うしろめたさの人類学(著:松村圭一郎)を読みました

エチオピアがフィールドの人類学者である著者が、エチオピアと日本を行き来する中で感じた「違和感」を手掛かりに、より公平な世界に近づくために各個人がどう他者と対峙すればいいかを考察・提案している一冊。

 

著者によれば「国家」や「市場」は一見個人の力の及ばない確固たる存在であるように思われがちですが、実際はわたしたちひとりひとりが日々の生活、わけても「モノ」のやりとりを通じて今ある姿の形成に能動的な役割を果たしています。
それならば、他者とのやりとりの仕方をずらしていくことで「国家」や「市場」による過剰な支配も変えることができるはずであり、具体的には圧倒的な不均衡に触れたときに感じざるをえない「うしろめたさ」に敏感になることで他者との「つながり」に自覚的になり「国家」や「市場」に任せておけない自律的な「社会」を生むことができるのではないか、と主張しています。

 

こうした視点を著者は「構築人類学」と名付け、従来の人類学のアプローチと対置します。従来の人類学が世界には多様な価値観で生活が営まれている社会があってそれらのうち傍流の社会は構造的抑圧を受けていると指弾するのにとどまりがちなのに対して、構築人類学は商品交換(市場)/贈与(社会)/再分配(国家)の境界線を引き直し続け、越境を促すことで世界を変えていく手がかりを可視化しようとするのです。

 

世界を変えるというと、ややもすると大上段に構えて中身が空疎になりがちですが、著者のいう「構築人類学」は自分たちの日々の生活の中にすでにあるものへの認識から倫理性と次の行為へのきっかけを立ち上げようとするもので、とても地に足がついていいなぁと思いました。
とは言えそれは日常にまみれているので、実践する上ではよほど自覚的でないといけなくって、決して行うのが簡単だというものではないだろうという印象も持っています。

 

理性以前の感情的な反応につながりの手がかりを求めるところは、東浩紀さんの観光客論と通ずるところがあります。世界の断絶に政治、経済以外の視点からアプローチするひとつの方法として、越境的行為による出会い頭の反応というのがありそうだな、と思いました。

 

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学