こうして世界は誤解するージャーナリズムの現場で私が考えたこと(著:ヨリス・ライエンダイク)を読みました

オランダのメディアの特派員として中東に駐在した著者が、報道の現場で起きていることを包み隠さず明かしている一冊。
ポスト・トゥルースが騒がれだしたのは、トランプ大統領が誕生する前後くらいからのことでしたが、それよりもはるか昔からメディアが伝えてきたのは必ずしもただ一つの真実ではなかった、ということがよく分かります。

 

ニュースとして価値があるのは平常ではないことが起きた時なのだけれども、十分な背景情報を持たない人々がそういったニュースに触れると、そのような事件があたかもその地の日常であるかのように捉えられてしまう。
メディア対応に長けた勢力は、自分たちに有利となるような報道がされるよう、取材者たちに”積極的な働きかけ”をする。(快適で便利なプレスセンターの設置、整ったメディアキットの用意、取材対象者のアレンジなど)
言論の自由が守られていない独裁政権下では、現場の生の声を拾うことができない。

こういった要因が幾重にも絡み合って、(特に欧米系の)メディアで報じられるニュースにはフィルターがかかった内容のものになっているのが実情であると著者は言います。

 

本書を読んで一番「なるほど」と思ったのは、「特派員の役割は現場にいること」というくだりでした。
自分もそうでしたが、一般的にニュースは現場にいる記者なりが起点になってその取材から始まるものだと思われていますが、さにあらず。実際は各国の国際ニュースは、通信社からの第一報が現場より先に本社の方に入り、本社国際部が取材の価値ありと判断したネタにつき、通信社から入った内容と関連情報が特派員に渡され、その後特派員が現場に駆け付けるという順番で報じられているのだそうです。
だから特派員は極端な話、現地で何ら取材しなくとも、テレビの中継に答えることができる、その場にいさえすれば。

それと、イスラエルPLOの和平交渉をめぐるメディア対応の巧拙の比較も興味深かったです。PLOアラファト議長パレスチナ自治区内に対しては独裁的に振る舞っていて側近も能力ではなく近親者から選んでいた、そのためメディア対応でイスラエルにはるかに劣ることになり、国際世論を有利に導けなかったと著者は見ています。
PLOアラファト議長をそういう風に見たことはなかったので、この著者の指摘は新しい視点を持たせてくれました。

 

しかし、メディアリテラシーで求められるのがこれほどの裏側まで知っていることであるとすると、かなりハードルは高いように感じました。
ましてや本書が発行された当時よりスマホSNSがさらに一般的に、全世界的になってきている今、ますますその傾向は加速しているとみて間違いないでしょう。
どんなに確からしく見える言説も絶対ではないという留保をもち続ける必要性と、直接の体験の重要性に改めて気づかされる一冊でした。

 

こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと

こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと