一般意志2.0(著:東浩紀)を読みました

2009年から2011年の春にかけて1年半、講談社の広報誌に連載した論考をまとめた本。それはつまり東日本大震災が起こる同月の頭に連載が終了したということなのですが、一見極めて突飛に見える新しい民主主義の可能性を模索したこの論考は、著者曰くまさにあの時だから書けたものだったということです。直前に読んでいた國分浩一郎さんの「民主主義を直感するために」に収められた書評では、著者自身の辿ってきた思索の苦しさ(「存在論的、郵便的」、「動物化するポストモダン」、「情報自由論」)、東日本大震災という状況が強いた苦しさ、多を一に還元するという政治が本来抱えている苦しさという3つの苦しさに向き合うことが、本書の読みには必要と指摘されていました。

さて、本書で著者は、ルソーの『社会契約論』の読み直しを通じて、一般意志とは個々人の欲望のベクトルの差異を合算することにより「コミュニケーションなしに」立ち上がってくるものとします。ルソーが生きた当時は一般意志を具体的形にするか術がなかったのですが、個人個人のつぶやきが刻一刻とデータベースに蓄積されていく現代の情報環境にあっては可視化が可能になったと言います。

その可視化された一般意志を一般意志2.0と呼び表し、大きな物語を喪失して存立の基盤を失った熟議の外枠とすることで、一部選良による熟議の暴走に歯止めをかけることができる、こうした一般意志2.0と熟議を組み合わせた無意識民主主義が新しい統治の可能性として開けているのではないか、というのが著者の主張でした。

 

一般意志2.0の熟議への反映の実装策として、本書ではニコ生が取り上げられています。しかし、本書を読んでいる2019年時点では、ニコ生による熟議と一般意志2.0の統合はかなり特殊なケースのように思えます。熟議への参加のハードルが高いのと同じように、ニコ生を視聴しながらつぶやきをぶつけるという行為もハードルが高い。参加層も社会のごく一部に限られそうで、広く人々の意志がそこにすくい上げられるという実感を持つことは難しそうです。文庫化に際して収められた政治学宇野重規さんとの対談(2015年6月ゲンロンカフェにて)で宇野さんが同じような指摘していて著者自身もその後のニコ生の辿った推移をふまえ、事例として限界があったことを認めています。
この個別例については本論考が書かれた当時性が強いが故のことと思いますが、政治学は正々堂々熟議の場に出ていって議論できる層=リア充層ばかりを想定して制度を考える傾向があって、そうではない層の声を届ける方法も考えなければいけないという点は引き続き有効な問題提起だと思います。

 

政党政治についての著作(「民主主義にとって政党とは何か」)でも、行政過程についての著作(「来るべき民主主義」)でも、本作でも、通底している問題意識は現実の政治に広く一般市民の声が届いていないというものでした。

そこでやはりこれが必要なんじゃないかと感じるのは、「理由のプール」を作ることです。「理由のプール」というと一般的に熟議に紐づけられやすいと思うのですが、プールするのは何も熟議の結果だけに限らなくともいいのではないでしょうか。本書で提起されたようなつぶやきも拾ってデータベースにすればいい。そしてそうしたつぶやきのデータベースは選良によるリアルタイム熟議だけでなく、政党または行政をプラットフォームとした一般市民も加わった熟議でも参照すればいいと思います。
こういうフォーラム(できれば柔らかめなやつ)がネット上にあってもよさそうなものですが、やっぱり2ちゃんみたいに荒れちゃうのかなぁ・・・。


「私たちの意思はどこまで自分たち自身のものなのか?」について続けてきた一連の読書も本書で一区切りになりそうです。 
さて、次はどんなシリーズを読もうかな。