暇と退屈の倫理学(著:國分浩一郎)を読みました

なぜ人は退屈するのか?退屈とどう付き合っていけばいいのか?という問いに向き合った本。退屈の起源を系譜学によって辿ったり、経済史の中での退屈の位置づけの変遷を見たり、ハイデッガーやユクスキュルを引きながら哲学的に考究したりしています。

 

  • 人は高い環世界移動能力を有しているがゆえに、一つの環世界にひりきっていられない、それが退屈する原因である
  • 退屈と楽しみが絡み合った生こそが人間らしい生である、なぜならそれは何かに絡めとられ隷属している状態ではないから
  • 退屈がその一部である生を楽しむためには、日常に不意に差し込まれる不法侵入を受け取り、思考する(=動物のように一つの環世界に浸る)余裕を持つことが必要である

 

一応要点をまとめるとこんな感じですが、著者もいう通りこの本は通読して論旨の展開とともに考究するプロセスそのものにこそ体験価値があったように思います。各局面でどんな視点から考察していたかや、論旨をドライブさせるために引用・依拠していた様々な先人たちの思想なんかが、要旨以上の遺産を残してくれました。

すごく単純な例では「なんかいいことないかなぁ」ってつぶやく人の状況・心情を見る解像度が上がりそうとかですが、個人的に一番引っ掛かりが残ったのは、余暇をめぐる考察でした。

退屈は起源こそ日々の環境の変化が乏しくなる定住開始期に求められますが、本格的にクローズアップされてくるのは資本主義が発達した19世紀以降のことでした。資本主義が高度に発達し人々は余暇を得られるようになったものの、突然暇を与えられた人々はその中で何をしていいのか分からなかった、そこにレジャー産業が現れ人々のしたいことを「与える」ようになったのです。かくて余暇もまた人々の欲望が産業や広告によって作り出されるという消費社会のロジックに取り込まれることになっています。そのことを本文中ではこのように表現されています。

余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。

旅行業というまさにレジャー産業の一端を担うものとしては何ともハッとさせられる指摘なわけですが、じゃあ何が本質なんだろうかというヒントも本書にありました。それはボードリヤールによる消費と浪費の区別です。浪費とは必要を越えて物を受け取ることなので、限度があり満足をもたらします。それに対して消費とは物に付与された観念や意味を受け取っており、限界がないから満足ももたらさないとされています。
つまり目的地や体験の記号化を排し、そのものとして受け取ってもらえるような伝え方・つなぎ方をしていくことが誠実な姿勢なのではないかと思いました。

 

加えて最近取り組んでいる「余白」と退屈の関係について考えてみると、どうも余白は

①日常的習慣への不法侵入を許し受け取る余裕

②①を受け取ったことで拓けてくる新しい環世界

の二つの概念を含んでいるものと考えられます。

 

 余暇と余白を扱うなりわいを営むものとして、これから折にふれ本書の内容が頭をよぎる場面が出てきそうです。今の自分にとって、とても示唆に富んだ一冊でした。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)