一九八四年(著:ジョージ・オーウェル)、評価の経済学(著:デビッド・ウォーラー、ルパート・ヤンガー)を読みました

お金の未来の本を読んだときに、今後は評価や信用がお金にとって代わっていく、という方向性が示されていました。いわゆる評価経済や信用経済というやつです。

それを目にした時、直感的にそれは息苦しい世の中になってしまうんじゃないかなぁと思ったので、関連本を読んでみました。

 

1冊目はそのまま、「評価の経済学」。 

評価の経済学

評価の経済学

 

今や個人から組織や企業果ては国家に至るまで、あらゆる主体が自らの評価を上げようとする評価ゲームに参加している様相を呈していますが、そもそも評価とは何で、それを高める戦略的なポイントは何かを説いています。

そもそも前提としてあるのは、評価とは自分以外の他人が自分に対して抱くものである、ということ。なので完全にコントロールすることはできない。それでも

  • 行動(人は行動を見て判断する)
  • ネットワーク(評価は人から人に伝わる)
  • 物語(どんなストーリーで伝えられるか)

の3点に気を配るとよくできる可能性がある、ということでした。

 

2冊目は「一九八四年」。 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

ジョージ・オーウェル全体主義が完成した近未来を舞台にその恐ろしさを描いた小説で、そこでは万能かつ無謬とされる指導者(層) 、反体制的な行動・思想に対する徹底した弾圧、機械や家族含む隣人による常時監視・密告、過去の改竄などが登場します。

 

評価経済・信用経済が行きつくところまで行き、望ましいとされる行動規範が少数の手に握られ(それがアルゴリズムの場合には握っているのが人の手であるかさえ微妙)、実際の行動は衆人に常時監視・評価(evaluation)され、そのレコードがブロックチェーンなどの技術により保存され自分のコントロールが及ばない、という状態になると、これはあたかも一九八四年でジョージ・オーウェルが描き出した全体主義の完成像のようではないか、とやはり思った次第です。

※まぁこの本を関連本として選んでいる時点である程度確信犯的ではありますが。そう遠くない国では同じような事態が進行中である気がしてなりません。

 

個人的には、評価・信用は通貨と交換されることによって、一定程度、評価経済・信用経済といわゆる普通のお金がまわる経済は並存していくのではと考えています。ただ、評価・信用にせよ、通貨にせよ、いずれも累積効果が大きく、持つ人はますます持つようになっていき、所有高順に人々を並べるとべき乗分布に近くなっていくんじゃないかと思います。

 

そういう分布の不平等度もそうですし、先に見たような全体主義的環境も、そこに追い込まれないための逃げ道は絶対にあった方がいい。お金でも、評価でも、信用でもなく交換が媒介されるとしたら何があるだろうか?
実に凡庸で手垢まみれの考え方ではありますが、やはりそこは信頼なんじゃないかと考えています。reputationでも、creditでもなく、trust。多分信頼をはぐくむには対面でのやりとりや、ともに過ごす時間・共通体験が必要で、ネット上で計測・積みあがっていく評価と比べるとだいぶアナログな世界の話しになるんだろうなぁと思います。

 

自分が直感的にリアルな場・空間をしつらえたのも、この変がざわっとしたからだったのかもしれない、と改めて気づかされました。

次は贈与論や信頼の本を読んでみたいと思います。