ふたつの日本「移民国家」の建前と現実(著:望月優大)を読みました

ニッポン複雑紀行で編集長を務め、在留外国人や移民のルーツを持つ子どもたちの様子をリポートしてきた望月優大さんの手になる「移民」についての新書が出たので読んでみました。

 

本書で望月さんは、留学、技能実習日系人など、日本が本音(=雇用調整しやすい安価な労働力が欲しい)と建前(=人材育成策として期間限定で受け入れる)を使い分けてとってきた外国人受け入れの各種制度と実態を概観しながら、既に日本が実質的に移民国家となっていることを明らかにしています。
詳細は本書に譲るとして、日本に滞在する外国籍の人々や帰化した人とその子どもたちなど外国にルーツのある人々を足し合わせると、その数はすでに400万人を超えているそうです。今でさえ人口の3%を占めていますが、今後いわゆる日本人が少子化で減っていく一方、外国ルーツの人々は増えていくでしょうから、比率はさらに上がっていくと考えられます。
その上で、外国人労働者を単なる使い勝手の良い労働力としてではなく、1人の人間として向かい合っていくべきだ、という指摘をされています。

 

かつてのようにアジア各国と大きな物価差があり、札びらで顔をはたくような失礼な扱いをしても「一時だけ我慢すれば・・・」と思われていた頃とは違い、数十年物価が全く上がらずみるみるアジア各国との差が縮まっている中では、日本としても「どうやって行き先として選ばれか」を真剣に考える必要があると思います。

その際、交換可能な労働力としてではなく、一個人として・一人の人間として人権と尊厳を尊重されるというのは必要最低限の条件であって、それさえ守られないのではやがてスタートラインにも立てなくなる日も来るのではないかと感じてしまいます。

本書で取り上げられている技能実習生や留学生の実情を目にして胸が苦しくなりました。

 

本書の終章「ふたつの日本」の中で平成の時代を振り返って望月さんが指摘されているのは、平成は「大いなる撤退」の時代であったということです。平成に進んだ労働力としての外国人受け入れと日本人の間での非正規雇用の増加というのは別々に起こったことではなく、いずれも集団のために個人の力を利用しつつ個人を守ることからは手を引き本人の自己責任に帰せしめるという力学の表れでした。
ジグムント・バウマンが訴える「撤退」のもともとの英語表現は Disengagement であったそうです。それは engagement 、つまり関与しなくなること。「誰が」かというと、国や企業が、「誰に」かというと一人一人の個人に。
望月さんも指摘している通り、「移民」への Disengagement は矢印の方向がちょっと変わればすぐに私たち自身への Disengagement へと転化しうるもので、これはあっち側の誰かの問題ではなく、こっち側のわれわれの問題であるという認識が必要だと思います。

 

日本がなんとか社会の安定を保ち、ハード・ソフト両方のインフラが持ちこたえているうちに、一種世界のサンドボックスとして国を開き、この環境を使って本人の資質を存分に発揮してもらえるようきちんとした社会の成員として外国から来る人々を迎え入れることが、自国籍の国民だけでは自分たちの生活を支えることさえままならなくなってきた日本ができる世界への貢献なのではないかと思いました。

 

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 

こうして世界は誤解するージャーナリズムの現場で私が考えたこと(著:ヨリス・ライエンダイク)を読みました

オランダのメディアの特派員として中東に駐在した著者が、報道の現場で起きていることを包み隠さず明かしている一冊。
ポスト・トゥルースが騒がれだしたのは、トランプ大統領が誕生する前後くらいからのことでしたが、それよりもはるか昔からメディアが伝えてきたのは必ずしもただ一つの真実ではなかった、ということがよく分かります。

 

ニュースとして価値があるのは平常ではないことが起きた時なのだけれども、十分な背景情報を持たない人々がそういったニュースに触れると、そのような事件があたかもその地の日常であるかのように捉えられてしまう。
メディア対応に長けた勢力は、自分たちに有利となるような報道がされるよう、取材者たちに”積極的な働きかけ”をする。(快適で便利なプレスセンターの設置、整ったメディアキットの用意、取材対象者のアレンジなど)
言論の自由が守られていない独裁政権下では、現場の生の声を拾うことができない。

こういった要因が幾重にも絡み合って、(特に欧米系の)メディアで報じられるニュースにはフィルターがかかった内容のものになっているのが実情であると著者は言います。

 

本書を読んで一番「なるほど」と思ったのは、「特派員の役割は現場にいること」というくだりでした。
自分もそうでしたが、一般的にニュースは現場にいる記者なりが起点になってその取材から始まるものだと思われていますが、さにあらず。実際は各国の国際ニュースは、通信社からの第一報が現場より先に本社の方に入り、本社国際部が取材の価値ありと判断したネタにつき、通信社から入った内容と関連情報が特派員に渡され、その後特派員が現場に駆け付けるという順番で報じられているのだそうです。
だから特派員は極端な話、現地で何ら取材しなくとも、テレビの中継に答えることができる、その場にいさえすれば。

それと、イスラエルPLOの和平交渉をめぐるメディア対応の巧拙の比較も興味深かったです。PLOアラファト議長パレスチナ自治区内に対しては独裁的に振る舞っていて側近も能力ではなく近親者から選んでいた、そのためメディア対応でイスラエルにはるかに劣ることになり、国際世論を有利に導けなかったと著者は見ています。
PLOアラファト議長をそういう風に見たことはなかったので、この著者の指摘は新しい視点を持たせてくれました。

 

しかし、メディアリテラシーで求められるのがこれほどの裏側まで知っていることであるとすると、かなりハードルは高いように感じました。
ましてや本書が発行された当時よりスマホSNSがさらに一般的に、全世界的になってきている今、ますますその傾向は加速しているとみて間違いないでしょう。
どんなに確からしく見える言説も絶対ではないという留保をもち続ける必要性と、直接の体験の重要性に改めて気づかされる一冊でした。

 

こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと

こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと

 

 

 

世界の核被災地で起きたこと(著:フレッド・ピアス)を読みました

「水の未来」や「在来種は本当に悪者か?」の著者、フレッド・ピアスの新刊が出たので読んでみました。読んだ過去2冊もそうでしたが、フレッド・ピアスは切り口というか視点の設定がとっても素晴らしいです。

本書の原題は"Fallout"。核兵器の使用後や放射能事故の後地上に降り注ぐ放射性降下物のことを指します。その名の通り長崎・広島の原爆から、アメリカ、ロシア、イギリス、フランスなどの核兵器製造過程での事故、原水爆実験、言わずと知れたスリーマイル島チェルノブイリ、最も記憶に新しい福島での原発事故など、ありとあらゆる核被害が発生した地域を著者が訪ね歩いたルポルタージュが本書の内容です。

 

本書を読んで一番驚いたのは、どれだけ多くの放射能が既に地球全体にばらまかれてきたかということ。核兵器工場での事故だったり、原子力潜水艦核兵器を搭載した戦闘機の墜落だったり、軍事機密だからといって公にされないまま陸や海にさらされるがままになっている放射性物質がこんなに多くあったとは。
アメリカのビキニ環礁での実験は日本人にとっても第五福竜丸事件を通じて知られているところだと思いますが、それに限らずイギリス、フランスのオーストラリアや南太平洋での原水爆の実験には戦慄を覚えます。第二次世界大戦後すぐのことであったとは言え、イギリス、フランスには基本的に自国以外の土地や人を道具的に扱うことへの罪悪感が欠如しているのではないかと感じさせられます。

そしてやはり福島のケースは避けて通れない話なのですが、著者の省察は冷静でバランスが取れているように思いました。著者がいう「精神的降下物」の影響の大きさを本書で改めて思い知らされました。事故直後の避難時、政府も東電も適時的確な情報を出してくれず見捨てられたと感じたトラウマ。そこから生じる専門家への不信感。何が信じられるか見極めがつかないために消えない恐怖感。これらが充満して、医学的にみれば帰還可能な場所にも元の住民が戻らない。放射能半減期よりも恐怖の半減期の方が長いかもしれないという著者の言葉が象徴的でした。

 

本書の最後は「除染」というタイトルで、役目を終えた原発核兵器製造工場の後処理について書かれています。既に停止した原発を抱えるイギリスや原子力からの脱却を決めたドイツの例などが紹介されていますが、どこも最終処分まで含めて成功裏に後処理ができているところはほとんどないことが分かります。(停止・廃止にそれだけの苦労(と費用)が伴うことを知った今、イギリスに原発を輸出しようのがどれだけ無理筋かはすぐに分かる話のように思いますが・・・)特に問題になるのが半減期が長く兵器に転用可能なプルトニウムの処分のようです。こんな危険な物質を、それも大量に、数万年単位で遠ざけておかなければならないのはおよそ現実的とは言えないというのが率直な感想です。

生み出してしまった以上は、そしてそこから便利な生活という便益を受けている以上は、原子力をどう手じまいするかについても「今の」世界がきちんと答えを探す努力をするべきだと思います。技術的にも、政治的にも。
日本がこれからもまだまだ原子力産業にこだわるというのであれば、新設よりむしろ解体・無害化の技術を開発した方がよほどビジネス的にも社会的にも有望なのではないでしょうか。

 

世界の核被災地で起きたこと

世界の核被災地で起きたこと

 

 

知性は死なない・中国化する日本・日本人はなぜ存在するか(著:與那覇潤)を読みました

元日の『日本のジレンマ』スペシャルでお見掛けして、すごく高いコメント力・モデレート力でどんな方だろう?と気になっていた與那覇潤さんの著作3冊「知性は死なない」「中国化する日本」「日本人はなぜ存在するか」を読みました。

3冊通してざっくりまとめると、当たり前とされていることを問い直す「知性」の働きを実践し、一度は失いかけるも改めて出会い直したというのが、自分なりに理解した與那覇さんの姿でした。

 

単行本として先に出版されたのが「中国化する日本」、「日本人はなぜ存在するか」です。両書が知性の実践の例で、「中国化する日本」では宋代中国と江戸時代の二軸から日本史についての別解釈を提示し、「日本人はなぜ存在するか」では日本人を題材に様々な人文知からその輪郭がいかに曖昧な存在であるかを解き明かしていきます。

 

両著書発刊後、與那覇さんは躁うつ病を発症されました。その発症から回復までの過程で経験されたことと発病がご自身にとって持っていた意味、回復してこれから進まれる方向を綴られたのが「知性は死なない」です。
躁うつ病のうち、うつ状態になると、脳にぼうっともやがかかったようになって、思考能力が低下するのだそうです。與那覇さんにとってそれはご自身がよって立つところの知性を失うことを意味しました。しかし発病から回復に至る過程で、知性を働かせることは大学だけが担っているわけではないこと、能力を共有することで個人間で能力差があっても心地よく共存できるアフォーダンス的な社会のあり方を望ましいとすることなど、知性とその働かせ方について違った見方をするようになっていきます。
こうして一度失いかけた知性と出会い直し、当たり前を問い直すという本来の知性の働きはそれでも死ななかったと結論付けるのです。

 

那覇さんも「世界観そのものを根本から崩壊させる」と書かれていますが、ご自身にとっての重要性を鑑みたとき知性を失うという経験がどれほどショックだったかは察するに余りあります。

しかし勝手ながら、文体は病気後に書かれた文庫版「日本人はなぜ存在するか」の加筆章(『平成のおわりから教養のはじまりへ』)、「知性は死なない」の方が好きでした。(なんと言うか、これらの方がとげとげしくなくって…)

「知性は死なない」の最後に、與那覇さんは身体的違和感に駆動される「なぜ?」という問いを言語により深め説明しよう、アカデミズムの内外にとらわれず既存の社会を疑い・変えていくという本来的な意味の知性をはたらかせようと呼びかけています。また、今のリベラルの一丁目一番地が「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を共通認識にすること、とも仰っています。

自分にとって問い直すことがひとつのテーマだと思っているのですが、その目線で考えたとき、僭越ながら與那覇さんのおっしゃる知性のはたらかせ方はとても近いものがあるなぁと感じました。また「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観についても、なぜこれを社会像の支柱にした対抗政党が出てこないのか不思議に思っています。それだけにこれから與那覇さんがどのように活動というか、アクション取られていくのかすごく興味が湧きました。

 

自分は既存の社会を疑うにしても、生き方は個人の自由だという価値観を拡げていくにしても、誰がどういう状況に生きていて、本当はどう生きたいと思っていてもそれができずにいるのかということを知り合うことから始まるのではと考えています。言葉にするとありきたりですが、オープンな対話の場を作ることが自分にできることかもしれないと思っています。(テクノロジーと倫理のバランスなんかも同じ構図かもしれません。)

 

これからも動向をフォローしていきたいなと感じさせてもらえる著書3冊でした。

 

知性は死なない 平成の鬱をこえて

知性は死なない 平成の鬱をこえて

 
日本人はなぜ存在するか (集英社文庫 よ 31-1)

日本人はなぜ存在するか (集英社文庫 よ 31-1)

 

 

 

「私たちは子どもに何ができるのか」・「成功する子 失敗する子」(著:ポール・タフ)を読みました

これをやっておけば一生安泰という道がなくなり不確実性が増す一方の未来を生きる子どもが、将来成功を収めるために何が必要なのかを考察した本。2冊セットで読むことをお勧めします。

 

著者の主張の眼目は概要以下の通りです。

・子どもの将来の成功のためには認知能力(=読み書き計算のスキル)より非認知能力(=誠実さ、やり抜く力、レジリエンス、粘り強さ、オプティミズム)の方が大切。

・非認知能力は教科のように教えられるものではない。非認知能力を育むためにできることは、環境を整えることである。(eg.アタッチメント形成、失敗し立ち上がる経験を積む関わり方、etc.)

 

これら2冊はアメリカのケースを取り上げたものですが、家庭の貧困と子どもの将来の不成功の連鎖についても分析されています。

子どもは恒常的に高いストレスにさらされると、防御反応が過剰に働いて、自分の行動や感情をコントロールする脳の前頭前皮質の健全な機能を損なうことにつながるのだそうです。それが落ち着いて何かに取り組んだり他者と人間関係を築くことを妨げ、学業・生活の両面で学校でうまくやっていけなくなり、その先の道が閉ざされることにつながっていきます。本書でもストレス負荷が高い子どもほど、職業面でも収入が低くなり、健康面でも様々な疾患にかかりやすくなることが実際のデータを引きながら示されていました。

アメリカで貧困に襲われている家庭は、多くのケースで親が十分に働けない環境にあり、それは親が何らかの病気や依存症であったり、片親であったり、あるいはその両方である場合が多い。つまり、家庭環境が不安定で、子どもが高いストレスにさらされやすい状況にあると考えられるのです。しかも、そのような家庭環境では、本来子どもがストレスに対峙するときのクッション代わりとなる親とのアタッチメント形成も望むことが難しくなります。

一般的に子どもの学業面の成績は収入が高いほどよくなりやすい傾向がありますが、それを子どもが受けているストレスの負荷の度合いで調整すると、成績差はなくなるという実証研究が紹介されていました。つまり貧困であることはそれ自体(本や知育玩具をそろえられない、塾他教育費を支出できないなどの理由から)が子どもの成績を下げる要因になっているのではなく、貧困に伴いがちな家庭環境の不安定さなど高いストレス負荷がかかることが、子どもの成績低下の原因となっているということを示唆しているのです。

 

上記のような貧困の連鎖の仕組みは、日本も共有している部分があるのではないでしょうか。家庭と子どもを守り支えるメニューとしては、生活補助から自治体のネウボラサービス、児童相談所など、多岐にわたるファシリティがありますが、それらを子ども自身を中心に据え、「ストレス負荷をうけずに育つ権利」を十分に保証できる内容になっているかという視点で点検し見直していくことも必要なのではないかと思いました。

 

 

私たちは子どもに何ができるのか――非認知能力を育み、格差に挑む

私たちは子どもに何ができるのか――非認知能力を育み、格差に挑む

 

 

成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

 

 

神様のカルテ0(著:夏川草介)を読みました

神様のカルテシリーズ、3巻まで進んだ後に発刊された本書。一止たちが医学生だった頃や、研修医時代など、シリーズが始まる前の前史を綴った短編集でした。

 

他3冊と同じく、本書もやはりストーリー・文章ともに素晴らしかったです。

シリーズのタイトルをそのまま冠した「神様のカルテ」は、電車の中で読んでいて危うく落涙しそうになり、慌てて本を閉じました。

神様のカルテシリーズのいいところは、誰も悪い人、悪意を持った人が出てこないところだと思います。みんなそれぞれ事情や訳を抱えながらも、持ち場のところで葛藤し奮闘している、そんな様が読む人の心を打つのでしょう。

 

そしてそのストーリーを進行させる文章が、またうまい。
ムダなくすっきりしていて読みやすいのだけれども、各場面の情景やそこに流れる空気感がたっぷり情感を湛えて伝わってきて、まるで自分がその場に居合わせるような感覚さえ持ってしまいます。

神様のカルテを読むといつも無性に松本に行きたくなります。行って、小料理屋の木戸をひょいとくぐってカウンターで日本酒を飲みたい。松本城の上に昇る月を眺めたい。朝焼けに輝く山々を見上げたい。

それほどまでに豊かに表現力を、著者の文章は持っていると感じています。

 

神様のカルテ聖地巡礼、いつかしたいな。

 

神様のカルテ0 (小学館文庫)

神様のカルテ0 (小学館文庫)

 

 

セメントの記憶(監督・脚本:ジアード・クルスーム)を観ました

昨日、公開初日に観てきました。

破壊が続く故国シリアを逃れ、復興の建設ラッシュに沸くレバノンで働く移民労働者の苦難を描いた映画です。

 

配給会社や観客の方からは詩的な映像美との賛辞が送られてましたが、自分としてはぴんと張り詰めた画という印象でした。

 

身一つと言ってもいいような高所での建設作業。

戦いによる故国の破壊。

崩れた建物からの救出劇。

建築中のビル地下での暮らし。

 

いずれも今にも何か破綻が生じるんじゃないかと予感させられて、ずっと体が緊張したままでした。

地上に自分たちの居場所がない移民労働者たちの不安定さを身体感覚をもって観客に伝えようという演出効果を狙っていたならてきめんの効き目だったと言えるでしょう。

 

移民労働者たちは現場ビルの地下壕のようなスペースを賃料を払って間借りして生活しており、朝になるとそこから建設中の上層階へ出勤、夕方また戻ってくるという毎日を繰り返しています。移動の自由はなく、午後7時以降は地上に出ることも法律で禁じられています。

 

 

鑑賞後のQ&Aセッションで監督がおっしゃってましたが、長い人はこんな暮らしを5年も続けているそうです。

他に選択肢のない移民労働者たちをまるで奴隷のように扱っており、胸が潰れる思いがしたと。

 

故国で家族に危害が及んだり、建設現場から追い出されたりするのを恐れ口をつぐまざるをえないが故に、移民労働者たちの言葉をダイレクトに撮るのでなく、直面する現実を映像と音響といった手段で切り取り感性に訴えるように撮られた映画。

ひとりでも多くの方に届くといいなと願っています。

 

2019年公開『セメントの記憶』公式サイト

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