貧困・格差・社会保障に関する本を読みました

2020年最初のシリーズ読書は期せずして貧困・社会保障がテーマとなりました。

一通り読んで感じたのは、自分たちはどんなルールに同意して社会に参加することになっているのか、理念と実態の両面で分かりやすく整理して確認することがまず必要なんじゃないか、ということです。範囲が広大な上、それぞれが特定の対象者・イシューにサイロ化していて、いったい全体としてどうなっているのかが見えにくくなっているよね、というのが実感です。

義務教育である中学校の時点で、こういう大きな枠の話を分かるように伝えておくことがとても重要だと思います。どんな選択をするとなぜ不利になるのか、万一どうしても苦境に陥った時にはどこに相談できてどんな支援を受けられるのか予め知っておくことは、進路を考えたり社会に出るための前提条件なのではないでしょうか。

 

社会保障をめぐる大きな流れとしては、対応しなければいけないリスクの内容が変わってきているという背景があります。

正規雇用を中心とした完全雇用と男性稼ぎ主モデルの家族を前提とした二十世紀の工業化時代にあらわれる世帯主の所得の喪失という「古い社会的リスク」から、非正規雇用を中心とした不完全雇用と共稼ぎモデルの家族を前提とした二十一世紀の脱工業化時代にあらわれる個々人の所得の喪失とケアの危機という「新しい社会的リスク」へとカバーする領域が移動・拡大しました。(「社会への投資」より)

社会への投資――〈個人〉を支える 〈つながり〉を築く

社会への投資――〈個人〉を支える 〈つながり〉を築く

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/03/29
  • メディア: 単行本
 

古い社会的リスクについては 、男性世帯主の失業や老齢、病気、怪我を想定して、生活保護や年金を給付することが福祉国家としての社会保障の対応であったのに対して、新しい社会的リスクについては学校卒業後に安定した仕事に就けないこと、不安定な非正規職を転々としてキャリアを積めないこと、ひとり親であること、育児や介護といったケアを必要とする子どもや高齢の家族を抱えること、仕事と生活を両立させることが対象となっていて、旧来の福祉国家の枠組みでは対応しきれなくなってきているというのです。

日本の実例として「生活保護リアル」では、ワーキングプアや非正規雇用のすえ生活保護を受給せざるを得なくなっていった人たちのケースが取り上げられていましたが、これらも世界的な傾向である新しい社会的リスクのあらわれとして見ることができます。 

生活保護リアル

生活保護リアル

 

 

また一般的なイメージとは裏腹に、実は専業主婦家庭で生活が苦しい家庭が多いという分析を示した「貧困専業主婦」もケアと仕事の両立という新しい社会的リスクの表出例でした。専業主婦の多くの人は今も昔も一生働かないつもりではありません。子どもが幼いうちはそばにいてあげたいと思い離職するのですが、希望に合う条件の仕事が見つけられなかったり保育園に入れられなかったりしてなかなか仕事に復帰できず、結果世帯収入が低いまま苦しむということが実情だそうです。

貧困専業主婦 (新潮選書)

貧困専業主婦 (新潮選書)

  • 作者:周 燕飛
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

印象深かったのは、それでも専業主婦の方が働く女性より幸福度が高いという調査結果がでていることです。
一方で相対的貧困であっても子どもの発達に悪影響を持ちうる(健康面、情緒面、知能面など)という研究もあって、子どものためを思ってした選択が母親の意に反して子どもの将来に影を落とすことになるというのは何とも切ないことです…。

 

こうした新しい社会的リスクに対応していくには、社会保障がよって立つ根拠を、生存権憲法二十五条)から個人の尊重・幸福追求権(憲法十三条)に広げて考えていく必要があると主張するのが「社会保障再考」という本でした。

社会保障再考 〈地域〉で支える (岩波新書)

社会保障再考 〈地域〉で支える (岩波新書)

 

 個人を社会保障の客体から支え合いの主体と捉え直し、自己決定権を発揮できるよう個人に寄り添っていくことが必要だと指摘しています。(本書では具体案として地域包括ケアシステムをモデルとした地域による様々なリスクへの相談支援を挙げていました。)

 

 この個人の実現に寄り添う社会保障のあり方は、個人をエンパワーし就労を通じた社会参加を促そうとする社会的投資に通ずるところがあります。社会的投資とは、旧来型の福祉国家が行き詰まる中新自由主義的変革へのカウンターとして初めヨーロッパで打ち出されたもので、社会的保障を将来的見返りを生む投資として正当化・位置づけようとしました。そのため、幼児教育や生涯にわたる教育・技能訓練といった人的資本への投資、そうした投資を受けた人々の就労に向けた支援サービスに重点を置いています。(詳しい内容は上述の「社会への投資」で解説・分析されています。)

 しかしこの社会的投資戦略は、従来型の「給付」を通じた社会保障(年金、生活保護など)とトレードオフにされる危険性と隣り合わせでもあります。つまり、就労支援を手厚くする分、生活保護や手当てを縮減するという措置です。

給付による生活の支えがなければ投資が効果を生みにくいという実例も紹介されていたのですが、なんとこれがまさに日本で起きてしまったことでした。2013年頃になされた生活保護基準の切り下げがそれです。(その経緯は上記の「生活保護リアル」に詳しいです。)

当時某芸人の母親が生活保護を受給していた一件からマスコミが煽り、全体からみればごくわずかでしかない不正受給をことさら強調し生活保護が叩かれるという事態が生じていました。

 

実際生活保護の申請や給付決定がどうなされているのかという現場の様子をうかがい知るのにぴったりだったのが「絶望しないための貧困学」です。

 筆者はホームレス・生活困窮者支援を行うNPO法人もやいの理事長。著者がホームレス支援活動と出会い、様々なケースに関わっていく様子がストーリー仕立てで紹介されています。同書のコラムによれば、不正受給は全体の0.5%に過ぎないそうで、しかもその8割が収入等の申告の不備だということです。悪意ある不正受給というのは、本当にごく少ないものであることが分かります。

また本書で描かれている福祉事務所窓口で申請に対応する相談員の方たちにも、不正受給には警戒しつつそれでも支援すべき人に支援したいというスタンスが垣間見えて、救いを感じました。(実際にはケースバイケースなのかもしれませんが…)

 

こうした貧困を断ち切る手段として一般的に期待されるのが教育だと思います。しかし今の日本の教育は格差を縮減する機能を果たしていないことが「教育格差」を読むと分かります。 

教育格差 (ちくま新書)

教育格差 (ちくま新書)

 

どんな家庭に生まれたか、どんな地域に生まれたか、という本人には動かしがたい条件(まとめて「生まれ」)によって、幼少のころから教育格差が生じ、それは小学校・中学校という同質の教育を受ける義務教育期間を通じても平行移動するだけである。高校進学に当たっては、この元々は生まれに由来する格差が能力差として変換、ある種正当化され学力別に分かれている学校に振り分けられていく。その結果日本は国際的に比較しても平均的な教育格差がある国であって、近年は格差が世代間で再生産・固定化されつつあるということです。どう格差が生じ、温存されていくのか、詳しいメカニズムはぜひ本書に当たってみて下さい。(地域による教育格差をデータで示されると住む場所を選ぶのにも考えるようになりますね・・・)

 

この「教育格差」は「わたしたちはどんな社会を生きたいのか?」という章で締めくくられています。(データが豊富な一見クールな分析の本のようですが、裏側にこれじゃいかんでしょうという著者の熱き想いがある、ということがこの章からうかがえます)

冒頭でも書いた通り、現状どんな理念に立って制度ができているのかということを確認した後では、やはりこの「どんな社会で生きたいか」という理念を描くことが必要だと思います。

 一連の本を読んで(改めて)感じたのは、「個人の尊重」こそがこれからの社会を構想するうえで一番根幹に据えらえれるべき理念なのではないかということです。大きな物語などもうなく、100年にも迫ろうかという長い一生をさまざまな変化をくぐりぬけながら生き延びていくには、当人がその時その時にしたい・すべきと考える選択をすることができ、万一結果がうまくいかないことがあっても転がり落ちたりはしない。会社や世帯を通じてではなく1人1人の個人を単位として、支え/支えられるという状態が必要なんじゃないでしょうか。

それと「住まう」ということも、社会保障の中でもっと積極的に支援があっていい分野だと思います。「絶望しないための貧困学」でも、ホームレスの方がまず定住できる住居に「住まう」ことから生活が立て直されていく様子が書かれていました。ハードとしての住居の「健康で文化的な最低限」という基準がもっと高くても然るべきですし、そのために必要な家賃補助などはもっと積極的であってもいい。それに加えて、「住まう」のソフト面、すなわち当人たちが当人たちのペースで社会参加でき、人間的つながりを持ちえて、ここに居られる・居ても大丈夫と感じられる安全な“Home”であるということも社会保障で保障されるべきだと思います。
「社会への投資」でも個人をエンパワーすると同時に社会的つながりをつむぐことの重要性が指摘されていました。社会関係資本へも投資することで、ややもすると個人の頑張りのみを強調することになってしまう社会的投資戦略がはらむリスクを低減できるともされています。

最後に教育、特に就学前の幼児教育はユニバーサルサービスとして提供された方がいいと思いました。「子どもが小さいうちは家(だけ)で見るのが一番」という社会的信念が、貧困専業主婦を生み、「生まれ」による教育格差の始まりにつながっています。就学前の段階での認知的・非認知的機能の発達がどれだけ子どものその後の人生を左右するかという研究結果がある以上、子ども個人の権利として、親の就業状況や収入いかんによらず就学前の教育的サービスを利用できるようにすべきです。
「ケーキの切れない非行少年たち」という本では、図形の書き写しといった作業から、非行少年たちの中に基本的な見る・聞くというスキルが充分発達していない場合があることを指摘していました。これでは学校の授業について行けなくなるのは当然で、やってしまったことを反省する以前の基礎的能力の未発達が放置されてしまっている状態と言えます。こういった子たちであっても、就学前の段階から十分なケアを受け、見る・聞くといったスキルの発達を促すことができれば、学校からの疎外が防げて非行にも走らずに済んだ可能性もあるのです。 

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

  • 作者:宮口 幸治
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/07/12
  • メディア: 新書
 

 

こうした個人を支える一連の社会保障を実現しようとすれば、当然必要財源は今より膨らむと考えられます。財源について、「社会への投資」でなるほどと思うことが書いてありました。それは「貯蓄と税金はコインの表と裏」ということです。どういうことかというと、貯蓄も税金も万が一何かあった時の備えとして機能することは共通しており、そのための蓄えを個人がそれぞれの責任の下に行うのか(=貯蓄)、自分では貯められなくなるリスクを分かち合って社会共同で行うのか(=税金)の違いでしかないということです。

言われてみれば確かにそうだな、という指摘に思えてきます。それなのに日本人の痛税感は世界でも指折りの高さなんだそう。そうなった原因は民主党政権から第二次安倍政権にかけてなされた税と社会保障の一体改革で国民が広く苦い思いをしたことがあるとされていました。あると言われていた埋蔵金はなく、国民のために還元されるといってなされた消費増税も将来の給付水準を下げない安定化のための働きしかできず、目先の受益感がなかったことで、裏切られた感が広がってしまったのです。

だから今誠実に訴えなければならないのは、税金が高すぎるということではなく逆に安すぎるということで、その財源によって個人が生涯にわたって支えられる手厚いサービスメニューを整えます、ということなんじゃないかと思います。

これは言ってみれば大きな政府への志向であって、今さんざん失われている(世界一低いという調査結果もあるくらい)政治・政府・制度への信頼がなければなしえない転回でしょう。「これは私たちが積極的に選んだもの」という実感をひとりひとりの個人が持ち、政治・政府・制度への信頼を回復させるためにも、まずはやはり「私たちはどんな社会に生きたいのか」よく議論をつくし、理念を共有することから始めるしかないのではないでしょうか。