何があるとそれが損なわれるかへの備えもできないということなので(そして実際、リスクオフに失敗して、危機が起きると会社に損失を与えてしまったわけですが)、それって果たして経営していると言えるのだろうか?

もしそんなもんなら、巨額の報酬を正当化できるほどの能力はないんじゃないだろうか。(これはきっと今もそんなに変わってない。)

 

だから規制で縛ることも必要かもしれないけど、それも回避しようとする「創意工夫」(規制との両立を目指したBISTROにだってその性格がないわけではない)が続けば結局はいたちごっこに終わってしまう。
 精神論に近いものになってしまうけれども、短期的な利益に走りすぎない自制へのコミットと企業文化・倫理性でしか「音楽が鳴っている間は踊りをやめられない」という事態を回避できないし、金融機関に資金を投じている投資家もそれを美点ととらえられるようにならなければ、最終的にはムリがたたってしっぺ返しを食うことになるだろう。

 

 

愚者の黄金

愚者の黄金

 

 

中国モノマネ工場ー世界ブランドを揺さぶる「山塞革命」の衝撃(著:阿甘、生島大嗣、徐航明)を読みました

ブランド携帯の模倣・コピーから始まった「山塞」携帯の躍進をきっかけに、大陸中国では徹底した分業とマーケット密着、少量多品種のプロダクトを早いサイクルで投入するという「山塞」モデルが広がっていっている。
この「山塞」モデルは、こと国営企業が幅を利かせている中国にとってもさることながら、世界的に見ても革命的な新しいビジネスモデルである(と著者の阿甘氏は主張している)。

 

本書が題材にしているのは2007年頃の携帯市場で、まだノキアが健在で、iPhoneは世に出ておらず、EMSと言えばパソコン分野に限られた話だった頃のこと。その頃すでに中国では水平分業がものすごい勢いで進んでいたというから、その後日本の家電メーカーが苦戦するのもさもありなんという話で。
早くプロダクトを投入して、ユーザー・消費者の動向を受けて素早く次の商品開発に活かすというのは、プロトタイピングの考え方にもとっても近い。
物価・賃金水準の低さから、ひとつひとつのビジネスユニットが低単価・薄い利幅でプロダクト・チェーンに加われていたという一過性の強みではあったかもしれないけれど、いろんな分野での垂直統合を相対化した、という意味ではやはり一種の革命だったのかもしれない。

 

 

中国モノマネ工場

中国モノマネ工場