正義論、行きつく先は議論

井上達夫さんの「世界正義論」がきっかけでいつか読もうと思っていた正義論シリーズ。今がそのタイミングになりました。3冊はどちらかというと理論寄り、もう1冊は具体的な難民問題を題材に考察した本でした。

理論寄りの3冊はいずれもロールズの正義論(先験的制度主義)を批判的に再検討しつつ、違った正義へのアプローチを模索する内容のもので、かいつまむとこんな感じの概要です。

 

「正義のアイデア」(アマルティア・セン著)

・最上の制度的枠組みを求めるより、目の前の不正義を少しでも緩和するためにどのように社会選択を行うのがよいか?を考えるアイデア=ケイパビリティアプローチを提示(包括的な理論ではない、ということを認めている)

 

「正義のフロンティア」(マーサ・ヌスバウム著)

ロールズなど先験的制度主義をとる正義論の限界を踏まえ、顕在化してきている新たな地平(障碍者・外国人・動物)に対応できるような正義論アプローチを目指した野心的取り組みで、センは示すことを控えるケイパビリティのリストも示している

 

「正義への責任」(アイリス・マリオン・ヤング著)

・1人1人の正義との向き合い方を考察、各アクターが既存のルールにのっとって行動しているにも関わらず特定の集団の不利性が固定化されてしまうような構造的不正義とかかわりなく生きていける個人はほとんどいない

・構造的不正義は特定の個人や制度が原因ではないので、罪を着せることがその解決に向けた責任の根拠にはなりえず、自らの選択・行動が不正義の再生産に関わっているという責任の分有が根拠となる

・構造的であるがゆえに個々のアクターだけでは不正義は解消できず、取り組みは自ずと社会的・政治的となる

 

一方残りの1冊、ヨーロッパで巻き起こっている反難民の動きという特定のイシューにつき考察しているのが「自分とは違った人たちとどう向き合うか」(著:ジグムント・バウマン)で、根底には自己責任の名のもと個人化が過剰に進み、恐れや抑圧を抱えたヨーロッパ各国の市民が難民をスケープゴートにしており、政治家も便乗して難民問題を安全保障化するなどして人気取りに走っていると分析している。

 

4冊連ねて読んでみて共通して見られたのが、正義の実現には議論すること・会話することが欠かせない、という主張。

 

・ケイパビリティアプローチを有効に作用させるには、何が指標としてふさわしいか、ある施策がケイパビリティを向上させうるか、どの指標をどれだけ向上させることがたとえ他の指標を差し置いたとしても望ましいのか、などを議論を通じてその都度決めていかねばならない。

 ・構造的不正義を正すには、個のアクターがそれぞれの立場・ポジションで孤立して選択を変えてもシステム全体を変えるには至らないので、他のアクターに変革に参加するよう促すような政治的な動き、コミュニケーションが必ず必要になる。

・難民を分かり合えない違った人ととらえ続けることから脱するには、途中衝突や紆余曲折があるにしても会話を続けていくしか道はない。

 

 やはりというか、偏りのない公正な社会的選択を行い、不正義を改善して正義に近づけていくには、様々な人の間でのコミュニケーションが欠かすことのできない鍵であるようです。センは民主主義とは、この公共的討議を通じた統治であって、投票・選挙のみが民主主義を作っているのではないという見方に与していました。

 

国境をまたぐ正義ってなんだろう?どうやって存在・成立根拠を持たせられるのだろう?個人として自分ができることは何なんだろう?というのが正義論シリーズを読もうと思った動機だったのですが、何をおいても議論・対話することが欠かせないのだというごくありきたりな結論が、どの本・アプローチからも導かれて、単に素朴なだけでなく、「あ、それでいいんだ」と素直に思えるようになったのは収穫でした。

グローバルジャスティスの話に限らず、やっぱり熟議・議論する継続的な場や機会をつくることはいつかやってみたいなぁ。

 

正義のアイデア

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正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 
正義への責任

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