私は本屋が好きでした(著:永江朗)を読みました

本屋の店頭に並ぶ韓国や中国を嫌い、蔑視するような「ヘイト本」を目にしてげんなりした著者が、なぜそのような本が作られ売られてしまうのか、本屋、取次、出版社、編集者、ライターと本の流通における川下から川上までさかのぼって探究した本。

確かに、何でこんな本ができるんだろう(どういうつもりで出してるんだろう)、誰が読んでるんだろう、というのは気になっていたので、ちょっと読んでみた次第です。

 

おおくくりにして言ってしまえば、本をパブリッシュする(公に出す)ことについて、関係者が軒並み当事者意識を欠いている、というのが著者の主張であったと思います。(これをナチスドイツにおける「アイヒマン」と喩えていました。)

仕事だから書く・作るライター・編集者。売れるから作る出版社。内容で選別しないことになっている取次。取次から配本されるので店頭に並べる書店・・・。

誰が一番ということはないのだけれど、目にした人(特にそれが日本で暮らす韓国・中国にルーツがある人たちだったら)がどれだけ追いつめられるかや、「本」であるからこそ持ってしまう影響力(読み手に受け取られ、ヘイトスピーチの材料になる)についての想像力を働かすことができれば、「さすがにこれはちょっと」と踏みとどまれる一線があるはずだ、と指摘しています。

 

本書での著者のメインの主張については、「そうなんだ、そうだね」というところなのですが、「配本」という本に独特の流通方法が、思考停止を招いているという著者の詩的は興味深かったです。

出版社はとりあえず本を作って卸してしまえば、売り上げが入ってくる。書店は売りたい本・欲しい本を注文せず(または規模などによってはしたくてもできず)、配本されたものを売るしかない。返本すれば返金されるが、人手が足りず配本される本を細かに精査できない。だから本の粗製乱造と書店で店頭に並ぶことが起きてしまう。

結果忙しいけれども売れ残り=返本が多く、そこまで売り上げが上がらない。(なんだかちょっとこの辺りはアパレル業界を彷彿とさせるものがありますね・・・)

好きな本・売りたい本・売るべきと思う本だけを作り・売りビジネスを成り立たせるのはよほど難しそうです。

それと数千冊の初版本はなかなか町の本屋さんに入ってこないということでしたが、その格差の影響も気になるところです。いくらamazonがあっても検索できなければ発見することはできないわけで、思わぬ本との出会いの可能性があるかないかが住んでいる場所で変わってきてしまうのはちょっとなぁと思いました。

 

それと本筋とは外れるのですが、いわゆるネトウヨ嫌韓反中本の読者は層が違うというインタビューも「へぇ、そうか」という発見でした。曰くネトウヨ層はインターネットや動画で有名人が言っていることをなぞっているのであって、本はタイトルと帯しか見ておらず読まない。指向としても反メディアが主であって、その中に韓国・中国(の取り上げ方)がある。一方嫌韓反中本を買って読んでいるのは高齢者の男性である、ということでした。

 

外国人の訪問がとみに増えている今日この頃ですが、熱心な人ほど日本語を勉強して通ってくる人もいることでしょう。旅先の本屋をのぞいてみるのは、その土地を感じる一手段だったりすると思うのですが、その人たちが平積みされたヘイト本を見たらなんと感じることか・・・。うーん、なるべく恥ずかしくない棚になっていることを願うばかりです。

 

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

  • 作者:永江朗
  • 出版社/メーカー: 太郎次郎社エディタス
  • 発売日: 2019/11/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)