第二次世界大戦時のメディアと政治に関する本を読みました

ここ最近ビッグデータ×機械学習により進むフィルターのパーソナライゼーション、ターゲティング広告、「ニュース」など、現代の情報環境が個人の意思や政治的選択にどんな影響を及ぼしてきたかというテーマの本を読んできました。

 

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でも、情報操作を通じて人々の意思や政治的選択に影響を及ぼそうという企みは、今に始まった話ではないはず。ちょっと聞きかじっているところでもナチスドイツはシンボルの活用に長けていたらしいし、戦中の日本にもいわゆる「大本営発表」がありました。
じゃあその頃の情報環境や人々の受け取り方は一体どんな様子だったんだろう?本人も気付かないうちに自分の意思や思考が方向付けられるという事態はどんな風に進行するんだろうか?その時人々はどのように反応するんだろうか?ということが知りたくて、第二次大戦時のメディアと政治について論じた書籍を2冊読みました。

 

一冊目は戦前・戦中の日本を取り上げた「戦前日本のポピュリズム」(著:筒井清忠)です。

 

戦前の日本は、国際的な視点に立って自国の置かれた状況を国民に説明し、針路をとることができなかったという点で、政治がポピュリズムに陥っていたということができますが、そこに至る過程でメディア、とりわけ新聞が果たした役割は大きかったようです。

新聞は日露戦争の戦勝報告会が源流の街頭デモンストレーションによる政治参加を促し、返す刀で政党の腐敗ぶりを繰り返し報道して政党政治への国民の支持の減退を招きました。その一方軍、官吏については私心のない中立的な存在と位置づけ(五・一五事件の裁判報道の例が取り上げられていました)、政党をバイパスした天皇による親政とそれを軍・官僚が支えるという体制への待望論を生み出していきます。そこに貴族的雰囲気をまとった近衛文麿が登場すると、待望のリーダーとして祭り上げました。こうして政党は解散して大政翼賛会の成立を見ることになります。

時代背景として、国内で普通選挙が始まる一方、国外では排日運動や軍縮会議で被害感情を抱き、対内的・対外的に日本国民の権利の伸長を訴えることが革新的という風潮が人々の間で強まっていたのですが、新聞はそれを煽りつつ乗っかるような報道を行っていたと言うことができそうです。

 

二冊目の「ファシスト的公共性」(著:佐藤卓己)では、ちょうどこうしたメディアを使った国民からの支持獲得や総力戦への動員がどう画策されていたかをうかがい知ることができます。

 

 

本書ではドイツと日本のケースが取り上げられています。どちらも政治的制度としては民主主義を採用しつつ全体主義を構築したのですが、そこには一定の公共性=ファシスト的公共性が存在していたと言います。

ドイツにおいては直接参加と国民投票を巧みに使ってナチスが体制を構築しましたが、その際、新聞学・現示学が大きな役割を果たしていました。しかしこのメディア操作の研究・実践は必ずしもファシズムの専売特許ではなく、アメリカのマスコミ学も同じ志向を有していたことを指摘しています。総力戦を戦わなければいけなかった国では、国民の支持獲得のため、どこの国でもメディア操作が必要とされていたのです。

もちろんこのことは日本にも当てはまり、軍・外務省や新聞社などの関係者が集まる検討会で新聞・映画そのたメディアを通じた宣伝活動の作戦が練られていたことが示されています。


二冊通じて読んで感じたのは、ツールが変わっただけでメディアを使った大衆操作はずっと続いてきているのだな、ということです。
日本の新聞・メディアについては戦前からの連続性が保たれているように見受けられたのですが(戦後はGHQが日本の統治に有用だということで、戦中のメディア関連の人材を温存・登用したことが取り上げられていました)、戦争遂行において演じてしまった役割を自分たちなりに総括・反省し、その後の取材活動や報道に活かしているのだろうか?ということが気になりました。(そういう文献があれば今度読んでみたいです。)
センセーショナルな話、耳触りのいい話ばかりではなく、知るべきことを報道するメディアが必要だと改めて感じます。

また、その時の大衆心理に流されやすい直接行動による政治参加に頼りすぎることの危険性もよく分かりました。代議士同士が議論するというプロセスを踏むことが大切なのであって、だからこそ政党をないがしろにしてはいけないのだな、と思います。

正直に言うと、最近の特に欧米での既存政党の退潮ぶり、また国内での自民党一強の様相を見ていて、政党はもはやオワコンなのではないかと考えていました。しかしこの通り政党が大切なのだとすれば、どうすれば再興できるのか?ということを考えられる本を次に読んでみようと思います。