<弱いロボット>の思考ーわたし・身体・コミュニケーション(著:岡田美智男)を読みました

ごみを集める、他愛のない会話を続ける、など人間と共同で何かをするロボットの製作を通じて人間のコミュニケーションの特徴を研究する著者の本。
人工知能、ロボット、自己、コミュニケーションデザイン、身体性、引き算のデザイン、余白、共有された志向性など、フックになる切り口がたくさんあった一冊でした。

 

個人的にうれしかったのは、経験的に感じていたことに言葉を与えてもらったこと。

 

 

もう数年前、友人と奄美大島へ旅行に行ったのですが、その時移動するレンタカーの中で、お互いが人生において何を大切に思っているのかなど、相当深い話をすることができた、という経験があります。普段カフェや飲み屋にいてもなかなかそこまではいけない、というような深い話ができて驚いたのを覚えています。

運転席と助手席に並んで座りながら通り過ぎていく奄美大島の風景を一緒に眺め、それがいい刺激だったのかね、なんて話していたのです。
おりしもその日は小学生だったか中学生だったかのロング・ウォークの日にあたっていて、まばらに歩道を歩く生徒たちや、生徒たちを応援している地元の方々の姿を横目に見ながらのドライブでもありました。

 

あれ以来、車で、特に横並びに座りながらの会話には何かあるとうっすら考えていたのですが、この本を読んでそれがどういう仕組みで起こったのか、窺い知ることができたのです。

 

ひとつには、私たちは、ひとまず自分の外側に対して働きかけてみなければ自分を認識できない、システムとしてオープンな・不完結な身体であるということ。

例として挙げられていたのは、自分の目の内側から見たままの自画像を描こうとすると顔を描くことはできず、他社のリアクションを通じてしか自分を見られないということや、自動車の運転に習熟する過程では、自分の動作の結果はそれによって車がどう動くか・景色がどう移っていくかを知らなければならないということ。

ドライブで景色が流れていくさまは、自分が本当のところどう思っているのか内省し理解するのにいい環境であったのだと思います。

 

ふたつめには、<並ぶ関係>の効用。

この対義語が<対峙する関係>なのですが、ようは二人が第三者的な媒介物に向かっている関係のことを指しています。媒介物を前に並ぶ関係にあるとき、人は「相手もこう考えているだろう・こうするだろう」というなり込みが働き、自他非分離な間身体的コミュニケーションが起きやすくなるそうです。

実は例のドライブ中にもこれは前の席と後ろの席では起きなかったよね、という話は出ていたのですが、まさに運転席・助手席で並んで奄美の風景を目にしていたことで、この自他非分離なコミュニケーションができていたんじゃないか、と気づきました。

 

 

本書で例として取り上げられていた、自己完結的に機能を果たすのではなく、人間に半ば委ねるような、人の関わりしろ・余白を残したロボットのことを著者は<弱いロボット>と呼んでいますが、この<弱いロボット>、今後ロボットと人間が共生していく中で幸せな共存・協働の形を考える大きなヒントのような気がします。

著者も指摘している通り、機能が自己完結しているロボットに対しては、ロボットに対する人間の要求水準が際限なくエスカレートしていく。これに対して人の関わりしろが残っている<弱いロボット>では、お互い不簡潔な存在として支え合うのでそんなことは起きない。

これは例えば介護にロボットを投入する場合においても、過大な要求がされるのを防ぎ、なにより介護を受ける人本人の自活力を維持するため、必要な設計思想ではないかと思うのです。

そして介護に限らず、人間がロボットを使っていたつもりがいつの間にかロボットに人間が使われていたという事態に陥らないためにも、奉仕者=ロボット vs 被奉仕者=人間 を超える関係を築くことが必要なんじゃないかと思いました。

 

んー、ポイントがたくさんあってまとまりきらないですが、コミュニケーションはとりあえずでおずおずと差し出してみることから始まるというのも本書での指摘でしたので、ひとまずこのくらいのところで本稿は終わり!