「外来種は本当に悪者か?」(著:フレッド・ピアス)を読みました

むむー、またしてもフレッド・ピアスにやられた!
生態系、環境保護についてもっていた古い先入観をアップデートしてくれる良書でした。

 

外来種は既存の生態系を乱す悪者扱いされる。しかし生態系は元々変化を常とするダイナミックなもので、あるべき元の自然という概念が既に空論である。環境保護は変化に耐えられず退場していく歴史ある自然を守るのではなく、変化に適応する新しい自然、ニュー・ワイルドを助長する方向に転換すべきだ。」(140字)

 

フレッド・ピアスは自分にとっては「水の未来」の著者。
この本でバーチャル・ウォーター(仮想水:製品の移動に伴って、製造過程で使用される水も移動してまわるという考え方)という概念の存在を知り、中東の紛争の一因が水資源であるということを知り、同書前と後で世界の見方が変わったといっても過言ではありません。
そしてこの本も同じくらいひっくり返る本でした。

 

 普通「外来種」と聞くと、いかにも外から侵入してきて、元々その場所に棲んでいた動植物を押しのけ、自然のバランスを崩す悪いヤツ、というイメージがあると思います。
でも本当に外来種は悪さをしているのか?
人為的な理由、その他の理由で、もともとそこにいた動植物が棲めなくなってできた空白にうまくフィットしただけなんじゃないか?
そう問う著者は、実際外来種が定着するのは、在来種が棲めなくなった一見シビアな環境であるという実例を豊富に紹介しています。(その一番極端なケースはチェルノブイリ!)さらに外来種はその土地の生物多様性を高め、在来種の生息環境を提供するなどむしろいい働きをすることもあると指摘します。

 

 そもそも、守るべき在来種や自然のあるべき姿は、外来種やそうでない自然の姿とはっきり区別できるのだろうか?
在来種とされているものの多くも時間軸を伸ばしてみれば外からやってきたものであることが多い。自然の姿も、不断に変わり続けていて、今がたまたまそうであるというものに過ぎない。昔習ったような遷移・極相(ある更地が自然に覆われていく時、その場所の属する気候帯に応じて、一定の法則・順番をたどり安定的な自然環境に辿りつくという考え方)というのは、実態にそぐわない。
手つかずの自然というのも空論で、アマゾンの奥地でさえ過去に人間が手を入れていたという証拠が発見されている。

それなのに、自然をある一定の、それはしばしば自分たちが理想的と考える・親しみを感じるような状態、に留めておきたいというのはあくまで「文化的な選択」であって、自然を箱庭のような状態に押しこめる介入主義的な姿勢に過ぎないと断じます。

 

自然はもっとタフで、柔軟で、ある意味機会主義的にサバイブしていく(それがたとえ都市の中の廃工場跡などであっても)、そうして外来種、さらには人間(とその活動・自然への介入)も含んで形成され、変化していく自然環境をニュー・ワイルドと呼び、今後の環境保護はニュー・ワイルドを対象としていくべきと主張しています。

 

まさに環境保護についての地動説みたいな逆転の視点で、新しい視界をもたらしてくれてありがとう、という感じです。

 

それにしても、この外来種に対して抱いてしまう根強い毛嫌いの気持ち、人間に置き換えた時の差別にもつながるものがあるような気がして、うすら寒い感覚を覚えました。

私たちの伝統ある・正当な自然環境はかくあるべし、それを乱すような外来種は排除すべし、という姿勢。自分たちの社会・文化はこうあるべきで、それにフィットしないような外来者(例えば移民とか、その他社会でマージナライズされた人たち)は排斥すべし、という主張。
ほら、気味悪いくらいに相似形な感じ。優生学みたい。

ちなみに、在来種を排除すると生物多様性が下がり、交雑が進まなくって、進化のスピードが落ちるそうです。人間の社会も、多様性を受け入れられなければ、イノベーションが起きにくくなると言われています。

自然は余計な手出しをしなければ、個々の個体が隙あらばと越境していって(淘汰を逃れられれば)それこそナチュラルに交り合っていくそうですが、果たして人間の場合はどうでしょうか…

 

外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD

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