宗教は人を救えるのか(著:釈徹宗)を読みました

アサダワタルさんの『コミュニティ難民のススメ』を読んだときに、住み開きを本書が取り上げていたことがきっかけで巻末対談をされていたのを目にし手に取った一冊。

 

仏教が中心ですが、キリスト教イスラム教その他の宗教も触れつつ、逃れられない苦しみや悲しみを引き受けながら人はどう生きていくのか、 その方向性を示そうとしている本でした。

避けられない苦しみ・悲しみとして取り上げられているのは老・病・死で、そのためALSを患いながらスペースALS-Dというアートスペースを仲間と立ち上げた甲谷匡賛さんや、自身は無神論者の立場に立ちながらガンと戦った宗教学者の岸本英夫さんについての紹介・省察もされています。

 

甲谷さんの事例から引き出しているように、苦悩を引き受ける手掛かりは、「明らかに知って」「あきらめる」ことのようです。少し長いですが該当箇所を引用します。

 

 「明らかに知る」は、自分の心と身体の状況を克明に観察すること、自分を取り巻く関係性を見つめること、自分が立っている位置や場を点検すること、見える世界を支えている見えない世界の声を聞くこと、そのような営みから始まります。
 そして究極的には「自分の都合」をいったんカッコに入れて、自分の都合を通さずにモノゴトを見る、それが「明らかに知る」ということです。
 「自分の都合」を通じてモノゴトを見ることの具合悪さがわかってきたら、「自分の都合」への執着が変化してきます。それが「あきらめる」へとつながっていくのではないか。

 

「明らかに知る」ためには「自分の都合」をわきに置いておくー言われてみれば全くその通りなのですが、何事も引き受けるためにはとても大切なことだなと改めて感じました。

 

 それと興味深かったのは仏教には「仮有の存在論」をとっているという話。それは確固たる実在としての自分というのはなくて、自分とは複数の要素が変転しながら構成されている集合的なものであるという考え方なのですが、仏教では自分への執着を持たないために、常に変わり続ける自分という考え方をとるようになっているそうです。つい最近読んだ平野啓一郎さんの本に出てきた「分人」が全く同じようなコンセプトで、あぁつながっているんだなぁと思いました。

 

 本書のどこかに、仏教の道とは、苦悩を抱えないで済むよう、身体と心を調えていくこと、あきらめて仏さまに委ねること、という内容の説明があったように記憶しています。あまりストレスを貯めたくないので、なるべく「こうでなくちゃ」というこだわりは持たないようにしてきたつもりですが、まだまだ自分起点の執着は捨てきれていないように思います。
 人生も中盤に差し掛かった今、もっとこだわらない姿勢を仏教から学ぶのもいいな、と思わせてくれる本でした。