脳の意識 機械の意識ー脳神経科学の挑戦(著:渡辺正峰)を読みました

神経科学の動向を追いつつ、人の意識はどこから生まれるのか?という自然則に迫った一冊。脳神経科学の歴史と動向を幅広くカバーしていて、新書にしてはとても盛りだくさんの内容でした。

 *自然則とは、「光速度不変の法則」のように、現にそうなっているからそうであるとされ、なぜそうであるかをそれ以上問われない科学の基礎となっている法則のこと。

 

科学者らしく、緻密に該当しない対象を選り分けて退けながら、意識を産む源である可能性が高いと考えられる存在を析出していった結果、筆者は「生成モデル」と呼ばれる神経アルゴリズム(神経処理の手順)を第一候補として挙げています。

情報はたんに情報として存在するだけでは意味をなさず、解釈されて初めて意味を持つものです。脳のシナプスの発火も同様で、単に発火したというだけでは意味をなさず、それがどの感覚器に由来するかを知り、どう扱えばよいかを把握する神経回路網が解釈するから「見え」や「聴こえ」を生むことができる。だからシナプスの発火単体(=情報単体)ではなく、神経アルゴリズムが意識の自然則の客観側の候補となるのだと言います。

 

*生成モデルとは、低次から高次への一回の処理で得られた高次の活動を鵜呑みにするのではなく、高次の活動をもとに低次の活動の推測値を出力し、それを感覚入力由来の低次の活動と比較、その誤差を用いて高次の活動を修正する、という処理手順のこと。

視覚部位を例にとると、低次視覚部位を、①眼から感知した感覚入力層、②高次視覚部位から生成された生成層、③両者に挟まれ誤差を析出する生成誤差層に3分し、③で発火するニューロンを補正したうえで高次視覚部位にフィードバックするというステップを踏む。

 

正直、取り上げられている実験がどういう条件とどういう条件を比較していて、だから何が棄却されたのか・支持されたのかを細部まで理解しきれたわけではないのですが、どういうアプローチで意識の源に迫ろうとしているのか、今どこまで進んでいるのかは把握できたように思います。

 

そして本書の最終章では、脳の意識を機械に移植できるか、できるとしたら何をどう再現すればいいかを検討しています。

神経アルゴリズムを完全に復元できたとして、最後に残る難しい問題は、記憶をどう移すかということだと指摘しています。感覚意識体験(「見え」「聴こえ」などのクオリア)は確かに再現できるのですが、私が私であるという根拠になる記憶がなければアイデンティティは失われてしまうからです。

 

あと機械への意識の移植の話を聞いて個人的にいつも気になるのは、ヒトの身体性は本当に全く気にしなくていいのか、ということです。
確かに感覚器官からの入力については、信号化することで脳単体をモデル化することで回収できてしまう可能性があるとは思います。
他方、もし、ヒトの身体に脳とは独立して環境との相互作用を処理するアルゴリズムが存在していたらどうなるでしょう?(ある種のクセや、偏りみたいなものもあるかもしれません。)
身体・感覚器官から脳への入力信号が、脳から自律した形で変わっていき、それが翻って脳の神経アルゴリズムを変化させていくこともありうるんじゃないでしょうか。

筆者は意識の自然則の一般形として「取り込み」を想定しています。因果関係性を含めて取り込みが起きたとき、取り込んだものの感覚意識体験=クオリアが生じるのではないかと推測しています。

これにも引きつけて考えると、ヒトの意識をコンピューターに移植するには、取り込みの入り口となる諸感覚器官・身体についても(同じ姿形ではないにしても)セットで再現されなければ、連続性を失ってしまうんじゃないかと思うのです。

 

さて、脳の中身だけがコンピューター上に移って生き続けるような日は本当に来るんでしょうか?