民主主義の条件(著:砂原庸介)、熟議が壊れるとき(著:キャス・サンスティーン)を読みました

政治分野の本を続けて2冊読みました。1冊は「民主主義の条件」(著:砂原庸介)、もう1冊は「熟議が壊れるとき」(著:キャス・サンスティーン)。

 

「民主主義の条件」は著者の近著「分裂と統合の日本政治」を読んで、さかのぼって読んでみたくて手に取りました。 

民主主義の条件

民主主義の条件

 

同書で著者は、人々の意見を集約し物事を決めたり進めたりしていくためには「組織」が主体となることが必要であるとした上で、日本の政党を組織として確立させる制度的環境を築かなければならないと指摘しています。

自分自身は今の日本の政党は数集めに終始している印象があって、政治的主体として頼りになる存在ではないと感じていたのですが、それはそもそも政党が綱領など基本的理念をもとに組織としてまとめ上げられる存在として存立しにくい制度になっていた(もしくは組織立っていなければならないという法的要件がない)ことも背景にあってのことだったのだと気づかされました。
その意味で、選挙ごとに異なる制度を統一し、政党の組織的要件を定めて組織化が促される制度的環境を整えることは必要だし、ぜひやった方がいいと思います。

ただ、それでも引き続き疑問として残るのは、社会課題と価値観がこれだけ拡散した現在において、スタティックに政党が組織として確立したとしても人々の意見を集約しきれないのではないか、という点です。
選挙制度改革で目指されたという二大政党制は、両党が支持を拡大しようとすると互いに近似してきて意味ある選択肢にならなそうですし、その間隙をついて極端なスタンスをとる小政党が出現してくると、これまた一部の熱狂的支持者以外は全く支持できない存在で多くの人の選択肢にはなりえない。

どうも代表を選ぶという一点集中型の政治行動は、納得のいく選択を行う上で必要条件ではあっても十分条件ではないように思えるのです。

 

個人的にはこれを補うのが「熟議」であると考えていて、熟議民主主義の本も数冊読んだことがありました。

今回読んだもう一冊、「熟議が壊れるとき」(著:キャス・サンスティーン)もその熟議の限界を考察している内容かと思って選んだ本でした。
結果としては、熟議民主主義というよりは、憲法解釈と法律の立法や運用においてどのようなときに熟議が機能し、どのようなときにそうでないかを論証する内容だったと思います。
正直アメリカの政治制度についての知識が十分でなく、あいにく内容は理解しきれない部分も多々ありました。。。ただ、どうやらもともと定めた法律をdeliberation=熟議で補うという考え方がありそうで、そのあたりの姿勢が日本の政治文化とだいぶ違っていそうだな、という印象を持ちました。

 

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

 

 

両書読んだうえで改めてなぜ今これらの本を読んだのだろうかと自分の動機を振り返ってみると、どうやら、どうしたら同じ政府の下にある人々が納得感のあるチョイスができるようになるんだろう?という関心が引き続きあるようです。

ここ最近の世界の選挙の経過・結果を見ていると、選挙結果を受け入れられないというリアクションがあったり、選挙に勝った方も「こんなはずではなかった」という結果に当惑したり、選択肢がないと棄権したり、人々が「納得感」のあるチョイスができていないのではないか?何かがおかしいのではないか?と思わざるを得ないケースがままありました。

それを受けて、これは投票を通じて選ぶ対象の「確からしさ」「信憑性」に問題があるのではないか?そもそも何を選んでいるのかという自覚があるのか?本当に自分の考えで選んでいると言えるのか?というあたりに関心が向かっているところです。

 

繰り返しになりますが、納得感のある社会的選択を実現していくには、選ばれる方も選ぶ方も選挙前後の一点集中型の支持集め/投票だけでは不十分であり、選挙で選べばあとは白紙委任というのではなくて時々の重要度の高い決定に対しては考慮すべき事項を代表者たちにリマインドさせるような仕組みが必要なのだと思います。
一昔前であればいわゆるマスコミがその役割を担っていたのでしょうが、今や情報を発信・受信する手段が多様化し、相対化されたマスコミがはっきりとした優位性を示すことができなかった結果、人々から期待・支持される存在ではなくなってしまっているように見受けられます。
一方で個々人がネットで受け取る情報はパーソナライズが進んで、そのまま放っておくと埋めがたい分裂を人々の間にもたらす恐れがあります。

熟議はその考慮すべき事項=理由のプールを作る手段であって、選挙以外の時期・場面でも熟議がなされる機会があるべきではないかと考えています。
そのために必要なのは古くて新しい「公共圏」で、それを作る試みをささやかながらできるところでやっていきたいと思っています。