NEXTOKYO(著:梅澤高明、楠本修二郎)を読みました

DIVE DIVERSITY SUMMIT SHIBUYA 2017 の記事(「高機能すぎる都市」の問題点は? 再開発が進む渋谷で失いつつある“街の心地よさ” - ログミー)をネットで読んだのがきっかけで手に取った一冊。

 

タイトルの通り2020年のオリンピックを越えて東京がよりよい都市であり続けるには何を目指せばいいかを提言しています。

具体的には「クリエイティブシティ」、「テックシティ」、「フィットネスシティ」をキーワードに、東京内のエリアごとの特徴付けや、IoTの都市開発への導入、水辺の再開発などの施策とそれを実現するための特区戦略が提示され、合わせてこれら実現にあたって生まれると考えられる5つの新産業(Personal Health、Sports & Entertainment、Advanced Mobility、Inteligent Security、Marketin Innovation)が紹介されています。

 

本書第3章には、NEXTOKYOメンバー11人のインタビューが掲載されているのですが、一番印象に残ったのは著者であるお二人の対談。

特に楠本修二郎さんの、「野心あふれた若者が集まって文化がたまる街」、「生物多様性の豊かな沼地のようなもの」という”渋谷論”は、とても言い得て妙だと思いました。

 

渋谷には原宿のクレープや浅草の雷おこしのような特産がないことが嘆かれることがあると聞いたことがあります。
確かにそうだなぁと思いつつも、でも渋谷は今さら無理に特産品を作らなくてもいいんじゃないだろうか・・・、とも。

ファッションのセレクトショップや映画の単館系ミニシアターのように、渋谷はどちらかというとそこで何かをゼロから作り出すというよりも、目利き力で引っ張ってきたり、それらを組み合わせたり、かけ合わせたり、売る側も買う側も今で言うキュレーションのセンスで勝負してきたような土地柄なのではないかと思うからです。

 

先述の楠本修二郎さんの渋谷論にせよ目利きによる引っ張りにせよ、外から集まってくる/集めてくるという特性は東京全体についても当てはまること。東京はこれからもそのキャラクターを臆面もなく貫けばいいんじゃないでしょうか。

本書のスプツニ子!さんによる佐久間裕美子さんへのインタビューでも語られている通り世界的にもラグジュアリーの意味合いが変わる中、経済的・社会的(人口的)に既に成熟段階にある東京がこれから先さらに魅力的であり続けるためには広い意味での文化・芸術的な部分でのアピールが必ず必要になるはずで、それはこのような集まってくる/集めてくる人たちの目利き力=「審美眼」が支えになりうるのではないかと思います。

 

「あそこに集まる人たちのセンスはすごい!」と憧れられるような東京というのも、いいもんじゃないでしょうか。

 

NEXTOKYO 「ポスト2020」の東京が世界で最も輝く都市に変わるために

NEXTOKYO 「ポスト2020」の東京が世界で最も輝く都市に変わるために

 

 

ゲンロン0-観光客の哲学(著:東浩紀)を読みました

昨年末読んだ『弱いつながりー検索ワードを探す旅』で提示された「観光客」という概念について、哲学的に掘り下げて検討を加えている一冊。

 

現在の世界はグローバリズム(=経済的・帝国)とナショナリズム(=政治的・国民国家)が併存しており、私たちは両者の間で引き裂かれながら生きることを余儀なくされている。
このことは、家族から市民へ、市民から国民へ、国民から世界市民へ、という弁証法的・一元論的な普遍主義の構想が崩れ去ってしまったことを意味している。

 

著者は、このようにグローバリズムナショナリズムの二層構造を生きつつも、上記の一元論とは違った形で普遍的な世界市民に至る道として、「観光客」を措定している。

そして観光客をこのように位置づけるための基礎づけとして、著者はグラフ理論を引く。

格子状構造に配置された個々の点の間につなぎかえが起きると三角形のスモールワールドができあがる。
この状態からさらに点が増えつなぎかえが起きる際、美人投票的な優先的選択が起きると、特定の点へのつながりの集中が生じ、ネットワーク内で力関係も含めた大きな不平等が生じる。これはべき乗分布に従うスケールフリーな次数分布である。

 

二層構造との関係で言えば、スモールワールドが現時点では国民国家にあたり、スケールフリーが帝国にあたる。

21世紀の連帯は、つなぎかえをスケールフリーから取り戻すことから始まり、これを観光客の原理と名付けている。少し長いが引用すると下記の通り。

 

二十一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への集中はいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。ぼくには、そのような再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の二層化の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき、必要不可欠な条件のように思われる。

 

本書では新たな連帯に至るための具体的な行動の指針は示されていない。
一つの実践例として、筆者は自身が行っているチェルノブイリへのダークツーリズムを挙げている。あるいは指針の手がかりとして、共通の信念や欲望の確認ではなく、苦しんでいる人を目の前にして声をかけ、同情する、という憐れみを通じた連帯への至り方を挙げている。

これはつまり、人々の感受性や想像力をどうやってスモールワールドの外に向けて働かせることができるかにかかっている、と言えるのではないか。

何に触れられる可能性があるのかを示唆し、行ってみようかなと思わせるー。

本書の冒頭で著者は、本書は観光業者には関係ないと断定しているが、この命題は観光業者が日々頭を悩ませていること、逃れられない宿命であって、大いに関係がある。

 

(本書も含めてかもしれないが)著者自身はそのために言論・ゲンロン活動を行っている。
では、旅行会社である自分自身はいかに?

新しいサイトやオフィススペースなど、いくつか仕込み中のものがある。今年はそれをひとつひとつ形にしていく年にできたら、と思っている。

 

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

チョコレートコスモス(著:恩田陸)を読みました

文章によって他の芸術分野の心震える瞬間を描写するという恩田陸の「越境モノ」の(多分)先駆け的な小説。

演劇が題材の本作は、新国立劇場こけら落としの公演のためのオーディションに参加した二人の女優を軸にストーリーが展開します。
クライマックスのシーンでは、持ち前の豊かな表現力によって、演じることのその先にはどんな世界が広がっているのか、そこに行くことができたものだけが味わえる感覚が臨場感あふれる筆致で描かれ、読んでいるこちらまで胸が熱くなります。

 

チョコレートコスモス』と同じ2006年、後を追うようにして発表された同じく演劇を題材とする『中庭の出来事』が、ストーリーの展開の仕方において演劇を再現しているような小説であったのに対して、本作は小説としてのスタンダードな展開ではあるものの、演劇を観ているときに感じる「この次はどうなるんだろう?」という独特の緊張感が全編にみなぎっていて、途中で読むのを中断することを許さない疾走感があります。

 

環境にも恵まれ幼い時から訓練を積んだ俊才と、野性的ではあるものの天才的な才能で駆け上がってきた異才の邂逅という構図は、『蜜蜂と遠雷』にも通ずるものがありました。

 

もともと3部作の構想の第一部がチョコレートコスモスだったようですが、続編は連載していた雑誌が廃刊になってしまって中断したままなんだそう。なんて残念!
せめて著者が初めて書いた戯曲「猫と針」でも読んでみようか。

 

演劇に縁がなかった人も、ぜひ本作を読んで演劇にハマってみてください。笑

 

チョコレートコスモス (角川文庫)

チョコレートコスモス (角川文庫)

 

 

渋谷に必要なのは「空き地」

東京に大雪が降った日。
たまたま渋谷の明治通りからタワーレコード方面に山手線ガードをくぐろうとしてびっくりしました。そこにあったはずの宮下公園がきれいさっぱりなくなっていたのです。

 

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工事のフェンスの向こう側に普段は見えることのない景色が広がっていて。
公園がなくなっていること自体は衝撃的でしたが、広がっている景色は新鮮で、渋谷がまさに谷底にあるんだということも感じられ、すぐに「あ、これもありかも、むしろこっちの方がいいかも」 とも思いました。

 

この宮下公園しかり、渋谷は今駅周辺がすごい勢いで再開発されています。昨日通った通路が今日は変わっているということもざらにあるくらい。

ただ、中学・高校のころからなんだかんだおよそ四半世紀にわたり渋谷と接触してきた身としては、どうも最近小ぎれいにお行儀よくなりすぎてきているんじゃないかという、ちょっとした違和感、もしくは不安のようなものを感じることがあるのです。

 

リチャード・フロリダによれば、クリエイティブクラスの時代を迎え、クリエイティブクラスが集う都市は経済的にも文化的にも豊かであり続ける傾向があります。ではクリエイティブクラスはどんなところに集まるかと言えば、「居心地がよい場所」に集まるそう。

果たして再開発が進む渋谷は、クリエイティブクラスにとって本当に居心地のよい場所になっていっているのだろうか?

再びリチャード・フロリダによれば、クリエイティブクラスが集まってくるかどうかは、ゲイとアーティストが集まってくるかどうかが先行指標となるそうです。
両者がともに志向するのは、美しくて、新しい経験を受け入れる寛容性が高い場所。またフロリダの著書にたびたび引用されるジェイン・ジェイコブスは『アメリカ大都市の生と死』の中で「新しいアイデアには古い建物が必要だ」と記しています。

 

古い建物・ビルが壊され、高層ビルがぐんぐん伸びていく渋谷は、どうもちょっと違う方向に進んでいるような気がします。

 

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おりしも同じような問題意識は、DIVE DIVERSITY SUMMIT SHIBUYA 2017でのセッションでも表明されていたそう。

logmi.jp

 

このセッションの中で内閣府 地方創生推進事務局 次長 村上敬亮 さんがおっしゃっているのですが、駅周辺とは対照的に、自分の会社のオフィスがある渋谷二丁目界隈はここ数年新しいお店がずいぶん増えてきて、たしかにそぞろ歩く路地としては面白くなってきていると感じます。

 

劇作家の平田オリザさんは『新しい広場を作るー市民芸術概論綱要』の中で、アートは社会的包摂のための手段として位置づけられ、そのアートを収容する場所としての劇場を「新しい広場」と呼んでいます。

今、渋谷の、さらに駅周辺ではない路地・ストリートにおいては、いろんな人がアートも含め多用途に使える「空き地」のようなスペースが必要なんじゃないかと思うのです。

自分の会社のオフィスを近々改装しフリースペースを設けようと画策中なのですが、それはこの空き地が、お上の旗振りでいささか形が整いすぎて進められている感のあるダイバーシティの推進を草莽に取り戻す契機になれたらいいな、と考えてのこと。

面白い広場になったらいいな、したいな、と思いを巡らせています。 

 

クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める

クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める

 

 

新 クリエイティブ資本論---才能が経済と都市の主役となる

新 クリエイティブ資本論---才能が経済と都市の主役となる

 

 

 

分裂と統合の日本政治(著:砂原庸介)を読みました

著者の2009年から2015年発表の論文を下敷きにまとめられた本書。

 日本で二大政党制が定着しない理由、わけても野党が政党としてのまとまりを欠き脆弱である理由は、政党システムの制度化が追い付ていないことに求められ、具体的には二元代表制と単記非移譲型投票という地方の統治システムは政党の統合を阻害する傾向が内包されていて、それが与党の利益誘導による集票に普遍的なプログラムで対抗しようとする野党に特に不利に働いているから、とされています。

 

与党の執政による現状を覆せるくらい十分包括的かつ説得的な『世界観』を持った野党がなぜ出てこないのか、そんなに構想力が貧弱なのかと不思議に思っていたのですが、それを個々の党のガバナンスのレベルではなく、政党の統合に作用する制度的システムのレベルの問題として分析・指摘しているところがオリジナルで秀逸だと思いました。

 

個人的には、ここ数年の選挙(国内・海外含め)の結果およびその後の経過を見ていて、政治的意見集約の手段として選挙という仕組みがもう限界なのではないか、幅広い論点についての多様な価値観を政党が回収しきることは難しいのではないか、いっそ選挙以外での政治への関与の方途をひらいたり分人民主主義に走ってしまった方が有権者が民主主義が機能しているという実感(あるいはうまくいけば納得感)を得られるんじゃないか、と思っていたのですが、まずはきちんと然るべきように機能するように制度を整えましょうよという地に足ついたまっとうな提案がされていて、「そうね、まずはそっちからかもね」と思わされました。

※でもそれだって、政党と選挙にもとづく仕組みの中での『自浄作用』があまりに遅々として進まなければ、全く違う形の破壊的イノベーション(もしくは低投票や脱出という形での単なる破壊)にしてやられることだってあるかもしれない、とは引き続き思います。そんなこと言ったって自分も有権者として当事者なんで、こんな他人事目線でいてはイカンわけですが・・・。

 

国政と地方政治が望ましくない形で接続するのは地方分権の制度設計の問題もあるのでは、など読み進める中で感じるいくつかのそもそも論については、最終第8章の本書の射程と今後の課題で触れられており、もしかしたら初めに第8章を読んでおくと、それ以前各章を読むときその分析・内容の咀嚼に集中できるかもしれません。

 

それにしても7年にもまたがる論文を一貫性のあるストーリーにまとめ上げ、意味あるインプリケーションを導出するのには相当な集中とメタ思考が必要であったろうと推測されます。
個々の章でも仮説の提示と実証分析による裏付けがされているが、スッとした見かけの裏では、仮説の取捨選択、データセットの整備、分析結果の解釈とそれを踏まえた仮説の再設定という行きつ・戻りつが相当あったはず。(議員のキャリアパス・地方志向を検証した分析や、地方議会選挙における政党ラベルの使われ方を検証するため選挙公報での公認・推薦状況、表明された政策志向を拾って行った実証分析など、とても地道。。。)

誠に労作で頭が下がります。

第17回大佛次郎論壇賞受賞、おめでとうございます。

 

分裂と統合の日本政治 - 統治機構改革と政党システムの変容

分裂と統合の日本政治 - 統治機構改革と政党システムの変容

 

 

貧困の戦後史(著:岩田正美)を読みました

太平洋戦争以降の日本において貧困がどのように捉えられてきたのか、定量的なデータをひきつつも、そのあらわれ方・「かたち」により着目しながら変遷を追った一冊。

本書により『時代区分ごとに貧困をこのように捉えていた』という貧困の「かたち」を大まかにまとめると下記の通りとなる。

 

終戦直後】・・・壕舎生活者、引揚者、浮浪者・児

【復興期】・・・失業対策日雇、仮小屋

【高度経済成長期】・・・二重構造論、旧産炭地域、寄せ場、問題地区(スラム・高生活保護利用地域)

【一億総中流時代】・・・多重債務者、(豊かな社会における)島の貧困insular poverty(寄せ場、開拓事業地、再スラム化する改良住宅事業地)

【失われた20年】・・・ホームレス、ネットカフェ難民、被保護者の単身化・高齢化、相対的貧困、子どもの貧困

 

本書は、社会から周縁化され目につきにくい存在とされがちな「貧困」について、とくに比較的近い時代の様相を通史的にまとめているという点が稀有だと思った。ドヤ街、浮浪者、産炭地など名前・単語としては聞いたことがあるものの、そこがいったいどのように形成され、そこに暮らす人たちの暮らし向きがどうだったのか、ということは本書で初めて知った。貧困ビジネスの「ビジネスモデル」も、旧来からあるものが形を変えて繰り返されているようだ。

 

本書最終章で著者が指摘しているが、「貧困者はすでに十分自立的であり、そのことが問題なのだ」というのはまさにその通りだと思う。

個人的に本書のハイライトだと思ったので、少し長いが引用する。

 

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「自立」支援という政策目標は、個人の怠惰が貧困を生むという、きわめて古典的な理解に基づいている。だが問題は、怠惰ではないのだ。貧困を個人が引き受けることをよしとする社会、そうした人々をブラック企業も含めた市場が取り込もうとする構図の中では、意欲や希望も次第に空回りし始め、その結果意欲も希望も奪いさられていく。だから問題は、「自立」的であろうとしすぎることであり、それを促す社会の側にある。

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日本の社会保障というのは、例えば生活保護を受けるか・受けないかのように、とかく「あっち側」と「こっち側」でとかく断絶が大きいように感じる。
税金の控除(寄付金)・減税(住宅ローン)や手当(子ども)の支給から、低額または無料でのサービス利用(子供の医療費・保育園)、所得補償(生活保護)などまで、もっとなめらかな制度設計はできないものだろうか。
こういう官的に提供される各種ベネフィットがもっと地続きに感じられるようになれば、社会保障制度は私たちのためのものという支持が広がり、支え合いがある生きやすい社会になるのではないかと思う。

 

貧困の戦後史 (筑摩選書)

貧困の戦後史 (筑摩選書)

 

 

中庭の出来事(著:恩田陸)を読みました

蜜蜂と遠雷』で久しぶりに読んで、同じような作品があるよと勧められた『チョコレートコスモス』を待つ間に読んだ一冊。

 

舞台をテーマにした本作、『蜜蜂と遠雷』と同じく、というか、より一層重層的でフラクタルな構造の小説だなぁと感じました。 

演劇作品の台本・セリフまわしが幾重にも入れ子構造になっていて、章ごとに「あれ、今どの話にいるんだっけ?」というのが一瞬分からなくなりそう。
でもそれでも不快じゃなくって、エンディングでこれがどうまとまっていくんだろうか、とワクワクする感じ。

この感覚は、本物の演劇を鑑賞しているときの感覚にとってもよく似ている。
演劇でも、場面転換でがらっと話が変わったりすると、「あれ、これはどういうプロットになるんだろう?」と話しの筋が気になりつつも、今目の前で展開されるやりとりに耳目を奪われもする。
それでこれが最終的にどう着地していくんだろうか、はたまた発散していくんだろうかと、固唾をのんで見つめていたり。

 

蜜蜂と遠雷』では、ピアノのコンテストという音楽を文章で見事に表現していたわけだけど、同じように本作では、演劇の世界を文章だけで表現している。

自らの武器による他の芸術分野への越境行為はかなり度胸がいることなんじゃないかと思うのだけど、毎度みごとやりきる恩田陸さんの文章表現力の豊かさを改めて思い知らされました。

 

小説の地の文の登場人物だと思っていたキャラクターがいつの間にか劇中劇の中のキャラクターになっていてというところが入れ子構造なのですが、本作の最後の最後、観客も劇場を一歩出た世界の中では、自分自身を演じなければならない見られる存在であるというセリフが出てきます。
ここで自分はセーフティな傍観者であると思っていた読者さえも、ついにこの小説の入れ子構造に取り込まれていくことになるわけですが、これは『蜜蜂と遠雷』でも感じたフラクタルさと相通じるものがあって、見事な筆者からのラストパスだと思いました。

 

ということで、見る側であった自分を読後の所感という形で見られる側に回して、本作の鑑賞に決着をつけたいと思います。

 

中庭の出来事 (新潮文庫)

中庭の出来事 (新潮文庫)