フィルターバブル ― インターネットが隠していること(著:イーライ・パリサー)を読みました

インターネット体験のパーソナライゼーションとその弊害について説いた一冊。

 

検索、ページ閲覧、クリック、いいね!、購買などなどインターネット上のあらゆる振る舞いはトラッキングされ、データとして蓄積され、分析され、画面の向こう側から見た「わたし」の像を私自身が知らない間に描き出している。その収集されたデータや描かれた「わたし」像は、ウェブサービスの利用体験を向上させ利用頻度を上げたり滞在時間を伸ばすために使用されるほか、モノを売りたい主体や、投票行動を方向付けたい政治勢力に販売され、広告やインフォマーシャルとして届けられる。このようにして、ひとりひとりのインターネット体験がその人特有のものに個別化されていくーーこのことは一見ユーザーにとって見たいものがすぐ見られるという快適さを増しメリットをもたらすように見えるが、実際には本人があずかり知らぬところで進行するプロセスで、問題も孕んでいる。

 

本書で指摘されているのは、下記のような問題です。

・不愉快かもしれないが大事な話題/情報が届かなくなる
・異質なものとの出会いがなくなりイノベーションの機会が減る
・「自分ループ」から抜け出せなくなる
アルゴリズムが描き出した「わたし」像を知ることはできず、訂正する機会もない
・共有される情報が減り公共圏が成立しにくくなる
・購買行動や政治的選択・世論を知らない間に誘導されてしまう
・どのようなデータを集め、どのように扱っているかについて、プラットフォーマーが説明責任を負っていない

 

この本を読んで真っ先に感じたのは、「しまった!」ということ。本書の原著が刊行されたのが2011年、日本語版の単行本が発行されたのが2012年。今から7~8年前にはもうこの問題が指摘されていたということです。「アクシオム」という個人データの会社のことも、そんなに活発にユーザーデータが取り引きされていることも本書で初めて知りました。薄々「どうなのかなぁ」と思いつつも、それとはっきり認識せぬまま7~8年も過ごしてしまったことが「しまった!」でした。

実感として最近自分の想定外のことに出くわすことが前より減ったなと感じていて、それは自分が歳を取って新鮮に驚ける感覚を失いつつあるのではないかという危機感めいたものを抱いていたのですが、情報への接し方が「自分ループ」にはまりつつあることも一因だったのではないかと思います。

 

「自由」というのは思春期の頃から自分を形作ってきた大事な価値観なのですが、その根本となる「知ること」がそれと気づかぬうちにフィルタリングされ、「選ぶこと」さえも影響を及ぼされていると考えると、自分はおよそ「自由」とは言えない状況に置かれているのではないかと感じてしまいます。

きっとこれは「なんかあるっぽいけど、みんなそうしてるし、ま、いっか」と看過せず、立ち止まって考えてみることが必要なテーマです。

ユーザー側にいる人たちのことはもちろんのこと、個人情報を収集・分析・ターゲティングする側にいる人たちの顔も浮かんでくるのですが、みんなこういう状況をどのくらい分かってそうしていて、そのことについてどう思っているんだろう、というのを一度ざっくばらんに聞いてみたいなぁと思いました。

 

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)