「ブラインド・マッサージ」(著: 畢飛宇)を読みました

読了。まるで詩のような美しい小説でした。

「南京のマッサージ店で働く盲人たちが、運命に翻弄されつつも自分の希望を守り、夢を叶えようと奮闘する日々を描いた小説。盲人に安易に同情せず普通の同時代人として描写することで、盲人の喜びや悲しみ・夢と現実にリアルに迫ると同時に、盲人の目を通した今の中国をも切りとってみせている。」(136字)

中国人作家の現代小説は初めて読みましたが、本書は本当に美しい。

視覚がないことで巡らされる想像や、視覚以外の感覚を通じて捉えられた世界の描写がとっても繊細で、まさにその情景や心象風景が「目に浮かぶ」ようでした。

微妙にニュアンスを変えながら連ねられる修辞表現は、ほとんど漢詩の領域のものです。

中国語がまったく分からないにも関わらず、きっと原文の文章もリズミカルに韻を踏み、選ばれている言葉も詩情に溢れているんだろうなぁと想像させられました。

きっと訳者の力量も並外れて高いのでしょう。

決してハッピー・ポジティブ一辺倒のストーリー展開ではないのですが、読後感は清涼でございました。

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

 

 

「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門」(著: 井上達夫)を読みました

読了。

リベラリズムとは等しき事例は等しく扱うという正義に立脚して判断を下す政治姿勢である。しかし日本のリベラルは戦争責任、安全保障、憲法について二重基準を用いており欺瞞的である。かかるリベラルの再定義の他、正義論が独断に陥るのを防ぎ、立法の正統性を問うため、今、正義概念論が必要である。」(140字)

こないだ保守主義の本を読んだので、今度はリベラリズムの方を。

両方読んでざっくり言うと、保守主義帰納的、リベラリズムが演繹的っていうことかなぁ。

本書筆者の場合、多様にある「善」(善き生き方)・「正義の諸構想」(功利主義・公正としての正義・リバタリアン的な権利論など)が共通して志向する概念があって、それが「等しき事例は等しく扱う(Treat like cases alike.)」という「正義概念」で、これを最上のものとして議論を進めているとお見受けしました。

そういう意味で、保守主義が今ある制度を漸進的に見直していくというスタンスとすると、帰納的=演繹的の対象が一番ビビッドかなぁと思ったわけです。

タイトルはリベラリズム押しですが、本の内容は、前半がリベラリズム論、後半が正義(概念)論で、リベラリズム論は正義(概念)論の応用(適用)であるという構成だったようです。
即ち、リベラリズムの伝統である啓蒙(理性主義)と寛容の正の側面を引き出すには、根底に正義概念がなければならないという。

法・ルールのあり方について、国内からグローバルなものまで、なべて「正義概念」で切っていく様は、目からウロコでした。
※正義に適っているかどうかは、反転可能性テスト(自分の他者に対する行動や要求が、自分の視点だけではなく、他者の視点から見ても拒絶できないような理由によって正当化できるかどうか)で吟味できる。

ということで、引き続き本書の続編と『世界正義論』は、読んでみようと思います。

 

 

 

「山谷 ヤマの男」(著: 多田裕美子)を読みました

読了。
1999年から2年間、山谷にある玉姫公園で山谷の男たちのポートレートを撮った写真家多田裕美子さんのフォトエッセイ。

本書は自分の今年がぎゅっと詰まったような1冊で、しみじみご縁って不思議だなーと思いました…

きっかけは毎年夏恒例のバングラツアーを見送ったこと。
代わりに行った大阪では、鷲田清一さんの本で読んで前々から覗いてみたかったラボカフェ(哲学カフェ)がちょうどタイミングよく開催されていて、ドロップインさせてもらった夜のテーマがあいりん地区で日雇いのおじさんたちと釜ヶ崎芸術大学などアート活動を展開してきた詩人・上田假奈代さんゲストの「ゲストハウスとカフェと庭とココルーム」で、そんなフックもありつつの自由大学でゲストハウスの授業とって「ふーん浅草界隈がメッカなのね」とか思ってた矢先日経の書評欄で本書をみつけて読んでみたら、全部がつながったっていう・・・。

山谷という文脈を抜きにしてひとりひとりの男の放つ強さ・たくましさを撮りたかったという多田さんは、敢えて黒の背景でポートレイトを撮られているのですが、表紙の写真然り、どの写真も強烈に放たれてくる何かを感じられるものばかりでした。
つい数日前、俳優の遠藤憲一さんが何も言わなくてもいるだけで観ている人をうわーっと引き込めるような俳優になりたいとコメントされているのを目にしましたが、まさにそんな印象のカットばかりです。

この写真が撮られてからすでに15年以上が経って、山谷の様子も変わってきているとのこと。
とは言え、本書を眺めただけで分かった気になるのはもっての他なので、いつか、自分の足でそこに立って自分の感覚で感じてこないといけないと思いました。
今だとまだ物見遊山気分が濃くなりそうなので、もっと機が熟して時が来たら、きっと。

 

山谷 ヤマの男 (単行本)

山谷 ヤマの男 (単行本)

 

 

「1941 決意なき開戦: 現代日本の起源」(著: 堀田江理)を読みました

読了。色んな意味で嘆息が出ちゃう本でした…。

「太平洋戦争開戦時の指導者たちは、勝算がないことを知りつつも自身と出身組織の面子に拘り避線を断固主張しなかった。対米外交緊張緩和の機会もあったがみすみす逃し、外交上の選択肢を狭めた。そして最終的には「万が一の勝利」の妄想に基づき、一種の博打的政策としてなし崩し的に開戦を採用した。」(140字)

太平洋戦争開戦に至る1941年の政策決定(と呼べるような代物でもないことが本書を読むと分かりますが)過程を丹念に追った歴史書・政策決定過程分析ではありますが、著者が企図した通り、結果が分かりつつもどっちに転ぶんだろうと思わせるようなサスペンス的な描かれ方もしていて、歴史小説的な読み方もできる本でした。

ほんとに読んでて途中「あー、あー、あー、あー」と言いたくなっちゃうような決定(もしくは不決断)が山ほど出てきて、亡くなった方々があまりに報われないなぁと悲しくなりました・・・。
時の指導者たちの不甲斐なさを指弾することは簡単ですが、それだけでは解決にならない気もしていて、およそそういう立場になくこれからもそうはならないだろう一般ピーポーたる自分としてはこれから何をウォッチしていなくちゃいけなくて、これは、というものをもしも首尾よくキャッチできたらその時どうすればいいんだろう、ということを考えさせられました。

題材は太平洋戦争開戦ですが、副題が現在日本の起源である通り、今の日本に対して(そして日本以外にも)、色んな示唆を引き出せる材料がいっぱいあります。

出身組織を守るという部分最適に走って全体の利益を損なう、特に撤退の意思決定ができないというところや、意思決定に関わる人がたくさんいてコンセンサス作っていくうちに決定に対して当事者意識を持たなくなっていくというところは、今に至っても日本の大企業とかお役所にありがちなシーンだなぁと(著者もあとがきで福島の原発事故や国立競技場を例として挙げていて、直近でも豊洲市場とかあありますしね)。

あと読んでて当時の日本の瀬戸際外交が今の北朝鮮とすっごくダブってきて背筋がぞっとしました。
本当は勝てない戦争は避けたいのに面子にこだわって誰もそれを言いだせず、そうこうしているうちに経済封鎖でじわじわ追いつめられて、戦争準備を並行して進めている脅しは続けて、直接交渉の場になんとかアメリカを引っ張り出そうとして、引っ張り出せさえすれば国内のライバル組織を気にこだわらず譲歩するつもりはあって、でもアメリカは原則を曲げなくて出てこなくて、、、って今ここあたりか。
アメリカの歴代政府の人たちも日本のケースを参考事例にしているんだろうか…。

太平洋戦争の時は、ルーズベルトが日本の奇襲を察知していたにも関わらず国内世論を参戦に持っていくために日本に先制攻撃をさせたとする説もありますが、直近の大統領選の結果やアフガン・イラク戦争の後遺症も見るにつけ、今回はそれだけやっても北朝鮮と交戦するというチョイスはなさそうでしょうか。
真珠湾も日本の攻撃能力を過小評価していたという反省がアメリカにあったという記述もありましたが、なにせ北朝鮮の場合はそれが核兵器になる可能性があるわけで、ますます手を出させてからやむなく立ちあがるというやり口は使えないんでしょうね。
いやー、匙加減がとっても難しそうですねぇ。

ともあれ、色んなインプリケーションを含む内容の濃さと読ませる筆致、どちらも備えた本書は嘆息ものです。
司馬遼太郎の本が好きな人はきっと本書も好きなんじゃないでしょうか~。

 

1941 決意なき開戦: 現代日本の起源

1941 決意なき開戦: 現代日本の起源

 

 

「保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで」(著: 宇野重規)を読みました

トランプ大統領誕生の今日読了。
著者の意気を感じさせる、一本筋の通った良書でございました。

保守主義とは個人の自由を守る制度・慣習の蓄積を重んじ、漸進的変化を志向する政治姿勢である。個人の自由を守る制度が明治期に創設された日本では、何を守るかという保守主義の根幹が定まっていない。ライバルの進歩主義が衰え優位に立つ今、保守主義は歴史から何を汲み、守るか理念を定めるべきだ。」(140字)

マジックワードとして頻出する「保守主義」。
これは正確なところ何なのかモヤモヤしていたのですが、やっと腹落ちしました。

著者曰く、元々楽天的な進歩主義を批判するものとして生まれ発展していった保守主義は、①具体的な制度や慣習を保守し、②そのような制度や慣習が歴史のなかで培われたものであることを重視するものであり、③自由を維持することを大切にし、④民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革を目指すものであるとする。

だからこそ、王政から自由を勝ち取り制度として定着させた歴史のあるイギリスでは、国王の親政に対する反発や、抽象的な理念に基づき既存体制の全否定と転覆を企図するフランス革命の否定につながり、貴族制の歴史を持たず自由な移民の国として始まったアメリカでは大きな政府への反対、という形で保守主義が立ち現れた。

翻って日本は、そもそも自由のための制度がやっと明治になってから始まったということもあり、保守主義が確立する余地が小さかった。
それでも著者は、明治憲法を起草し政党政治の先鞭をつけた伊藤博文に始まり星亨・原敬へ受け継がれ、戦後吉田茂大平正芳と連なる、日本の保守主義の命脈を見る。

しかし、特に戦後の保守主義を困難にしているのは、敗戦と占領、それに続く戦後経験をどう捉えるか、であると指摘する。
現行の憲法を押し付けられたものとして肯定的にとらえないか、はたまた状況適応的に現在の制度を不問に付すか。
そうした中途半端なスタンスではなく、現行憲法下、経済を優先しながら自国の軍隊を率いて国家間の戦争に参加しないという幸運を活用してきたことの意味を踏まえ、戦後経験から継承するものを自覚的に選択しなければならない。
そして単なる過去への懐古主義でなく、開放性と流動性をともなった開かれた保守主義こそが、未来が見えない現代の羅針盤となりうると結んでいます。

あとがきで、著者自身は保守主義者でも保守主義の批判者でもないとおっしゃっていますが、進歩主義が挫折・後退した今だからこそ、保守主義にどう頑張ってほしいのかを思いをこめて主張した一冊だったのではないかと受け止めました。
とってもいい本でした。ごちそうさまでした。

さて。
では保守の対抗である「リベラル」とは何なのか?
これまたマジックワードなので次はこちらをば。

 

 

「入門 近代仏教思想」(著: 碧海寿広)を読みました

読了。
無宗教を自認しつつも、英語で聞かれると何となく" I'm Buddhist."と答えてしまう、現代を生きる私(たち)の仏教とのつながりが垣間見えた気がします。

明治維新後、近代国家建設の過程で特権的地位を失った仏教は、哲学、体験、伝統、教養と存在価値の源泉を変えつつ思想として社会に定着しようとしたが、国民の動員に加担した太平洋戦争の敗戦と共に廃れ以後忘れられた。しかし現代が立脚する近代を仏教思想がどう規定していたかはもっと検証すべきだ。」(140字)

神道キリスト教の挟み撃ちにあって、明治~戦中の仏教はもがいていたみたいですね。
それが、戦時下、仏教のみならず、キリスト教や、天理教などの新興宗教もこぞって国家貢献して、こけちゃった結果、大多数の人にとっては、よく言えば宗教との関係が柔軟なこんな社会になったという…

本書では、新しい社会での支持獲得のため、仏教の諸宗派ならびにキリスト教などの他宗教が、特に伝統的な寺院や教会を離れて積極的に講話の会や対話の場を開いていた様子が描かれていますが、自らの進路に悩む青年が相談に行ったり、互いの語りを聞き合うという場としてそれらが機能していたようで、このニーズは昔も今も変わらずあるものなのね、という気がしました。
ただ、昔のこういった場がパワフルだったのか、輩出される門人の粒の大きさはすげーなの一言です。(内村鑑三門下の志賀直哉矢内原忠雄南原繁大塚久雄、近角定観門下の田辺元岩波茂雄、など)

しかし、中野の哲学堂が、本当に過去の哲学者を祀ったことが名前の由来であるとは知らなかったなぁ~。

 

入門 近代仏教思想 (ちくま新書)

入門 近代仏教思想 (ちくま新書)

 

 

「巨大数」(著: 鈴木真治)を読みました(?)

読了!といっていいのだろうか。。。

ひっさしぶりに、全くちんぷんかんぷんの本に出会った!
とりあえず再度まで目を通したというのが正しいところ…
(というわけで、今回は超要約なし!)

いやー、数学の世界はワクワクしちゃうくらい全く新しい地平であります。

まだまだ未知の領域はいっぱいありますな。
いつかちゃんと勉強してから読みなおそうっと。

 

巨大数 (岩波科学ライブラリー)

巨大数 (岩波科学ライブラリー)