潜伏キリシタンは何を信じていたのか(著:宮崎賢太郎)を読みました

2018年にも世界遺産登録と目されている、長崎・天草のキリスト教関連遺跡。
その長崎・天草で、江戸時代の禁教を耐え忍び信仰を守ったとされる潜伏キリシタンたちが本当に信仰していたものは何だったのか?を考察した一冊です。

 

本書で著者は、潜伏キリシタンたちが「仏教を隠れ蓑にキリスト教の信仰を守り抜いた」 というドラマティックなストーリーは文字通りドラマで、実際のところは一神教たるキリスト教のみに帰依したわけではなく、現世利益をもたらしてくれると言われる新しい神をやおろずの神々に並べて拝むようになり、やがて禁教下で指導者もいなくなると祖先が大切に守ってきたしきたりだからと同じ宗教的慣習を続けていたに過ぎない、ということを、集落単位での潜伏キリシタン摘発時(いわゆる「崩れ」)の取り調べ調書や、唱えられてきたオラショの変遷、布教者と改宗者の人数比などを根拠にして繰り返し主張します。

 

誤解してほしくないと前置きはされていますが、なぜこんなに潜伏キリシタンたちが信仰してきたものは似非キリスト教に過ぎないという主張を延々繰り広げるのだろうか?と読んでいて度々疑問に感じました。
実際五島列島を訪れ、今も地元の方々に守られている教会を目の当たりにすると、「ああ、こうやって延々受け継いでこられたものなのだな」と、その歴史と営みに尊敬の念を覚えたのですが、その信仰の内実が空疎であった、と言っているように感じられて違和感を覚えたのです。

 

著者はどういう心づもり・意図で本書を著したのだろうか?といぶかしく思って読み進めてみて、最終章になってやっとちょっと分かった気がしました。

著者の他の著作を読めば分かったのかもしれませんが、著者は現在の日本でのキリスト教の受容のされ方に問題意識を持たれているようです。いわく、日本でキリスト教というと西洋で信じられてきたジェニュインなものだけが想起されるけれども、それがキリスト教を受容するすそ野の拡大を妨げている、と。

なるほど、確かに、フィリピンでもキリストというよりマリア様、それもかなりローカライズされたものが信仰の対象になっていて、およそヨーロッパでの姿とはちょっと変わっていそうだな、という気もします。

日本においても、仏教は神道に適合し、神仏習合したことで信徒拡大に成功したと著者は見ています。

 

だから日本でキリスト教がもっと受容されようとするのであれば、真正性をひたすらに守ろうとするのではなく、進んでローカライズするべきである、というのが著者の考えであるようです。
そのひとつの例が潜伏キリシタンで、二百数十年にわたって弾圧を耐えてきた人々ですら(あるいはだからこそ?)信仰していたのはオリジナルなキリスト教とはおよそ形が変わっていて、いわんや信仰をオープンに選択できる今の世の中でをや、ということが一番言いたかったことなのだ、と腹落ちしました。

 

潜伏キリシタンの方たちが実際に何をどのように信じていたのか、ということは歴史的資料が乏しく、著者の主張も「強く推測される」「~と考えざるをえない」というものが多くあります。

同じことは当然一般に流布している仏教を隠れ蓑に云々というイメージにも当てはまることで、中庸を取りに行くうえでこういう見方もあるというバランスをとるのには参考になる一冊です。

 

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

 

 

京大式DEEP THINKING(著:川上浩司)を読みました

元AI研究者で、今は不便益(不便さが生む利益)の研究に従事する著者の手になるより深く思考するための指南書。

 

「鉛筆による手書き」が生むひっかかりやダイレクトな体感が、反射的な浅い思考ではない、じっくり広がり・奥行きのある思考を生むのだそう。

 

ロジカルなアルゴリズム的縛りからどう逸脱していくかという点で、東浩紀氏の観光による誤配や千葉雅也氏のユーモアによる転回と通底するものがあるなぁと感じました。

 

AIやコンピューティングの存在を前提としたとき、体感そのものやそれをフックにしたセレンディピティにどれだけ鋭敏でいられるかがヒトの価値を左右するようになるんだろうという印象を改めて強くした次第です。

 

京大式DEEP THINKING

京大式DEEP THINKING

 

 

うしろめたさの人類学(著:松村圭一郎)を読みました

エチオピアがフィールドの人類学者である著者が、エチオピアと日本を行き来する中で感じた「違和感」を手掛かりに、より公平な世界に近づくために各個人がどう他者と対峙すればいいかを考察・提案している一冊。

 

著者によれば「国家」や「市場」は一見個人の力の及ばない確固たる存在であるように思われがちですが、実際はわたしたちひとりひとりが日々の生活、わけても「モノ」のやりとりを通じて今ある姿の形成に能動的な役割を果たしています。
それならば、他者とのやりとりの仕方をずらしていくことで「国家」や「市場」による過剰な支配も変えることができるはずであり、具体的には圧倒的な不均衡に触れたときに感じざるをえない「うしろめたさ」に敏感になることで他者との「つながり」に自覚的になり「国家」や「市場」に任せておけない自律的な「社会」を生むことができるのではないか、と主張しています。

 

こうした視点を著者は「構築人類学」と名付け、従来の人類学のアプローチと対置します。従来の人類学が世界には多様な価値観で生活が営まれている社会があってそれらのうち傍流の社会は構造的抑圧を受けていると指弾するのにとどまりがちなのに対して、構築人類学は商品交換(市場)/贈与(社会)/再分配(国家)の境界線を引き直し続け、越境を促すことで世界を変えていく手がかりを可視化しようとするのです。

 

世界を変えるというと、ややもすると大上段に構えて中身が空疎になりがちですが、著者のいう「構築人類学」は自分たちの日々の生活の中にすでにあるものへの認識から倫理性と次の行為へのきっかけを立ち上げようとするもので、とても地に足がついていいなぁと思いました。
とは言えそれは日常にまみれているので、実践する上ではよほど自覚的でないといけなくって、決して行うのが簡単だというものではないだろうという印象も持っています。

 

理性以前の感情的な反応につながりの手がかりを求めるところは、東浩紀さんの観光客論と通ずるところがあります。世界の断絶に政治、経済以外の視点からアプローチするひとつの方法として、越境的行為による出会い頭の反応というのがありそうだな、と思いました。

 

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

 

 

勉強の哲学 来るべきバカのために(著:千葉雅也)を読みました

グローバル化が進んだり、社会が断片化したり、AIがどんどんヒトの領域に入りこんできたりして、バカ=「話が通じない相手」が増えることが見越される中、その陥穽に陥らないようにするために私たちはどういう姿勢で学ばなければいけないのかーーーを説いた本では全然ありません。
(自分はてっきりそんな内容かな?と思ってました。)

 

言われてみれば「ああそうか」なのですが、本書は、そもそも勉強するとはどういうことなのか?について哲学的に考察した上で(=原理編)、それを実践するためのテクニックを紹介する(=実践編)、という内容構成になっています。

 

本書を読み通してわが身振り返ってみると、確かに本は比較的多く読んでいてこういう形で記録も残していますが、自分の感じたこと・考えたこととそれに至ったエビデンスとしての原文を切り分けられるように読書ノートをとったり、本の位置づけを気にして読み分けたり網羅したりはしていないので、筆者の言う厳密な意味では勉強しているとは言えないんだろうなぁと思いました。

でも、これからもそういう厳密な勉強を目指した勉強はしないんだろうな、とも思っていて、それはそれでいいやと思っています。

自分にとっては自由に動けるというのが享楽的こだわりであって、本を読んで(それをそう呼んでよければ)勉強しているのも、自由に動くためなんだろうと考えています。だからちゃんと順を追ってブロックを積み上げるようにある分野について精通していくよりも、その時自分を相対化して動くために必要なものをpickyに摂取していく方が性に合っている。食い散らかすことになってもまぁ何がしか血肉にはなっているだろうし、その組み合わせ方とか軌跡がわずかずつでも自分の個性やこだわりに反映されていって動き方や出していく結果につながっていけばいい、くらいの心づもりでいます。

 

本書では書かれていない、破壊した自己で何がしたいのか?によって、勉強の実践の方法も変わってくるんじゃないか、というお話でした。

 

【勉強の哲学あらすじメモ】

  • 勉強とはすなわち自己破壊で、なかんずく世界を認識し構築する手段でもある「言語」を新しくすることである。
  • 新しくする方向としては、①本当にそうなのか?とツッコミを入れるアイロニーと、②ズラしてボケるユーモアがあって、まずアイロニーで現に使用している「言語」を成り立たせている環境に疑いを向け、次いでユーモアに転回して環境を複数存在させて比較し続ける、という順番で進めるのがよい。(自覚的に環境に入りなおすことが「来るべきバカ」)
  • ユーモアによる連想もそのままでは際限なく広がっていってしまうが、自らの享楽的こだわりによって有限化される。この歯止めによって足場を仮固定することで勉強を中断することができ、また同時に継続させることもできるようになる。
  • 勉強にあたっては信頼できる本、すなわち勉強を続けている人たちとのつながりがある著者の本を選ぶ必要がある。本はそうしたつながりがない一般書と専門書に分かれており、専門書も入門書、教科書、研究書がある。
  • 勉強を継続するにはタイムラインを残すことが有効で、それにはノートアプリが役立つ。また書けるようになるためには特に箇条書きで書きながら考える習慣をつけるとよく、アウトライナーを利用すると書きやすく整理もしやすい。

 

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

脳の意識 機械の意識ー脳神経科学の挑戦(著:渡辺正峰)を読みました

神経科学の動向を追いつつ、人の意識はどこから生まれるのか?という自然則に迫った一冊。脳神経科学の歴史と動向を幅広くカバーしていて、新書にしてはとても盛りだくさんの内容でした。

 *自然則とは、「光速度不変の法則」のように、現にそうなっているからそうであるとされ、なぜそうであるかをそれ以上問われない科学の基礎となっている法則のこと。

 

科学者らしく、緻密に該当しない対象を選り分けて退けながら、意識を産む源である可能性が高いと考えられる存在を析出していった結果、筆者は「生成モデル」と呼ばれる神経アルゴリズム(神経処理の手順)を第一候補として挙げています。

情報はたんに情報として存在するだけでは意味をなさず、解釈されて初めて意味を持つものです。脳のシナプスの発火も同様で、単に発火したというだけでは意味をなさず、それがどの感覚器に由来するかを知り、どう扱えばよいかを把握する神経回路網が解釈するから「見え」や「聴こえ」を生むことができる。だからシナプスの発火単体(=情報単体)ではなく、神経アルゴリズムが意識の自然則の客観側の候補となるのだと言います。

 

*生成モデルとは、低次から高次への一回の処理で得られた高次の活動を鵜呑みにするのではなく、高次の活動をもとに低次の活動の推測値を出力し、それを感覚入力由来の低次の活動と比較、その誤差を用いて高次の活動を修正する、という処理手順のこと。

視覚部位を例にとると、低次視覚部位を、①眼から感知した感覚入力層、②高次視覚部位から生成された生成層、③両者に挟まれ誤差を析出する生成誤差層に3分し、③で発火するニューロンを補正したうえで高次視覚部位にフィードバックするというステップを踏む。

 

正直、取り上げられている実験がどういう条件とどういう条件を比較していて、だから何が棄却されたのか・支持されたのかを細部まで理解しきれたわけではないのですが、どういうアプローチで意識の源に迫ろうとしているのか、今どこまで進んでいるのかは把握できたように思います。

 

そして本書の最終章では、脳の意識を機械に移植できるか、できるとしたら何をどう再現すればいいかを検討しています。

神経アルゴリズムを完全に復元できたとして、最後に残る難しい問題は、記憶をどう移すかということだと指摘しています。感覚意識体験(「見え」「聴こえ」などのクオリア)は確かに再現できるのですが、私が私であるという根拠になる記憶がなければアイデンティティは失われてしまうからです。

 

あと機械への意識の移植の話を聞いて個人的にいつも気になるのは、ヒトの身体性は本当に全く気にしなくていいのか、ということです。
確かに感覚器官からの入力については、信号化することで脳単体をモデル化することで回収できてしまう可能性があるとは思います。
他方、もし、ヒトの身体に脳とは独立して環境との相互作用を処理するアルゴリズムが存在していたらどうなるでしょう?(ある種のクセや、偏りみたいなものもあるかもしれません。)
身体・感覚器官から脳への入力信号が、脳から自律した形で変わっていき、それが翻って脳の神経アルゴリズムを変化させていくこともありうるんじゃないでしょうか。

筆者は意識の自然則の一般形として「取り込み」を想定しています。因果関係性を含めて取り込みが起きたとき、取り込んだものの感覚意識体験=クオリアが生じるのではないかと推測しています。

これにも引きつけて考えると、ヒトの意識をコンピューターに移植するには、取り込みの入り口となる諸感覚器官・身体についても(同じ姿形ではないにしても)セットで再現されなければ、連続性を失ってしまうんじゃないかと思うのです。

 

さて、脳の中身だけがコンピューター上に移って生き続けるような日は本当に来るんでしょうか?

 

 

クラシック音楽とは何か(著:岡田暁生)を読みました

ながら作業がしやすいから、無音より集中できる時があるから、など、なんとなくの理由で聴くというより聞き流しているクラシック音楽

そもそも定義は何なんだろう、ドラクエのテーマソングはオーケストラが弾いてるけどクラシックではないよなとか、そんなレベルの自分にとっても、入門書としてとっても面白く読める一冊でした。

クラシック音楽全般の興りから現在に至る流れ、時々で活躍した作曲家の作風とその時代背景などが紹介され、おおまかに全体像をつかむのにとっても参考になります。

 

名前からしてとてもとても古い音楽たちなのだろうとイメージしていましたが、ほんの18世紀後半くらいからの作品がクラシック音楽なんですね。

日本は開国後、鹿鳴館建てて、必死になって西洋の伝統を取り込もうとしたものだと思っていたのですが、その時点でもたかだか100年くらい前からの芸術でしかなく、むしろ共時的な流行について行っている、という見せ方だったのかもしれないと認識を改めました。

 

もともと雑誌か何かに連載されていた記事を再構成した本なので、一章ごとが長すぎず読みやすいです。それに大事なポイントになりそうなことは元の連載の別の回=本書の別の章でも繰り返し述べられるので、頭に残りやすいという特典も。

 

プロだからそりゃそうだ、という話かもしれませんが、著者が作曲家や楽曲、音楽の町の雰囲気について描写する文章の表現力は半端でなく豊かで、その空気感などもとても伝わってきます。

恩田陸の小説にしてもそうですし、パンフレットの解説にしてもそうですが、他の表現手段(主には文章)で、ある芸術分野・作品の魅力や世界観、ありていに言ってしまえば「良さ」を伝えるという越境的行為ができることは、すごい才能だと思います。

 

クラシックが嫌いじゃないけどよく知らないという人や、食わず嫌いの人におススメの入門書です。

 

クラシック音楽とは何か

クラシック音楽とは何か

 

 

戦争調査会 幻の政府文書を読み解く(著:井上寿一)を読みました

戦後幣原喜重郎の下、日本人の手により開戦と敗戦の理由を検証しようと設置された戦争調査会。結果的にはGHQの命により、最終報告をまとめるに至らなかったが、同調査会の集めた資料をもとに、著者が分析の続きを試みた一冊。

同調査会が行った関係者へのインタビュー録の分析など、他の太平洋戦争関連の書籍では登場しなかったような人物・視点からの太平洋戦争の見え方が明らかにされている。

 

自分でも意外だけど、気付けば太平洋戦争関連の本は年に数冊は読んでいる。ここ2年くらいで読んだのは下記。

 

「1941 決意なき開戦」(著:堀田江理)

「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(著:加藤陽子

 

「暗い時代の人々」(著:森まゆみ

「日本の長い敗戦」(著:橋本明子)

 

何冊も読み重ねて改めて感じるのは、戦争に至ってしまった原因は『これ』とひとつ明確に名指すことができるものではなく、首相はじめ大臣・軍幹部など時のリーダークラス、各リーダーの言動に影響を及ぼす政党や軍などそれぞれの組織、過剰に肥大化した自意識を煽りまた抱いたメディアと市井の人々、それが幾重にも折り重なった「あや」でそこに入りこんでしまった、ということ。

調査会を主導した幣原喜重郎には、なぜ日本人はあの戦争を戦わねばならなかったのか、なぜ敗戦を喫したのか、終戦直後の不戦の誓いが万一数十年後に緩むかもしれないその時、このような資料があれば戦争を思いとどまるかもしれない、という狙いがあったという。

 

今がその誓いが緩んでいるときなのかどうかは、正直よくわからない。

でも、いつ・どうなった時はいつかきたあの道に近いんじゃないか、ということに勘付ける準備をしておくことは、あの戦争を起こした後の時代を生きる自分たちの義務なんじゃないかと思う。
だからもっと多面的に太平洋戦争のことを見られるよう、これからも関連本は読み続けていきたい。