あそびの生まれる場所(著:西川正)を読みました

著者の西川正さんは、埼玉県で市民活動・まちづくりを支援するNPO法人ハンズオン埼玉の常務理事を務められ、また地域の学童保育を運営するNPOでも理事を務めていらっしゃる方。
その西川さんが、ご自身の経験も踏まえて、関わる人が自発的に/自由に「遊ぼうとする」公共空間の作り方を提案されている一冊です。

 

西川さん曰く、現在は保育や学童を含む様々な公共分野で、お金と引き換えに専門家や役所に任せておけばいいという「サービス化」が進んでいると言います。これは同時に住民を公共の支え手・作り手であることから遠ざけ、サービスの「お客様化」させることを意味しています。
公共の「サービス化」・住民の「お客様化」が進んだ現場では、利用者や周辺住民たちは何かあると苦情を持ち込む存在となり、従事者の側は「何かあると困る」と委縮して事が起きないよう事前に様々な制限事項を設けるようになってしまいます。
そのあおりを受けるのは子どもたちで、子どもたちの育ちの環境から「遊び」がなくなり、多様な経験をしたり自ら取り組もうという姿勢が損なわれりする、という事態が生じているのだそうです。
このような誰にでも開かれているがゆえに誰も自由に使えないという貧しい公共空間のあり方を変え、自由に遊べるようにするには、人々の関係をつなぎ顔を合わせ対話をしながらともに悩む当事者を増やすことが必要で、それにはビジネスとは対極的なコミュニティワークが必要になる、と西川さんは指摘しています。

 

西川さんは、コミュニティワークに関わっていくことを暮らし方の問題だとおっしゃっていますが、自分自身、この暮らし方の改革には大いに賛成です。

昨今あちこちで喧伝されている「働き方改革」は「私」=private の中での仕事(ワーク)と家庭(ライフ)とのバランスを取ろうとする動きです。でも、ここに加えて、「私」=privateと「公共」=publicのバランスをとることも必要なのではないかと思います。

 

子どもたちの成長にとって、与えられたものではない、自由な「遊び」の体験はとても大切です。自由な「遊び」は、自分から発想し、働きかけ、フィードバックを得てまたやり直すという経験をもたらしますが、この経験はAIによって置き換えられない、問題意識を自ら育み問いを立てる力や感性を養うことにつながるからです。
こうした経験はready madeのプログラムを受け身的に受け取ることでは積みあがりにくいもの。子どもたちが自由に駆け回り、試行錯誤し、没頭する中でこそできるものではないでしょうか。
それには「見ぬふりをして見る」大人がいるという環境が必要で、だからこそ「公」的なコミュニティー空間の形成に関わることがわが子の育ちのためにもなるのです。

 

もちろんこのような公的空間ができていると、わが子のためだけではなく、広く子どもたちと子どもを持つ家庭にとってセーフティーネットとしても働くと考えられます。

仕事と家庭の両立が「私」=privateの領域内でのトレードオフとしか捉えられないのであれば、単位時間当たりの収入や頼れる係累の条件が良くない人は、仕事中の家事・育児を代行してもらうサービスを調達するために長時間労働が必要となり、仕事と家庭のバランスなどおよそ取ることができない、という事態に陥ります。

 

このように子どもにとってよい育ちの環境を実現するため、またいざというときのセーフティーネットを手に入れるためにも、賃金労働とサービス購入というサイクルから一歩引いて、「公」を紡ぐコミュニティワークにも参加することが大事なのではないかと思うのです。

もちろん、コミュニティワークは集合的な取り組みなので、自分一人が頑張ったからと言って一足飛びに実現できるものではないでしょう。まずはできるところは始めて少しづつ領域を広げていくのがいいのではないでしょうか。
その意味でも、西川さんがなさってきた「おとうさんのヤキイモタイム」(保育園のお父さんたちが集まって公園でヤキイモをし子どもたちと一緒に食べるイベント)は好例だと思います。

 

保育・学童に限らず様々な公共分野ー公民館や図書館、障碍者福祉、高齢者医療・介護ーでもサービス化とお客様化が広く見られる現状において、本書はとても広い射程への提言を含んだ一冊でした。

 

あそびの生まれる場所

あそびの生まれる場所

 

 

エルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告(著:ハンナ・アーレント)を読みました

ナチ体制下でユダヤ人の移送を差配する立場にあったアドルフ・アイヒマンは、敗戦後潜伏していたアルゼンチンでイスラエル諜報機関により捕らえられ、エルサレムに連行されました。そのエルサレムで開かれたアイヒマンに対する戦後法廷をハンナ・アーレントがレポートしたのが本書です。

 

そのタイトルの通り、裁判がどのように進み、本法廷においてアイヒマンがヨーロッパ各地のユダヤ人の移送にどのように関わったとされたかが分析され、また極刑に処されていったか、がつづられています。

ユダヤ人の歴史」というくくりで、ユダヤ人の人たちがどのような扱いをヨーロッパなどで受けてきたのか通史的に学んだことがなかったので、第二次世界大戦当時においてユダヤ人が自国から移送されることをどれだけ多くの国が歓迎したか、ということを本書で初めて知りました。(同時に、現代の難民受け入れでも積極的な姿勢を見せているスウェーデンなどの北欧諸国は当時から逃れてくるユダヤ人の受容に積極的であった、ということも。)

ナチス・ドイツユダヤ人の歴史について前知識があると、本書でハンナ・アーレントが展開している分析の視覚がいかにユニークかつ一貫したものであるかをもっと深く理解できたかもしれません。

 

レポート本編でアイヒマンはもちろん、告発側である検察やその背後にいるイスラエル政府、ユダヤ人を見殺しにしてきた各国政府、ユダヤ人のリストを提出するなどして結果的に移送に協力した各地のユダヤ人有力者に対して著者は厳しい視線を向けていますが、一番迫力があるのは本書の「エピローグ」「追記」で書き加えられている部分です。

 

ここで著者は、ユダヤ人の虐殺という大惨禍を、アイヒマンという前後不出の極悪人一人がやったことと矮小化することも、国家行為として国・国民全体に拡散することも退けています。また、「上からの命令」があるような行政的殺戮において、自ら思考することなく(または思考することができず)残虐行為を働いた個人を適切に裁くことができるような法体系が未整備であったことも認め、二度と同じような災禍が起こらないようにするためには、行政的殺戮を裁くための法がまず必要で、延長線上では国家間の政治的責任を裁きうる国際法廷が開かれる日もあるかもしれない、としています。

 

 本書が自分にとってハンナ・アーレントの著作に初めて触れる機会になったのですが、ユダヤ人として亡命を余儀なくされた本人の境遇もあってか、「何が正義か」「いかに正義をなしうるか」についての熟慮と、考え抜いた末に見出した本人の基準のようなものが文章の端々からにじみ出ていたように感じました。

ぜひ著者の代表作である「全体主義の起源」や「人間の条件」も読んでみたいと思います。

 

 

テレ朝会見で思うこと

「これはもう、構造的に限界なんじゃないか。」

福田元財務次官によるセクハラ被害を自社社員が受けていたという会見をテレ朝が深夜12時から開き(しかも自社では生放送せず)、「二次被害を恐れて公表しなかった」とのたまったと twitter で目にした時に感じた第一印象である。

 

被害にあった当人の訴えを握りつぶし、他社にリークされた挙句、慌てて深夜にこっそり会見しておいて「二次被害」とはどの口が言うか。どう考えても取材先との関係を慮っての対応であって、決して被害者当人を守ろうというつもりはなかったのだろうと、誰しもが思うだろう。

訴えを聞いた当時の上司は、「これでうちは上ネタが引っ張ってこれそうだ」とほくそ笑みはしなかったか?というのはさすがに邪推が過ぎるか。

→訴えを聞いた上司も女性の方で、「もみ消すため」ではなく会社に潰されると考えて 「記事は出せない」と言われたとのこと。問われるべき対象に上司個人は含まれず会社の姿勢の方のようなので、当該記述は削除します。すみませんでした。

 

これこそまさに「忖度」案件だと思うのだが、テレ朝に対する他メディアの切れ味が鋭くないのは、脛に同じ傷を持つ仲間だからだろう。

「ほぉー、あぶない、うちで起きなくてよかった」と肝を冷やしたメディア上層部がどれだけいただろうか。

 

セクハラ行為を働いた元次官が悪いのは言わずもがなとして、なんでこんなことが起こるのだろうか?という原因を考えてみると、これはいわゆる番記者として取材対象に張り付き、属人的な関係を築いて情報を引き出すことが取材行為とされていることに尽きるのではないだろうか。

まだ他には出ていない・出していない「貴重な」情報を手に入れようと、取材対象のもとに足しげく通い、時には取材対象が喜びそうなよその情報を提供する。

「いい情報」が入るかどうかが、取材対象と取材者の個人的な仲の良さで決まる。

 そういう構図から抜け出せないでいるから、取材者がハラスメントの被害者になり、上司は見て見ぬふりをする。

これが今回表面化した一件の経緯だったのではないか。

 

マスコミ各社は、もうこんな構図に優秀な記者たちを無駄遣いするのをやめてはいかがか。

個人的なつてで情報を手に入れるのを取材と呼ぶのはやめたらいい。

多分記者たちの労働時間も無駄に長くなっているだろう。

そもそもそういうもたれあいの中で入手された情報は、報道するうえで果たして本当に「いい情報」なのだろうか?
取材対象者が何らかの意図をもってリークした情報かもしれない。
報道する側も取材対象を慮って表に出す範囲やトーンを調整しているかもしれない。
裁判だって証拠の入手方法が適切でなければ証拠として採用されないのだから、報道でも入手経路が不適切であれば当該情報は発信しないという判断があってしかるべきである。

 

今回の一件でも改めて露見したが、今のマスコミと取材対象者たちには「あっち側」の事情があって、このままでは受け手側はそのことを踏まえて出てくる情報を読み解かなければならない。

今や速報的な抜きをやったとしてもその情報の賞味期限は半日もない。

これは皮肉ではなく、優秀な記者たちに信頼もされなければ賞味期限も短いような情報を追いかけさせるのは、とっても生産性が低いと思う。

 

速報性のあるニュース情報については取材者が等しく受け取れる機会なり手段なりを整え属人性とそれに伴う過重な負担を排し(もしかしたら記事作成自体はヒトでなくAIがやってしまうのかもしれない)、より分析的で受け取り手が考えるきっかけ・材料になるような発信に記者たちが取り組んだほうが、みんながハッピーではないか。

 

このままマス・メディアが信頼を落とし受け取り手から(ますます)そっぽを向かれるようになると、人々はSNSやネット検索などよりパーソナライズされた情報にしか接しなくなり、マスがよって立つ共有された情報基盤がなくなってしまうのではないか、そうなるとそもそも話はかみ合わないし、社会的合意の形成が機能不全を起こすようになるのではないか、と危惧している。

 

どうか、一つくらいはマスを担えるメディアが残っていきますようにと願っている。

アンティゴネ・三文オペラ・子供の十字軍(著:ベルトレト・ブレヒト)を読みました

初めて「戯曲」というジャンルの本を読んでみました。

きっかけは恩田陸さんの演劇小説を読んだこと。恩田さんご自身も戯曲を書かれたとのことで、このジャンルに興味を持ちました。

中でもブレヒトを選んだのは、戦争、特にドイツの第二次世界大戦をモチーフにした作品があったからです。

以前太平洋戦争時代に軍国主義に立ち向かおうとした人々を素描した森まゆみさんの「暗い時代の人々」という本を読んだことがありましたが、ナチ時代のドイツを経験したブレヒトが演劇を通して戦争をどう提示したのか読んでみたかったのです。

(実際、もともとのハンナ・アーレントの手になる「暗い時代の人々」でもブレヒトが取り上げられていたようです。)

 

アンティゴネ」がこの目的に一番適っていて、ギリシア悲劇をモチーフに、専制者を恐れ自らの保身に走るあまり自分の倫理を貫いたり不都合な現実に向き合おうとすることを忘れ、「無思考」に陥ることの危険を考えさせる内容になっています。

「子供の十字軍」は詩ですが、ポーランドで孤児になった子どもたちが平和と安住の地を求めてさまよい歩く、という何とも切ないお話でした。
今なお戦闘が続くシリアでは遠からずな状況が起きているのではないかと、全く過去の話と思えないところが悲しいところです。

三文オペラ」は、戦争ものではなく、ロンドンを舞台としたアウトサイダーたちのドタバタ劇で、日本でも多くの劇団が再演しているようです。

 

訳者谷川道子さんの解説を読んで感じたのは、オマージュというか、すでに存在している題材を改作・編集して現在的文脈の中で再構成し観衆に問う、というのは演劇のひとつのスタイルとしてあるのだな、ということ。

今で言うところの二次創作というか、マッシュ・アップというか、コラージュというか、に通ずるところがあって、作り方はとっても今っぽい(というかこれらが演劇っぽいのか?)んだな、と気づかされました。

そういう「遊び方」の相似性を入り口にしたら、もしかすると「演劇」が近くなる人がもっといるのかもしれないなぁ、なんて考えたりしました。(親しむ人を増やすことがいつも目的である必要はないとは思いますが。)

  

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)

 

  

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

 

 

子供の十字軍

子供の十字軍

 

民主主義の条件(著:砂原庸介)、熟議が壊れるとき(著:キャス・サンスティーン)を読みました

政治分野の本を続けて2冊読みました。1冊は「民主主義の条件」(著:砂原庸介)、もう1冊は「熟議が壊れるとき」(著:キャス・サンスティーン)。

 

「民主主義の条件」は著者の近著「分裂と統合の日本政治」を読んで、さかのぼって読んでみたくて手に取りました。 

民主主義の条件

民主主義の条件

 

同書で著者は、人々の意見を集約し物事を決めたり進めたりしていくためには「組織」が主体となることが必要であるとした上で、日本の政党を組織として確立させる制度的環境を築かなければならないと指摘しています。

自分自身は今の日本の政党は数集めに終始している印象があって、政治的主体として頼りになる存在ではないと感じていたのですが、それはそもそも政党が綱領など基本的理念をもとに組織としてまとめ上げられる存在として存立しにくい制度になっていた(もしくは組織立っていなければならないという法的要件がない)ことも背景にあってのことだったのだと気づかされました。
その意味で、選挙ごとに異なる制度を統一し、政党の組織的要件を定めて組織化が促される制度的環境を整えることは必要だし、ぜひやった方がいいと思います。

ただ、それでも引き続き疑問として残るのは、社会課題と価値観がこれだけ拡散した現在において、スタティックに政党が組織として確立したとしても人々の意見を集約しきれないのではないか、という点です。
選挙制度改革で目指されたという二大政党制は、両党が支持を拡大しようとすると互いに近似してきて意味ある選択肢にならなそうですし、その間隙をついて極端なスタンスをとる小政党が出現してくると、これまた一部の熱狂的支持者以外は全く支持できない存在で多くの人の選択肢にはなりえない。

どうも代表を選ぶという一点集中型の政治行動は、納得のいく選択を行う上で必要条件ではあっても十分条件ではないように思えるのです。

 

個人的にはこれを補うのが「熟議」であると考えていて、熟議民主主義の本も数冊読んだことがありました。

今回読んだもう一冊、「熟議が壊れるとき」(著:キャス・サンスティーン)もその熟議の限界を考察している内容かと思って選んだ本でした。
結果としては、熟議民主主義というよりは、憲法解釈と法律の立法や運用においてどのようなときに熟議が機能し、どのようなときにそうでないかを論証する内容だったと思います。
正直アメリカの政治制度についての知識が十分でなく、あいにく内容は理解しきれない部分も多々ありました。。。ただ、どうやらもともと定めた法律をdeliberation=熟議で補うという考え方がありそうで、そのあたりの姿勢が日本の政治文化とだいぶ違っていそうだな、という印象を持ちました。

 

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

 

 

両書読んだうえで改めてなぜ今これらの本を読んだのだろうかと自分の動機を振り返ってみると、どうやら、どうしたら同じ政府の下にある人々が納得感のあるチョイスができるようになるんだろう?という関心が引き続きあるようです。

ここ最近の世界の選挙の経過・結果を見ていると、選挙結果を受け入れられないというリアクションがあったり、選挙に勝った方も「こんなはずではなかった」という結果に当惑したり、選択肢がないと棄権したり、人々が「納得感」のあるチョイスができていないのではないか?何かがおかしいのではないか?と思わざるを得ないケースがままありました。

それを受けて、これは投票を通じて選ぶ対象の「確からしさ」「信憑性」に問題があるのではないか?そもそも何を選んでいるのかという自覚があるのか?本当に自分の考えで選んでいると言えるのか?というあたりに関心が向かっているところです。

 

繰り返しになりますが、納得感のある社会的選択を実現していくには、選ばれる方も選ぶ方も選挙前後の一点集中型の支持集め/投票だけでは不十分であり、選挙で選べばあとは白紙委任というのではなくて時々の重要度の高い決定に対しては考慮すべき事項を代表者たちにリマインドさせるような仕組みが必要なのだと思います。
一昔前であればいわゆるマスコミがその役割を担っていたのでしょうが、今や情報を発信・受信する手段が多様化し、相対化されたマスコミがはっきりとした優位性を示すことができなかった結果、人々から期待・支持される存在ではなくなってしまっているように見受けられます。
一方で個々人がネットで受け取る情報はパーソナライズが進んで、そのまま放っておくと埋めがたい分裂を人々の間にもたらす恐れがあります。

熟議はその考慮すべき事項=理由のプールを作る手段であって、選挙以外の時期・場面でも熟議がなされる機会があるべきではないかと考えています。
そのために必要なのは古くて新しい「公共圏」で、それを作る試みをささやかながらできるところでやっていきたいと思っています。

潜伏キリシタンは何を信じていたのか(著:宮崎賢太郎)を読みました

2018年にも世界遺産登録と目されている、長崎・天草のキリスト教関連遺跡。
その長崎・天草で、江戸時代の禁教を耐え忍び信仰を守ったとされる潜伏キリシタンたちが本当に信仰していたものは何だったのか?を考察した一冊です。

 

本書で著者は、潜伏キリシタンたちが「仏教を隠れ蓑にキリスト教の信仰を守り抜いた」 というドラマティックなストーリーは文字通りドラマで、実際のところは一神教たるキリスト教のみに帰依したわけではなく、現世利益をもたらしてくれると言われる新しい神をやおろずの神々に並べて拝むようになり、やがて禁教下で指導者もいなくなると祖先が大切に守ってきたしきたりだからと同じ宗教的慣習を続けていたに過ぎない、ということを、集落単位での潜伏キリシタン摘発時(いわゆる「崩れ」)の取り調べ調書や、唱えられてきたオラショの変遷、布教者と改宗者の人数比などを根拠にして繰り返し主張します。

 

誤解してほしくないと前置きはされていますが、なぜこんなに潜伏キリシタンたちが信仰してきたものは似非キリスト教に過ぎないという主張を延々繰り広げるのだろうか?と読んでいて度々疑問に感じました。
実際五島列島を訪れ、今も地元の方々に守られている教会を目の当たりにすると、「ああ、こうやって延々受け継いでこられたものなのだな」と、その歴史と営みに尊敬の念を覚えたのですが、その信仰の内実が空疎であった、と言っているように感じられて違和感を覚えたのです。

 

著者はどういう心づもり・意図で本書を著したのだろうか?といぶかしく思って読み進めてみて、最終章になってやっとちょっと分かった気がしました。

著者の他の著作を読めば分かったのかもしれませんが、著者は現在の日本でのキリスト教の受容のされ方に問題意識を持たれているようです。いわく、日本でキリスト教というと西洋で信じられてきたジェニュインなものだけが想起されるけれども、それがキリスト教を受容するすそ野の拡大を妨げている、と。

なるほど、確かに、フィリピンでもキリストというよりマリア様、それもかなりローカライズされたものが信仰の対象になっていて、およそヨーロッパでの姿とはちょっと変わっていそうだな、という気もします。

日本においても、仏教は神道に適合し、神仏習合したことで信徒拡大に成功したと著者は見ています。

 

だから日本でキリスト教がもっと受容されようとするのであれば、真正性をひたすらに守ろうとするのではなく、進んでローカライズするべきである、というのが著者の考えであるようです。
そのひとつの例が潜伏キリシタンで、二百数十年にわたって弾圧を耐えてきた人々ですら(あるいはだからこそ?)信仰していたのはオリジナルなキリスト教とはおよそ形が変わっていて、いわんや信仰をオープンに選択できる今の世の中でをや、ということが一番言いたかったことなのだ、と腹落ちしました。

 

潜伏キリシタンの方たちが実際に何をどのように信じていたのか、ということは歴史的資料が乏しく、著者の主張も「強く推測される」「~と考えざるをえない」というものが多くあります。

同じことは当然一般に流布している仏教を隠れ蓑に云々というイメージにも当てはまることで、中庸を取りに行くうえでこういう見方もあるというバランスをとるのには参考になる一冊です。

 

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

潜伏キリシタンは何を信じていたのか

 

 

京大式DEEP THINKING(著:川上浩司)を読みました

元AI研究者で、今は不便益(不便さが生む利益)の研究に従事する著者の手になるより深く思考するための指南書。

 

「鉛筆による手書き」が生むひっかかりやダイレクトな体感が、反射的な浅い思考ではない、じっくり広がり・奥行きのある思考を生むのだそう。

 

ロジカルなアルゴリズム的縛りからどう逸脱していくかという点で、東浩紀氏の観光による誤配や千葉雅也氏のユーモアによる転回と通底するものがあるなぁと感じました。

 

AIやコンピューティングの存在を前提としたとき、体感そのものやそれをフックにしたセレンディピティにどれだけ鋭敏でいられるかがヒトの価値を左右するようになるんだろうという印象を改めて強くした次第です。

 

京大式DEEP THINKING

京大式DEEP THINKING