ゲンロン0-観光客の哲学(著:東浩紀)を読みました

昨年末読んだ『弱いつながりー検索ワードを探す旅』で提示された「観光客」という概念について、哲学的に掘り下げて検討を加えている一冊。

 

現在の世界はグローバリズム(=経済的・帝国)とナショナリズム(=政治的・国民国家)が併存しており、私たちは両者の間で引き裂かれながら生きることを余儀なくされている。
このことは、家族から市民へ、市民から国民へ、国民から世界市民へ、という弁証法的・一元論的な普遍主義の構想が崩れ去ってしまったことを意味している。

 

著者は、このようにグローバリズムナショナリズムの二層構造を生きつつも、上記の一元論とは違った形で普遍的な世界市民に至る道として、「観光客」を措定している。

そして観光客をこのように位置づけるための基礎づけとして、著者はグラフ理論を引く。

格子状構造に配置された個々の点の間につなぎかえが起きると三角形のスモールワールドができあがる。
この状態からさらに点が増えつなぎかえが起きる際、美人投票的な優先的選択が起きると、特定の点へのつながりの集中が生じ、ネットワーク内で力関係も含めた大きな不平等が生じる。これはべき乗分布に従うスケールフリーな次数分布である。

 

二層構造との関係で言えば、スモールワールドが現時点では国民国家にあたり、スケールフリーが帝国にあたる。

21世紀の連帯は、つなぎかえをスケールフリーから取り戻すことから始まり、これを観光客の原理と名付けている。少し長いが引用すると下記の通り。

 

二十一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への集中はいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。ぼくには、そのような再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の二層化の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき、必要不可欠な条件のように思われる。

 

本書では新たな連帯に至るための具体的な行動の指針は示されていない。
一つの実践例として、筆者は自身が行っているチェルノブイリへのダークツーリズムを挙げている。あるいは指針の手がかりとして、共通の信念や欲望の確認ではなく、苦しんでいる人を目の前にして声をかけ、同情する、という憐れみを通じた連帯への至り方を挙げている。

これはつまり、人々の感受性や想像力をどうやってスモールワールドの外に向けて働かせることができるかにかかっている、と言えるのではないか。

何に触れられる可能性があるのかを示唆し、行ってみようかなと思わせるー。

本書の冒頭で著者は、本書は観光業者には関係ないと断定しているが、この命題は観光業者が日々頭を悩ませていること、逃れられない宿命であって、大いに関係がある。

 

(本書も含めてかもしれないが)著者自身はそのために言論・ゲンロン活動を行っている。
では、旅行会社である自分自身はいかに?

新しいサイトやオフィススペースなど、いくつか仕込み中のものがある。今年はそれをひとつひとつ形にしていく年にできたら、と思っている。

 

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学