日本の長い敗戦ー敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか(著:橋本明子)を読みました

太平洋戦争の敗戦というトラウマを日本社会がどう乗り越えようとしているのか、その乗り越え方がどう安全保障政策や外交姿勢、国民の政府への信頼感に現れてくるのか分析した一冊。アメリカの大学で社会学の教鞭をとっている筆者が著した"The Long Defeat - Cultural Trauma, Memory and Identity in Japan"という書籍を、日本人向けに編・訳したもの 。

 

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戦争の体験、分けても敗戦の体験は、敗戦国の人々にとって受け入れることが難しい記憶となる。筆者は本書で、日本で見られる敗戦やそこから引き出される教訓を語り継ぐ「語り」を英雄、被害者、加害者、の3つの類型に整理している。

 

英雄の語りでは、戦争で散っていった日本兵は祖国を守るため命を投げ出したのであって、私たちの今の繁栄は彼ら英雄の犠牲の上に成り立っている、という語られ方をする。

被害者の語りでは、戦争責任の所在を明確にすることを往々にして避けつつ、戦争に巻き込まれ命を落とした日本兵や一般人、特に戦争末期の銃後の暮らしの厳しさが語られ、戦争は絶対に避けなくてはならないものと語られる。

加害者の語りでは、アジア近隣諸国で行った植民地支配や残虐行為の罪責を認め、謝罪と和解が必要であると語られる。

 

これら3つの語りに対応するように、敗戦からの道義的回復を図ろうとするアプローチも、ナショナリズム(英雄)、平和主義(被害者)、国際協調(加害者)の3パターンに分類される。

大まかに言って、ナショナリズム憲法改正・集団的安全保障に積極的で「普通の国」になることを目指し、平和主義は護憲・反戦主義を貫くことを主張し、国際協調は謝罪と和解を最重要視する。

 

このように敗戦の物語とそこからの回復のアプローチは、それが交じり合わないまま並存してきたが、文化的トラウマを抱えていること自体、国民がアイデンティティを刷新していく契機となる。

「日本の道義的回復は、国民としての新しい自己を形成し、日米同盟の次元を超えた政治的アイデンティティを構築することなしには達成できない。」

 

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平和主義を掲げ、敵をなるべく作らないような外交的努力もし、国連他国際機関にも一定の貢献をしてきてなお、日本は太平洋戦争についての反省が足りないと指摘される所以が本書を読んでよくわかりました。

日本の平和主義は、戦争責任を認め反省したところから生まれたものではなく、身近な人や同胞が命を落とすような道を選んでしまったことへの悔恨や、世界における道義的地位を高めたいという道義的回復の手段として選択されている。
そこに戦地で行ったことへの反省が含まれていないからこそ、自己憐憫だと批判されやすい。

 

また、敗戦の記憶を語り継ぐ具体的な場・メディアとして家庭、学校教育、マスコミの3者を取り上げて分析されていましたが、その内容も説得的で興味深かったです。具体的内容はぜひ本書を手に取って読んでみてください。

 

本書を読んで一番心に残ったことは、このまま進むとよくない結果になりそうだと思った時に何もしないでいることは、責任の放棄であるということ。
敗戦の記憶の例からみるに、事後振り返る際、自分が何もしなかったことは棚に上げられがちで、自分を巻き込まれた被害者として正当化したくなる心理が働く。
平和主義者のアプローチでさえ、戦争は断絶した過去の体制・社会が引き起こしたことと一線引いた向こう側の出来事と位置づけている。

でも、これはすごく身近な例で言えば、いじめが起きている教室内で見て見ぬふりをすることと同じ。

だからと言って、これはという時、街に出てシュプレヒコールを上げればいいということではないのだけど、インターネットもSNSもあって昔より発信することが容易になった分、これは変だなと思った時はちゃんと自分の声を発しようと思ったのでした。