國分功一郎さんと山崎亮さんの対談を読みました

「来るべき民主主義」に続けて國分功一郎さんの著作を読んでいたところ、まるで山崎亮さんとの連続対談を視聴しているかのような読書体験になりました。

 

1冊目の「民主主義を直感するために」は、2010年以降の國分功一郎さんの評論集。その後半の対談の一章が山崎亮さんとの対談『民主主義にはバグがあるー小さな参加の革命』でした。 (同対談以外にも書評集や辺野古の訪問記なんかもあったりして、一冊全体を通しても読みごたえのある一冊です。)

民主主義を直感するために (犀の教室)

民主主義を直感するために (犀の教室)

 

 

この対談の中で二人が共通してウィリアム・モリスやジョン・ラスキンといった19世紀イギリスの初期社会主義に関心を寄せていることが分かり、「社会主義」をテーマに複数回行った対話をまとめたのがこちら、2冊目の「僕らの社会主義」。  

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

 

 

社旗主義というとロシア革命ソ連につながっていくマルクス的なそれのイメージが強くありますが、実際には社会主義も複数のバリエーションがあったそうです。その中の一つが、19世紀のイギリスで、労働者の劣悪な労働環境や低待遇の蔓延、それに伴う格差の拡大といった事態に問題意識を持ったモリスやラスキンが取り組んだ初期社会主義でした。今の世の中がちょうどその19世紀ころのイギリスの状況に近づいてきていて、だからこそ当時の社会状況に呼応して始動した社会主義に何らかヒントを求められるのではないか、というのがお二人の見立てでした。

一例として雇用の質の問題が挙げられ、今ディーセント(decent)・ワーク=働きがいのある人間らしい仕事が必要とされているが、これはモリスがアーツ・アンド・クラフツ運動の中で職人の手仕事を尊重した姿勢に通ずるものがあると指摘しています。

他方で山崎亮さんは「主義化」することへの違和感を示されており、いいな、と思えるところをつまみ食いすればいいとも仰っています。

 

対談の中で一番印象に残ったのは「楽しさの自給率」という山崎亮さんのフレーズでした。ちょっと長いですが、引用するとこういう文脈です。

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最近僕は、「楽しさの自給率」という言葉をよく使うんです。我々はまず、楽しさとは何かということをちゃんと考えなければいけない。どこかに行ってお金を使って誰かに楽しませてもらうのではなく、自分たちで楽しみを生み出す力を高めていくことが大事だと思うのです。モリスが言ったように、革命が起きた後の社会において生活を飾ることを楽しむ。我々はいまこそ、人生を飾るということ(人生の価値を高めていくということ)を真剣に考えていかねばならない。

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「楽しさの自給率」って豊かに生きるうえでとっても大切な考え方だと思いました。

何度か通ってみて、海士町は多分この「楽しさの自給率」が高い土地なんじゃないかと感じています。だからこそ来る人来る人を惹きつけ、多くの移住者が移り住むことにつながっているんじゃないかと思います。

 

お二人が共通項となったモリスやラスキンの著作も、ぜひいつか読んでみたいと思います。

来るべき民主主義(著:國分功一郎)を読みました

本書の副題にもなっている小平市都道328号線計画の見直しを求める市民活動に参加した著者が、その体験もふまえて近代政治哲学の源流にさかのぼって民主主義に再考察を加えた一冊。

 

小平市都道328号線をめぐる詳しい経緯は本書にゆずりますが、50年前に策定されていた事業計画が突如動き出し、何とか計画の見直しを問う住民投票の実施までこぎつけたものの、後出し的に付加された投票率50%要件に阻まれ開票さえ行われなかったというのが事のあらましです。
この経験から、著者は重大な政策決定や法の適用・運用の多くが行政によってなされているのに住民がその過程に関わることができないことに愕然とし、立法権を掌握することで主権を行使できるとする議会制民主主義の限界を指摘します。
そしてこの民主主義の「欠陥」を補うために、著者はいくつかの補完的制度を追加するよう提案しています。(住民投票制度の改善(常設かつ実施必至の条例)、投票資格の外国人・子どもへの拡大、審議会メンバー選定方法のルール化、ファシリテーションを伴う住民参加)

 

ここ最近は政党が機能不全に陥り政党政治が退潮になると民主政治にどんな危険が生じるか考える本を読んできましたが(民主主義にとって政党とは何か(著:待鳥聡史)を読みました第二次世界大戦時のメディアと政治に関する本を読みました)、それとは別角度で民主主義をワークさせるには?という問いに向き合う一冊だったと思います。

 

卑近な例ですが、身近にいる人たちの保育園入園・在籍をめぐる役場窓口とのやりとり(転職などにともない、やれこうなったら在園資格がなくなるだの、この職種への転職であれば点数に響かないので継続して在園できるだの)を見聞きするにつけ、「この人たちは誰のエージェンシーとして仕事してることになっているんだったっけ?」という疑問がふつふつと湧いてきたりします。しかも地方政府の場合には、首長も選挙で選んでいるわけで、議会からの委託というより、トップの選任を通じて直接委託しているはずなのに…。
こういった地方政府と中央政府との執政制度の違いも考え合わせれば、議会制民主主義の限界とまでは言わずとも、行政の執行過程における住民の不在に問題の根源が求められるのではないかとも思います。

 

決定や執行の過程に住民や企業の参加を得るため行政はプラットフォーム化せよという提案は『日本の地方政府』でもされていましたが(日本の地方政府(著:曽我兼悟)を読みました)、著者の本書での提言も基本的な方向性は同じだと感じました。
一市民的立場から見れば、こういったプロセスに幅広い人が参加できるよう、行政のプロセスの改善と並行して、「労働」と「仕事」と「活動」のバランスが取れた生活を保障しうるような社会福祉制度もセットで調えなければ実効性が上がらないよなぁというのが実感です。

 

東京で唯一条例に基づき実施された住民投票がモチーフとなっている本書、市民政治のコツやノウハウをうかがい知るいい資料としても読める一冊でした。

 

 

民主主義にとって政党とは何か(著:待鳥聡史)を読みました

本書に先立つこと2冊、戦前日本のポピュリズムとメディアの関係に関する本を読んでいました。そこで語られていたことは、政党政治をバイパスすることは、権力による大衆の操作を容易にする危険性があるということでした。

 

uchiyamatakayuki.hatenablog.com

 

民主主義を機能させる上での政党の重要性は以前読んだ『民主主義の条件』でも主張されていたことです。
ただ内外の情勢を見てきてどうも政党の退潮ぶりは否めないなぁという思いを持っていたため、なんでそうなっているのかと、本当に再興させなければいけないものなんだろうかということを知りたい・考えたいと思っていたところ、ちょうどぴったりくる本書に出会って読んでみた、というのが背景です。

 

本書の内容としては、①政党の存在意義、②政党の歴史、③政党を分析するためのフレームワーク、④日本の政党政治、⑤これからの政党、という構成になっています。

気になっていたそもそも政党は民主主義に不可欠な存在なのかという疑問については、「公益」を一義的に決めることはできないから、異なる「私益」を代表する複数の政治勢力が競い合うことで結果的にバランスの取れた選択がなされていくという多元的政治観にその答えが求められました。(自分たちは「公益」を提供できると独占が生じると全体主義につながる)

またなぜ今政党(特に既成政党)がどこの国でも退潮気味なのかという点については、既成政党は続く経済成長を前提に増えていくパイの分配問題に適合していたのに対し、豊かさが当たり前となり「新しい争点」(環境問題、地方分権など)が増えた結果対応できなくなってきたとともに、低成長・グルーバル化が常態となると分配する原資を確保できなくなりむしろ負の分配問題に対応せざるを得なくなって、有権者の利益や社会と遊離し始めてしまっているから、との指摘がされていました。

どちらの疑問についても「なるほど、そうか」と思わされる回答が示されていて、読んだ甲斐がありました。

 

さらに政党政治の退潮を踏まえ、代議制民主主義に代わって直接民主主義を取るべきではないかという主張への著者の対論も説得力があり、建設的だったと思います。
すなわち、直接民主制を取ろうとすると有権者が判断のために必要な情報を収集・吟味する負担が過重になるところを、政党が課題や制度間のリンケージとトレードオフをパッケージとして示すという情報の縮約機能を有している、ということです。さらにそのパッケージを作るにあたっては、熟議の機会をオープンにすることによって有権者がその作業に参加するための回路を開くこともできると位置付けています。
個人的には複雑化・タコツボ化した社会で有権者が「これは自分たちの決定である」という納得感を得るためには熟議が必要だと考えていたので、ここに接続しうるというのは嬉しい発見でした。

 

この他、政党を見るフレームワークとしての政党システム論や基幹的政治制度(選挙制度と執政制度)といった理論の話、日本における政党政治の歴史についても分かりやすくとまっています。
政党と政治が今ある姿になぜなっているのかを理解するのにとってもためになる一冊でした。

 

 

日本の地方政府(著:曽我兼悟)を読みました

どこで何やっているのかイマイチ分かりにくい「地方自治体」について、①執政制度のあり方(議会と首長・行政の関係)、②住民との関係、③地域社会・経済との関係、④地方自治体間の関係、⑤中央政府との関係、から解説した本。

イマイチどこで何やっているか分かりにくかった地方自治体が、なぜ今のようになっていてかつ分かりにくいのかよく分かりました。

 

一因として挙がっていたのが、その名前にも表れている通り、あたかも地方には行政機構だけが存在しているかのようで政官関係が欠落してきたこと。

政治の側では、選挙制度の影響もあって、政党が形作られてこなかった経緯があります。地方議会の議員は自身の支持層となる個別の狭い利益を代表し、直接役所ないしは首長と交渉することで必要な予算・法案を確保してきました。

他方行政の側ではジェネラリスト重視により専門性が不足がちとなり、また外部との距離を取った関係構築が不得手で、明確な組織原理を持った再編がなされてこなかったという事情があります。

それらがあいまって政官双方ともにそれぞれの果たすべき役割をつきつめてお互い対峙してこなかったということです。

 

そして政官関係が欠落していても地方政府がやっていけていたのは、中央政府による統制があったからでした。しかし人、業務・権限、財源とあった中央政府の統制手段も、累次にわたる地方分権改革を通じて、財源(徴税権)以外は地方政府の手に委ねられてきています。

 

著者の指摘する通り、人口増加だけを金科玉条のように掲げるのではなく、自分たちの住む地域をどのような地域にするか、そのために負担をどう担うのか、どのような行政機構で臨むのか、まさに「自治」が問われている段にきているのだな、と思いました。

 

しかし、どの本を読んでも地方の選挙制度は問題あり、と指摘されています。

これを是正しようという動きはどうやったら始められるものでしょうか・・・。

 

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

 

 

第二次世界大戦時のメディアと政治に関する本を読みました

ここ最近ビッグデータ×機械学習により進むフィルターのパーソナライゼーション、ターゲティング広告、「ニュース」など、現代の情報環境が個人の意思や政治的選択にどんな影響を及ぼしてきたかというテーマの本を読んできました。

 

uchiyamatakayuki.hatenablog.com

 

uchiyamatakayuki.hatenablog.com

 

でも、情報操作を通じて人々の意思や政治的選択に影響を及ぼそうという企みは、今に始まった話ではないはず。ちょっと聞きかじっているところでもナチスドイツはシンボルの活用に長けていたらしいし、戦中の日本にもいわゆる「大本営発表」がありました。
じゃあその頃の情報環境や人々の受け取り方は一体どんな様子だったんだろう?本人も気付かないうちに自分の意思や思考が方向付けられるという事態はどんな風に進行するんだろうか?その時人々はどのように反応するんだろうか?ということが知りたくて、第二次大戦時のメディアと政治について論じた書籍を2冊読みました。

 

一冊目は戦前・戦中の日本を取り上げた「戦前日本のポピュリズム」(著:筒井清忠)です。

 

戦前の日本は、国際的な視点に立って自国の置かれた状況を国民に説明し、針路をとることができなかったという点で、政治がポピュリズムに陥っていたということができますが、そこに至る過程でメディア、とりわけ新聞が果たした役割は大きかったようです。

新聞は日露戦争の戦勝報告会が源流の街頭デモンストレーションによる政治参加を促し、返す刀で政党の腐敗ぶりを繰り返し報道して政党政治への国民の支持の減退を招きました。その一方軍、官吏については私心のない中立的な存在と位置づけ(五・一五事件の裁判報道の例が取り上げられていました)、政党をバイパスした天皇による親政とそれを軍・官僚が支えるという体制への待望論を生み出していきます。そこに貴族的雰囲気をまとった近衛文麿が登場すると、待望のリーダーとして祭り上げました。こうして政党は解散して大政翼賛会の成立を見ることになります。

時代背景として、国内で普通選挙が始まる一方、国外では排日運動や軍縮会議で被害感情を抱き、対内的・対外的に日本国民の権利の伸長を訴えることが革新的という風潮が人々の間で強まっていたのですが、新聞はそれを煽りつつ乗っかるような報道を行っていたと言うことができそうです。

 

二冊目の「ファシスト的公共性」(著:佐藤卓己)では、ちょうどこうしたメディアを使った国民からの支持獲得や総力戦への動員がどう画策されていたかをうかがい知ることができます。

 

 

本書ではドイツと日本のケースが取り上げられています。どちらも政治的制度としては民主主義を採用しつつ全体主義を構築したのですが、そこには一定の公共性=ファシスト的公共性が存在していたと言います。

ドイツにおいては直接参加と国民投票を巧みに使ってナチスが体制を構築しましたが、その際、新聞学・現示学が大きな役割を果たしていました。しかしこのメディア操作の研究・実践は必ずしもファシズムの専売特許ではなく、アメリカのマスコミ学も同じ志向を有していたことを指摘しています。総力戦を戦わなければいけなかった国では、国民の支持獲得のため、どこの国でもメディア操作が必要とされていたのです。

もちろんこのことは日本にも当てはまり、軍・外務省や新聞社などの関係者が集まる検討会で新聞・映画そのたメディアを通じた宣伝活動の作戦が練られていたことが示されています。


二冊通じて読んで感じたのは、ツールが変わっただけでメディアを使った大衆操作はずっと続いてきているのだな、ということです。
日本の新聞・メディアについては戦前からの連続性が保たれているように見受けられたのですが(戦後はGHQが日本の統治に有用だということで、戦中のメディア関連の人材を温存・登用したことが取り上げられていました)、戦争遂行において演じてしまった役割を自分たちなりに総括・反省し、その後の取材活動や報道に活かしているのだろうか?ということが気になりました。(そういう文献があれば今度読んでみたいです。)
センセーショナルな話、耳触りのいい話ばかりではなく、知るべきことを報道するメディアが必要だと改めて感じます。

また、その時の大衆心理に流されやすい直接行動による政治参加に頼りすぎることの危険性もよく分かりました。代議士同士が議論するというプロセスを踏むことが大切なのであって、だからこそ政党をないがしろにしてはいけないのだな、と思います。

正直に言うと、最近の特に欧米での既存政党の退潮ぶり、また国内での自民党一強の様相を見ていて、政党はもはやオワコンなのではないかと考えていました。しかしこの通り政党が大切なのだとすれば、どうすれば再興できるのか?ということを考えられる本を次に読んでみようと思います。

アパレル・サバイバル(著:齋藤孝浩)を読みました

いつからともなく衣食住を手の届く範囲で、つまり匿名的な市場を通じてではなく、有名性のある関係の中で賄えるようになりたいなぁと感じるようになってきました。既存の市場や流通システムが何らかの不全を起こした場合でもサバイブできるようにとか、ほじくり返せば理由はいろいろひねり出せすが、まぁなんとなくその方が気持ちいいじゃんね、というくらいなものです。

そのうち衣の部分についてちょっと前にアパレル業界にいらっしゃる方をお招きしてお話を聞くトークイベントを開催したのですが、お話聞くにつれシステムが完全に制度疲労を起こしてそうだなと思いました。それ以来、業界のことをもっと知りたいなぁ考えていた矢先、本書に新聞の書評で出会って読んでみました。

 

一言で言うと、ITを使ったクローゼットの最適化にこそアパレルの未来がある、というのが筆者の提言でした。

ファッションについて消費者の立場から考えてみると、潜在的にカバーする領域は、新製品を売るという一局面だけでなく、二次流通、保管、コーディネーションの提案まで広がりを持っている。その広がりで考えてみると、最適化すべきは店頭の在庫ではなく、ユーザーのクローゼットの中身へと対象が移っていく。ITにより手持ちのワードローブをデータ化し、SNSの手法でコーディネーションのデータベースを構築し、両者とさらに外部データ(本人のスケジュールや天気予報など)を組み合わせることで日々の着こなしや買い足しの提案をし、あまり着なくなった服についてはワンクリックで二次流通のマーケットに出せる。アパレルメーカーのひとつのチャンスはこうした未来像の中に見出すことができるのではないか、というのが著者のストーリーです。

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アパレル・サバイバル P281

ZOZOやその傘下のWEAR、IQON、メルカリなど、勢いのあるファッションに関わるwebサービスの傾向を見ると、確かに著者が描くような未来はきっと来そうだなぁと思わせるものがあります。

 

一方少し気になったのは、指摘されている問題は、過剰在庫とそのリスクを織り込んだ定価の値付け、売れ残り品の値下げ販売の常態化、ファッションのファスト化による短寿命化、低原価率ゆえの低賃金労働・生産地の低賃金国への遷移など、どれもアパレルメーカーが抱える問題なのに対して、著者が提案している解決策は、ZOZOなど小売りのプラットフォーマーが採用しうるアプローチなので(※)、必ずしも既存の問題の解決に直結しないのではないか、ということです。

※仮にクローゼット最適化に資するアプリがあったとして、それは1アパレルメーカーだけのものであるはずがなく(というのも既存のワードローブがアウターから下着に至るまで1つのアパレルメーカーで占められるはずがないから)、その機能を果たせるのは複数のメーカーをまたいで流通させることができる小売り側の立場になると考えられます。

問題の一番の解決策は、適量を定価で売り切ることに尽き、それを究極的に実現するには受注生産しかないと本書でも指摘されていますが、個人的にはアパレルメーカーにとっての未来はむしろこちらの方にこそあるような気がします。

もしくはもっとロングライフな関係性、低環境負荷などを考えると、お客様に買ってもらうものは材料一そろいと考え、以後は維持管理費を払い、減耗分の補充補修、年を経た後シルエットを変えるなどカスタマイズするのであればその作業はいつでもいくらでも無料で行う(材料費別)、というような業態もありえるのでしょうか・・・

 

問題点と未来像の微妙なズレをさておけば、本書で取り上げられている海外の事例(クリック&コレクトとスキャン&バイ)や、SAP・ファストファッションが変えたもの、ZARAユニクロが強い理由などの分析は、門外漢からすれば「へぇそうなんだ」と新鮮で面白く読みごたえのある内容になっていますし、提案されている未来像も十分現実性を感じさせるものになっています。

 消費者として身近な産業の行き先を知るという視点で読むと楽しめる一冊なのではないかと思いました。

 

アパレル・サバイバル

アパレル・サバイバル

 

 

FACTFULLNESS(著:ハンス・ロスリング)を読みました

もともと医師出身で後に公衆衛生の研究者に転じた著者は、知識をアップデートし続け、データに基づき世界を正しく知ることの大切さを繰り返し説いてきました。名前で検索すればTEDでのスピーチもいくつもヒットします。そして本書でも古いままのイメージやバイアスなど10の要因によって、私たちの世界に対する見方がいかに歪んでいるか、現実のデータを示しながら指摘しています。

 

正直に告白すると、本書を読んでかなりのショックを受けました。
もともと国際協力の仕事をしていたこともあり、関心をもってニュースを追っているので世界の様子をそこそこ分かっているつもりだったのですが、さっぱりでした。旧態依然としたイメージにとらわれていたことがよく分かりました。

 

例えば本書冒頭にはどのくらい正確に世界のことを把握しているか測定するためのクイズがあります。答えを知ってギクッとしたクエスチョンは下記のものたちです。(答えは本書に譲りますので、ぜひご自身の目で確かめてみて下さい。) 

 

・現在低所得国に暮らす女子の何割が初等教育を修了するでしょう?(20%/40%/60%)

・世界の平均寿命は現在およそ何歳でしょう?(50歳/60歳/70歳)

・世界中の30歳男性は、平均10年間の学校教育を受けています。同じ年の女性は何年間学校教育を受けているでしょう?(9年/6年/3年)

 

もはや「私たち」と「あの人たち」の二分法は正しくないようです。本書では、1$/day以下のレベル1、8$/day以下のレベル2、32$/day以下のレベル3、それ以上のレベル4の4つに分けた方がより正しく世界を知ることができると提案していました。このうち真ん中のレベル2とレベル3で人口が一番多くなっていて、「先進国」と「途上国」に二分されるというより連続的な分布になってきているのだそうです。

 

たとえちょっとずつの前進でもそれが積み重なって世界がよくなってきている、断絶するよりも接近・収れんする方向に向かっている、というのが世界の実情だと知ると、いろんなことの見え方がだいぶ変わってきます。

 

・人口と所得が増えていくアジアはレベル感(単価や財の種類)としてもそう離れていない市場になっていくのではないか?

・国際協力の重心は、はるかに立ち遅れた人たちの福祉の向上から、志向や嗜好が近しい人たちとの共栄に移っていくのではないか?

・SDGsの達成に向けてはビジネスを通じて継続的な取引関係に包摂していくことがより重要になるのではないか?
 

などなど。端的に言ってしまえば、援助―被援助という図式はもう古いのかもしれない、そう思わされました。(もちろん、まだまだそういったアプローチが必要な地域・分野も残っていると思います。)

 

どういう世界、どういう環境が到来しているのかという世界観を大きく変えてくれて、その中で自分だったら何をすべきなのか再考を促してくれるような貴重な一冊となりました。著者渾身の遺作、ぜひご一読下さい。

 

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣