手の倫理(著:伊藤亜紗)を読みました

どもる体の伊藤亜紗さんの新刊を読みました。

今回のテーマは、「さわる」と「ふれる」の違いから見える触覚=手の倫理。

 

触覚の特徴とされているのは、距離ゼロ、持続性、対称性の3点。

そのうち、距離ゼロについては、「さわる」は中に入り込む感覚をともなわない距離ゼロだけれども(例:医者が患者の身体にさわる)、「ふれる」は内奥にある自然や動きまで届く距離マイナスである(例:彫刻にふれる)。

対称性については、「さわる」は「さわるときにさわられる」という対称性が成り立つけれど、「ふれる」はふれられる側が主導権を手放すことであり、圧倒的にふれる側への信頼を求められるという点で非対称な関係に置かれている。

持続性はコミュニケーションの様態として表れ、さわるは伝達×物理的なモード、ふれるは生成×物理的なモードである。(物理的の反対は記号的で、伝達×記号的が言語)


さわるよりふれるの方が深いコミュニケーションとなるけれど、別々の身体であるという最奥部まで突き詰めると、そこはさわることしかできない。
ふれあいを越えて、異質さそのものにふれることに、自-他のより深い交感が訪れる。

 

触覚は同じからだをメディアとしているため、フレームの混同をまねき、うっかりリアリティを書き換えてしまうことすらある。
それだけ状況依存的だからこそ、触覚は道徳的(いつも普遍に○○であるべきとすること)ではありえない=道徳に杓子定規に従うことを相対化する。また、触覚が暴力的なコミュニケーションとならないためにも、相手とも不断の調整を行う生成的なものでなければならない。
だから、触覚については、複雑な状況に向かい合い、進むべき道を求めて格闘していく=倫理的であるしかない。

 

ふれに行きたいのだけれど、相手に「さわられた」と思われるのではないか、と恐れ、さわるだけ=さわり、にとどめていることもたくさんあるなぁ。

委ねることで入ってくることがある、という視覚障碍者の方のお話しが出ていたけれど、もっと上手にふれられるような身の置き方ができるようになりたいと思いました。

 

手の倫理 (講談社選書メチエ)

手の倫理 (講談社選書メチエ)