不惑の何者感~それは山なのかアンカーなのか

ひさしぶりに朝井リョウさんの小説を読みました。
『もういちど生まれる』という複数の大学生を主人公にした連作小説です。

「ああ、あったよねぇ~」と懐かしく感じられる描写がそこここにあったのですが、と同時に「あぁ、実はまだある」と思い当たったことがあります。

それは『何者感』です。

朝井さんが描く大学生モノは、これから何者にもなれるという自由さとまだ何者でもない心許なさの間での揺れや、人とは違うと思いたくても違いきれているのかという悶え、が作品の大きなテーマになっていると思います。

これらって一般的には大学時代特有とされている心理状況で、だから作品のモチーフにもなるんだろうと思います。
しかし、読んでて、正直自分の中にもまだ似たような感覚残っているなと、認めざるを得ませんでした。

もちろん、大学生ほど切羽詰まって感じてはいないですし、悶えるという感じでもありません。でも「自分は何のため、何をして生きるのか」という探究はやっぱりまだ続いています。

 

ちょっと前、ソウルメイトともいうべきごく親しい友人と話していて話題になったことがあります。

その彼は自分のなすべきことを「登るべき山」と表現していました。
一方僕の方はちょっと違っていて、「重心」や「アンカー」という、どちらかというとそこから釣り下がって全体の安定をとるモノとしてたとえました。

 かたや仰ぎ見るものとし、かたや足許を見つめるものとするっていう対比が面白いねぇというような話になったのを覚えています。

 

そう、僕にとっては「重心」なので、今はどこにあるか常に探り続けないといけないのです。

今やっていることは地面からのびる柱のようなものとしてとらえていて、自分にとって新しいことを始めると、またにょきっと生えていく。あるいはぶすっとつきささる。
そうすると地面のバランスがかわるので、重心を取り直さないと全体の柱がぐらぐらしちゃう。
一方でどの柱をどう伸ばすか・生やすかも重心がどこにあるかで決まってる。

そんなイメージのものなのでこの重心は常にある程度の幅で揺れ動いていて、いまどこにあるんだっけ?っていうのを考え続けないと足許がおぼつかなくなっちゃう。。。

 

40歳は昔の区切りで「不惑」と言われます。40にして惑わず、と。
その割に自分はまだまだ惑っている感がありますが、多分この惑わずっていうのは、受け入れるっていうことだろうと思うようになってきました。

変わり続ける、揺れ続けることを受け入れる。
重心がちょっとズレたからって、変に動揺したりジタバタしない。

そういう一種の開き直りですかね、が惑わずの真意でいいのではないかと。

だからこれからも、変に凝り固まらず、自分がピンと来たものには正直に手を伸ばしてちゃんと取り組んでいこうと思います。

A rolling stons gathers no moss.