知性は死なない・中国化する日本・日本人はなぜ存在するか(著:與那覇潤)を読みました

元日の『日本のジレンマ』スペシャルでお見掛けして、すごく高いコメント力・モデレート力でどんな方だろう?と気になっていた與那覇潤さんの著作3冊「知性は死なない」「中国化する日本」「日本人はなぜ存在するか」を読みました。

3冊通してざっくりまとめると、当たり前とされていることを問い直す「知性」の働きを実践し、一度は失いかけるも改めて出会い直したというのが、自分なりに理解した與那覇さんの姿でした。

 

単行本として先に出版されたのが「中国化する日本」、「日本人はなぜ存在するか」です。両書が知性の実践の例で、「中国化する日本」では宋代中国と江戸時代の二軸から日本史についての別解釈を提示し、「日本人はなぜ存在するか」では日本人を題材に様々な人文知からその輪郭がいかに曖昧な存在であるかを解き明かしていきます。

 

両著書発刊後、與那覇さんは躁うつ病を発症されました。その発症から回復までの過程で経験されたことと発病がご自身にとって持っていた意味、回復してこれから進まれる方向を綴られたのが「知性は死なない」です。
躁うつ病のうち、うつ状態になると、脳にぼうっともやがかかったようになって、思考能力が低下するのだそうです。與那覇さんにとってそれはご自身がよって立つところの知性を失うことを意味しました。しかし発病から回復に至る過程で、知性を働かせることは大学だけが担っているわけではないこと、能力を共有することで個人間で能力差があっても心地よく共存できるアフォーダンス的な社会のあり方を望ましいとすることなど、知性とその働かせ方について違った見方をするようになっていきます。
こうして一度失いかけた知性と出会い直し、当たり前を問い直すという本来の知性の働きはそれでも死ななかったと結論付けるのです。

 

那覇さんも「世界観そのものを根本から崩壊させる」と書かれていますが、ご自身にとっての重要性を鑑みたとき知性を失うという経験がどれほどショックだったかは察するに余りあります。

しかし勝手ながら、文体は病気後に書かれた文庫版「日本人はなぜ存在するか」の加筆章(『平成のおわりから教養のはじまりへ』)、「知性は死なない」の方が好きでした。(なんと言うか、これらの方がとげとげしくなくって…)

「知性は死なない」の最後に、與那覇さんは身体的違和感に駆動される「なぜ?」という問いを言語により深め説明しよう、アカデミズムの内外にとらわれず既存の社会を疑い・変えていくという本来的な意味の知性をはたらかせようと呼びかけています。また、今のリベラルの一丁目一番地が「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を共通認識にすること、とも仰っています。

自分にとって問い直すことがひとつのテーマだと思っているのですが、その目線で考えたとき、僭越ながら與那覇さんのおっしゃる知性のはたらかせ方はとても近いものがあるなぁと感じました。また「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観についても、なぜこれを社会像の支柱にした対抗政党が出てこないのか不思議に思っています。それだけにこれから與那覇さんがどのように活動というか、アクション取られていくのかすごく興味が湧きました。

 

自分は既存の社会を疑うにしても、生き方は個人の自由だという価値観を拡げていくにしても、誰がどういう状況に生きていて、本当はどう生きたいと思っていてもそれができずにいるのかということを知り合うことから始まるのではと考えています。言葉にするとありきたりですが、オープンな対話の場を作ることが自分にできることかもしれないと思っています。(テクノロジーと倫理のバランスなんかも同じ構図かもしれません。)

 

これからも動向をフォローしていきたいなと感じさせてもらえる著書3冊でした。

 

知性は死なない 平成の鬱をこえて

知性は死なない 平成の鬱をこえて

 
日本人はなぜ存在するか (集英社文庫 よ 31-1)

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