「1941 決意なき開戦: 現代日本の起源」(著: 堀田江理)を読みました

読了。色んな意味で嘆息が出ちゃう本でした…。

「太平洋戦争開戦時の指導者たちは、勝算がないことを知りつつも自身と出身組織の面子に拘り避線を断固主張しなかった。対米外交緊張緩和の機会もあったがみすみす逃し、外交上の選択肢を狭めた。そして最終的には「万が一の勝利」の妄想に基づき、一種の博打的政策としてなし崩し的に開戦を採用した。」(140字)

太平洋戦争開戦に至る1941年の政策決定(と呼べるような代物でもないことが本書を読むと分かりますが)過程を丹念に追った歴史書・政策決定過程分析ではありますが、著者が企図した通り、結果が分かりつつもどっちに転ぶんだろうと思わせるようなサスペンス的な描かれ方もしていて、歴史小説的な読み方もできる本でした。

ほんとに読んでて途中「あー、あー、あー、あー」と言いたくなっちゃうような決定(もしくは不決断)が山ほど出てきて、亡くなった方々があまりに報われないなぁと悲しくなりました・・・。
時の指導者たちの不甲斐なさを指弾することは簡単ですが、それだけでは解決にならない気もしていて、およそそういう立場になくこれからもそうはならないだろう一般ピーポーたる自分としてはこれから何をウォッチしていなくちゃいけなくて、これは、というものをもしも首尾よくキャッチできたらその時どうすればいいんだろう、ということを考えさせられました。

題材は太平洋戦争開戦ですが、副題が現在日本の起源である通り、今の日本に対して(そして日本以外にも)、色んな示唆を引き出せる材料がいっぱいあります。

出身組織を守るという部分最適に走って全体の利益を損なう、特に撤退の意思決定ができないというところや、意思決定に関わる人がたくさんいてコンセンサス作っていくうちに決定に対して当事者意識を持たなくなっていくというところは、今に至っても日本の大企業とかお役所にありがちなシーンだなぁと(著者もあとがきで福島の原発事故や国立競技場を例として挙げていて、直近でも豊洲市場とかあありますしね)。

あと読んでて当時の日本の瀬戸際外交が今の北朝鮮とすっごくダブってきて背筋がぞっとしました。
本当は勝てない戦争は避けたいのに面子にこだわって誰もそれを言いだせず、そうこうしているうちに経済封鎖でじわじわ追いつめられて、戦争準備を並行して進めている脅しは続けて、直接交渉の場になんとかアメリカを引っ張り出そうとして、引っ張り出せさえすれば国内のライバル組織を気にこだわらず譲歩するつもりはあって、でもアメリカは原則を曲げなくて出てこなくて、、、って今ここあたりか。
アメリカの歴代政府の人たちも日本のケースを参考事例にしているんだろうか…。

太平洋戦争の時は、ルーズベルトが日本の奇襲を察知していたにも関わらず国内世論を参戦に持っていくために日本に先制攻撃をさせたとする説もありますが、直近の大統領選の結果やアフガン・イラク戦争の後遺症も見るにつけ、今回はそれだけやっても北朝鮮と交戦するというチョイスはなさそうでしょうか。
真珠湾も日本の攻撃能力を過小評価していたという反省がアメリカにあったという記述もありましたが、なにせ北朝鮮の場合はそれが核兵器になる可能性があるわけで、ますます手を出させてからやむなく立ちあがるというやり口は使えないんでしょうね。
いやー、匙加減がとっても難しそうですねぇ。

ともあれ、色んなインプリケーションを含む内容の濃さと読ませる筆致、どちらも備えた本書は嘆息ものです。
司馬遼太郎の本が好きな人はきっと本書も好きなんじゃないでしょうか~。

 

1941 決意なき開戦: 現代日本の起源

1941 決意なき開戦: 現代日本の起源