テレ朝会見で思うこと

「これはもう、構造的に限界なんじゃないか。」

福田元財務次官によるセクハラ被害を自社社員が受けていたという会見をテレ朝が深夜12時から開き(しかも自社では生放送せず)、「二次被害を恐れて公表しなかった」とのたまったと twitter で目にした時に感じた第一印象である。

 

被害にあった当人の訴えを握りつぶし、他社にリークされた挙句、慌てて深夜にこっそり会見しておいて「二次被害」とはどの口が言うか。どう考えても取材先との関係を慮っての対応であって、決して被害者当人を守ろうというつもりはなかったのだろうと、誰しもが思うだろう。

訴えを聞いた当時の上司は、「これでうちは上ネタが引っ張ってこれそうだ」とほくそ笑みはしなかったか?というのはさすがに邪推が過ぎるか。

→訴えを聞いた上司も女性の方で、「もみ消すため」ではなく会社に潰されると考えて 「記事は出せない」と言われたとのこと。問われるべき対象に上司個人は含まれず会社の姿勢の方のようなので、当該記述は削除します。すみませんでした。

 

これこそまさに「忖度」案件だと思うのだが、テレ朝に対する他メディアの切れ味が鋭くないのは、脛に同じ傷を持つ仲間だからだろう。

「ほぉー、あぶない、うちで起きなくてよかった」と肝を冷やしたメディア上層部がどれだけいただろうか。

 

セクハラ行為を働いた元次官が悪いのは言わずもがなとして、なんでこんなことが起こるのだろうか?という原因を考えてみると、これはいわゆる番記者として取材対象に張り付き、属人的な関係を築いて情報を引き出すことが取材行為とされていることに尽きるのではないだろうか。

まだ他には出ていない・出していない「貴重な」情報を手に入れようと、取材対象のもとに足しげく通い、時には取材対象が喜びそうなよその情報を提供する。

「いい情報」が入るかどうかが、取材対象と取材者の個人的な仲の良さで決まる。

 そういう構図から抜け出せないでいるから、取材者がハラスメントの被害者になり、上司は見て見ぬふりをする。

これが今回表面化した一件の経緯だったのではないか。

 

マスコミ各社は、もうこんな構図に優秀な記者たちを無駄遣いするのをやめてはいかがか。

個人的なつてで情報を手に入れるのを取材と呼ぶのはやめたらいい。

多分記者たちの労働時間も無駄に長くなっているだろう。

そもそもそういうもたれあいの中で入手された情報は、報道するうえで果たして本当に「いい情報」なのだろうか?
取材対象者が何らかの意図をもってリークした情報かもしれない。
報道する側も取材対象を慮って表に出す範囲やトーンを調整しているかもしれない。
裁判だって証拠の入手方法が適切でなければ証拠として採用されないのだから、報道でも入手経路が不適切であれば当該情報は発信しないという判断があってしかるべきである。

 

今回の一件でも改めて露見したが、今のマスコミと取材対象者たちには「あっち側」の事情があって、このままでは受け手側はそのことを踏まえて出てくる情報を読み解かなければならない。

今や速報的な抜きをやったとしてもその情報の賞味期限は半日もない。

これは皮肉ではなく、優秀な記者たちに信頼もされなければ賞味期限も短いような情報を追いかけさせるのは、とっても生産性が低いと思う。

 

速報性のあるニュース情報については取材者が等しく受け取れる機会なり手段なりを整え属人性とそれに伴う過重な負担を排し(もしかしたら記事作成自体はヒトでなくAIがやってしまうのかもしれない)、より分析的で受け取り手が考えるきっかけ・材料になるような発信に記者たちが取り組んだほうが、みんながハッピーではないか。

 

このままマス・メディアが信頼を落とし受け取り手から(ますます)そっぽを向かれるようになると、人々はSNSやネット検索などよりパーソナライズされた情報にしか接しなくなり、マスがよって立つ共有された情報基盤がなくなってしまうのではないか、そうなるとそもそも話はかみ合わないし、社会的合意の形成が機能不全を起こすようになるのではないか、と危惧している。

 

どうか、一つくらいはマスを担えるメディアが残っていきますようにと願っている。