エルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告(著:ハンナ・アーレント)を読みました

ナチ体制下でユダヤ人の移送を差配する立場にあったアドルフ・アイヒマンは、敗戦後潜伏していたアルゼンチンでイスラエル諜報機関により捕らえられ、エルサレムに連行されました。そのエルサレムで開かれたアイヒマンに対する戦後法廷をハンナ・アーレントがレポートしたのが本書です。

 

そのタイトルの通り、裁判がどのように進み、本法廷においてアイヒマンがヨーロッパ各地のユダヤ人の移送にどのように関わったとされたかが分析され、また極刑に処されていったか、がつづられています。

ユダヤ人の歴史」というくくりで、ユダヤ人の人たちがどのような扱いをヨーロッパなどで受けてきたのか通史的に学んだことがなかったので、第二次世界大戦当時においてユダヤ人が自国から移送されることをどれだけ多くの国が歓迎したか、ということを本書で初めて知りました。(同時に、現代の難民受け入れでも積極的な姿勢を見せているスウェーデンなどの北欧諸国は当時から逃れてくるユダヤ人の受容に積極的であった、ということも。)

ナチス・ドイツユダヤ人の歴史について前知識があると、本書でハンナ・アーレントが展開している分析の視覚がいかにユニークかつ一貫したものであるかをもっと深く理解できたかもしれません。

 

レポート本編でアイヒマンはもちろん、告発側である検察やその背後にいるイスラエル政府、ユダヤ人を見殺しにしてきた各国政府、ユダヤ人のリストを提出するなどして結果的に移送に協力した各地のユダヤ人有力者に対して著者は厳しい視線を向けていますが、一番迫力があるのは本書の「エピローグ」「追記」で書き加えられている部分です。

 

ここで著者は、ユダヤ人の虐殺という大惨禍を、アイヒマンという前後不出の極悪人一人がやったことと矮小化することも、国家行為として国・国民全体に拡散することも退けています。また、「上からの命令」があるような行政的殺戮において、自ら思考することなく(または思考することができず)残虐行為を働いた個人を適切に裁くことができるような法体系が未整備であったことも認め、二度と同じような災禍が起こらないようにするためには、行政的殺戮を裁くための法がまず必要で、延長線上では国家間の政治的責任を裁きうる国際法廷が開かれる日もあるかもしれない、としています。

 

 本書が自分にとってハンナ・アーレントの著作に初めて触れる機会になったのですが、ユダヤ人として亡命を余儀なくされた本人の境遇もあってか、「何が正義か」「いかに正義をなしうるか」についての熟慮と、考え抜いた末に見出した本人の基準のようなものが文章の端々からにじみ出ていたように感じました。

ぜひ著者の代表作である「全体主義の起源」や「人間の条件」も読んでみたいと思います。