引き裂かれた大地:中東に生きる六人の物語(著:スコット・アンダーソン)を読みました

ついに希望が訪れたと思われていた「アラブの春」は、なぜこんな結末になってしまったのか?イラクリビア、シリア、エジプトに生きる6人を透かし絵にして、その背景に迫った一冊。

ヨーロッパ各国による植民地支配からの独立に際し、民族の多様性を考慮することなく人工的国民国家として創設された中東各国では、従来ナショナリティの確立と統一の維持が課題であった。強権的な独裁者が健在であるうちは、分離的な動きは抑え込まれて息を潜めていたのである。

しかし、アメリカによるフセインの打倒が、煮えたぎっていた部族主義に火を付けた。「アラブの春」が起き、各国で独裁政権の重しが解けたり緩んだりすると、今度は部族主義の強い遠心力が働いた。そして権力のすき間からISISが生まれ、シリアでは内線が激化し、難民が欧州にあふれ出したというのが全体的は背景である。

それを個々人の身に起きた出来事を通じて描き出しているところが本書の秀逸なところだと思う。

 

ニュースで報じられるような事象は、いつだって個人の上に起きている。それは集合的にとらえられるものではなくて、それぞれのストーリーを生きてきた1人1人に個別に体験されている。自分とは違った種別の集団に起きている悲劇ではなく、同じように家族を持ち、住む地元に愛着を持ち、尊厳をもって生きている個人の上に襲いかかっていることを忘れてはいけないと強く追った。

紛争地を取材するジャーナリストに対し、「なぜ危険地に赴くのか?」「自己責任ではないか?」という指摘がされることがあるが、それはこういう血肉の通ったストーリーを丹念に掘り起こし、決して他人事の出来事ではないと私たちに思い起こさせるために必要な営為だ。誰かが足を運んでくれるからこそ自分たちも知ることができる。称えられこそすれ、決して叩かれるようなものではないだろう。

 

自分はこれからも新聞・ニュースだけでなく、個人を丁寧に追ったルポも読み合わせていきたいと思った。

 

引き裂かれた大地:中東に生きる六人の物語

引き裂かれた大地:中東に生きる六人の物語

 

 

知識人と差別について考える本を読みましたー「知識人とは何か」・「ポスト・オリエンタリズム」

言説を生み出す知識人は差別を糾弾・排撃する側にも、助長する側にもなりうる。

オリエンタリズムの著者であるエドワード・サイードの「知識人とは何か」と、その後継者と目されるハミッド・ダバシの「ポスト・オリエンタリズム」に通底する問題意識はそこにあって、では知識人はいかにあるべきかをそれぞれが説いています。

 

両者とも基本的にテクスト分析などの象徴文化論的なアプローチを取っているのだと思いますが、このアプローチは前提として求められる各書についての知識がとても多く、ついて行くのが大変だなぁ(というかついて行ききれない・・・)というのが偽らざるところでした。

 

知識人は弱きもの・周縁化されたものの側に立つべきというのが当然両者の論なのですが、それを実現するには発した言説を受け取ってもらい、支持してもらわなければならない。いかに長いものに巻かれず、しかしながら聞き届けられる批判的言説を発することができるかというジレンマがそこにはあるのでした。サイードの場合は「亡命者」となることによって、ダバシの場合は対話者を取り換えることによってそのジレンマを乗り越えようと提起しています。

 

発信の機会が増えた今、あからさまなものはもちろんのこと、気付かぬうちに抑圧する側に立ってしまうような言説を垂れ流さぬよう、今自分が依拠している見方・価値観を外すような機会を意識的に持つことが必要なんだな、と感じました。

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 

 

ポスト・オリエンタリズム――テロの時代における知と権力

ポスト・オリエンタリズム――テロの時代における知と権力

 

 

アジアに生きるイスラームを読みました

イスラムと言えば発祥の地でもある中東のものというイメージが強いのではないでしょうか。スンニ派シーア派、そしてワッハーブ派など、宗派が各国・各勢力間のパワーゲームの大義名分にも使われ、それぞれどんなものなのかについての解説も折に触れ目にすることがあります。

 

しかし、世界一イスラム教徒が多い国がインドネシアであるように、東南アジア~南アジアにもイスラム教を信仰する人が相当数いるよな、じゃあそれらの人々が日々どのように暮らしているのか、中東の情勢に影響を受けたりするんだろうか、と何となく気にはなっていました。そんな中書評で本書が取り上げられているのを目にして、ちょうどいいと思って読んでみた一冊です。

扱われているのは、8か国12の都市・地域。フィリピン(マニラ、タウイ・タウイ)、インドネシア(スラバヤ)、マレーシア(クアラルンプール)、タイ(バンコクプーケット)、ミャンマーヤンゴンマンダレー)、バングラデシュダッカ)、インド(デーオバンド)、スリランカコロンボ、カッタクンディ)がそれ。

 

アジアに生きるイスラーム

アジアに生きるイスラーム

 

 

各地の詳細は本書に譲るとして、通読して感じたのは、一口にイスラムと言ってもそれぞれの地域の実情に適合する形で受容されており、地域内においても多様なあり方をしているということ。

 

しかしこれはわが身を考えてみればすぐに「なるほど」と分かることでした。

例えば、同じ仏教徒だからと言って、タイと日本は同じようなものだろうと捉えられたら、当事者としては「いやいやいや」と思うでしょう。(そもそも日本人がどれだけ仏教徒かという話もあるけれど…)

 

宗教というのはもちろん大事な文化・アイデンティティの構成要素だけど、決してそれが全てではなくって、歴史的な軌跡やその地の風土ともあいまった一部であると思います。

イスラム教徒」と一括りにしないで、その土地ごとの生活実践や価値観を知ろうとする好奇心や想像力の大事さに気付かせてもらえるような一冊でした。

差別について知る本2冊を読みましたー「憎しみに抗って」・「世界と僕のあいだに」

世界がだんだん「異なるもの」を受け入れる余裕をなくしていっているんじゃないかー直感的にそう感じていて、実際どんな事態がどう起こっているのか知りたくて、差別についての本を2冊読みました。

 

一冊目は、ドイツ人ジャーナリストのカロリン・エムケが著した「憎しみに抗ってー不純なものへの賛歌」です。

憎しみに抗って――不純なものへの賛歌

憎しみに抗って――不純なものへの賛歌

 

ヨーロッパのいわば最後の良心として移民の受け容れを許容してきたドイツでさえも、反移民を掲げる政党が議席を伸ばしてきたことは衝撃でした。いよいよそこまでなのかと。

著者は、ドイツでまるで平等には限りがあるかのように寛容さが上限を迎え、「これ以上は求めすぎではないか?」という声が上がり、憎しみが公然と口にされるようになっていることに危機感を覚えています。
そして本書では、ドイツ国内で起きた反移民の事件(輸送車を住民が取り囲んだり、宿舎への放火が起きたり)や、アメリカで起きた白人警察官による過剰に暴力的な取り締まりに起因する無実の黒人の死亡事件、セクシャルマイノリティーへの蔑視を取り上げながら、オープンで寛容であり続ける必要性を説いています。憎しみに憎しみで応えないことが、差別への最大の対抗策だと。

そしてもう一冊が、「憎しみに抗って」でも取り上げられていたアメリカでの黒人差別についての本。タナハシ・コーツが自分の息子に宛てた手紙という形で 、いかに黒人の身体的安全が日常的に脅かされているか、それに闘わなければならないかを説いた「世界と僕のあいだに」。 

世界と僕のあいだに

世界と僕のあいだに

 

 警察の「暴力」に日々怯えながら過ごす不安がどれほどのものか、自分の身内に何かあったらと心配しながら送らなければならない日常がどのように苦悩に満ちているかが、父親という立場からの言葉で綴られていて心に迫ります。
何事もそうだと思いますが、情報・知識として聞き知っていることと、物語としてエピソード含みで腹落ちするのとでは、心に刻まれる度合いが違うなぁと思いました。

 

上述のカロリン・エムケも自身セクシャルマイノリティで、両冊とも差別を受けた経験者が差別について著わしているという共通点があります。差別って本当にしている側からは見えにくくなるところがあって、受けた当事者の声に耳を澄ませて、構造的なものも含め自分がする側に回っていないだろうか?と折に触れ振り返ってみることが必要だと思います。
その意味でも、この2冊は貴重な考える材料になる本でした。

「未解」のアフリカ:欺瞞のヨーロッパ史観(著:石川薫、小浜裕久)を読みました

ヨーロッパに「発見」されたアフリカの歴史を、アフリカ側から捉え直して解説した一冊。

世界史の資料集でチラッと目にするだけだったアフリカに存在していた諸帝国がどんな経済力を持っていて、それがどういう経過をたどってヨーロッパ諸国に組み伏せられていったのか、よく分かります。

サハラ砂漠を縦断する隊商路が複数走っていて、それが塩や金の交易でどのように栄えていたか。

奴隷貿易」がどれほどのインパクトを持っていたのか、銃を持ち込んだことがどう諸部族間のつぶし合いをもたらしたのか。

 

本書を読むと、ややもすればヨーロッパに「発見」されるまで空白であったかのような錯覚をしてしまうようなアフリカの見え方が一新されると思います。

オリエンタリズム」的な歴史観から自由になって、アフリカが持っていた本来の姿、可能性を知りたい方にお勧めの一冊です。

 

「未解」のアフリカ: 欺瞞のヨーロッパ史観

「未解」のアフリカ: 欺瞞のヨーロッパ史観

 

 

遅刻してくれて、ありがとう(著:トーマス・フリードマン)を読みました

「フラット化する世界」の著者が、今現在世界に働いているダイナミクスとその影響、それにどう対応していくべきかを考察した本。タイトルには加速度的に変化が起きフローが激しい今だからこそ、ちょっと立ち止まって考えてみようという意味が込められている。

 

著者が挙げている世界に働く主なドライビングフォースは3つ。
1.ムーアの法則クラウドが可能にした情報(フロー)の超爆発
2.マーケットの変化(ストック型からフロー型へ)
3.気候変動

これらが経済の仕組みや雇用、社会契約の変革を迫っており、今はその過渡期にあるのだと言う。3つのドライビングフォースに共通する特徴はどれも幾何級数的加速度を有しているということで、物理的テクノロジーに負けないくらい早い社会的テクノロジーの進化と学び続けることが必要になる。

 

急激な変化に対応する社会的イノベーションを実現するためには、多様性を受け入れ、信頼にあふれたコミュニティが有効であると著者は主張している。それがあって初めて人々は変化にオープンになることができ、動的平衡が常態の今にあって、学び続け、よりよい社会的合意を目指し、チャレンジすることができるのだと言う。
(本書ではその具体例として自身が生まれ育ったミネソタの環境を振り返っている。ちょっと鼻白む感じがしないわけでもないが、確かにマイケル・サンデルなど輩出している人材や公教育・公共施設への企業・市民コミットの高さは目を見張るものがある。)

対応策の考察については、アメリカ式の教育を導入すればいいという提案をしたり、自分の故郷の社会風土を模範ケースとしていたり、若干自己偏重気味で「そういう考え方もあるわな」というつもりで受け止めた方がいいように思うが、現状の分析・捉え方についてはとても鋭く参考になった。

急激な変化に巻き込まれるのではなく乗りこなしていくためには、デジタルフローに参加、それもtakerとしてそこにいるのではなく貢献していかなければならない。日本にいる日本人として何ができる可能性があるだろうか、(Aging?高信頼社会?)ということを考えさせられる一冊でした。

 

 

 

ヌヌ 完璧なベビーシッター(著:レイラ・スリマニ)を読みました

パリで暮らす若い夫婦の幼い子ども二人が殺害された ー子どもの世話はもちろんのこと、家事のサポートも存分にこなす完璧なはずのベビーシッターに。なぜこんな痛ましい事件が起きたのか、キャリアも含む両親それぞれの日常と、ベビーシッターの感情のすれ違いを追体験しながらストーリーは進んでいきます。

 

小説ではあるけれども、パリで暮らす今どきの若い家族の現実と、恐らく移民であろうベビーシッターの直面する困難・格差を窺い知ることができました。

 

共働きが必須になり、外国人労働者も増えていく東京のちょっと未来に、もしかしたらこういうすれ違いが生じるのかもしれないなと思わせるものがあります。

結末を冒頭で分かっているだけに、じわじわ破局に近づいていく感じに引き込まれるような小説でした。

 

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)