暗い時代の人々(著:森まゆみ)を読みました

丸山真男の「日本の思想」を読んだときに、なぜこんなに文学と政治と科学の三社関係が出てくるのか解せず、「そんなもんなのかー」と思っていた時に書評で目にして読むことにした一冊。
満州事変(1930年)から太平洋戦争終結(1945年)までの最も精神が抑圧された時期に、「精神の自由」をかけて戦った9人の人々(斎藤隆夫山川菊栄、山本宣治、竹久夢二、久津見房子、斎藤雷太郎と立野正一、古在吉重、西村伊作)の足跡が描かれています。
日本近代史を普通に学ぶ中ではほとんど教わることのない、当時当局から取り締まりの対象となるような、権利の抑圧に抵抗する活動(共産主義、労働運動など)がどのような人たちによって担われ、また行われていたかを垣間見ることができました。

そして精神主義、科学主義、文学がどう絡まっていたか、そのとっかかりはつかめた気がします。

本書を読んで自分なりに理解したところでは、国粋主義は直接体験や実感をもとにする精神主義で、それに対抗したのが科学的とされていた唯物論に立つマルクス主義、文学はその間を揺れ動いていたようです。 
なぜ文学がここに登場するかというと、当時人々に考えを広げるためにはとにかく雑誌を作って配る(買ってもらう)しか手段がなかった。だから運動に携わる人たちは、みんな押しなべて雑誌を作っていました。
いきおい文章表現が中心になり、また検閲の目をくぐるための擬制もあったのでしょうか、文学が思想の表明の中心手段として用いられていたようです。

今でいうところのウェブメディアを作るようなものでしょうか。

しかし、雑誌とウェブメディアで大きく違いそうだと思うのは、雑誌は喫茶店やお店に配布し、そこに読み手が物理的に集まるのに対し、ウェブメディアではそうした読み手通しの出会いがないということ。

本書でも取り上げらえれている京都の喫茶フランソア(店主立野正一)や花やしき(山本宣治の実家)などのように、アジト的に集まれる場というのは、やはり何か新しいことを始めたり仕掛けたりするうえでとても大事な役割を果たしているんだなぁと感じました。

 

本書で取り上げられている中で特に強く印象に残ったのは、冒頭に取り上げられている「リベラルな保守主義者」斎藤隆夫氏。明治、大正、戦前、戦後を政治家として生き抜いた斎藤隆夫という人を恥ずかしながら本書で知りました。
氏が行った三大演説、普通選挙法成立に際しての普通選挙賛成演説、二・二六事件後に軍部の責任を問うた粛軍演説、日中戦争の終え方を時の政府に問うた反軍演説は、その頃の時代背景を鑑みるととても勇気ある行動です。
戦争当時、こういうステーツマンもいたということは、もっと教えられてもいいんじゃないでしょうか。

 

暗い時代の人々

暗い時代の人々

 

 

メノン(著:プラトン)を読みました

プラトンの対話編の一つ、メノンを読みました。

徳は教えられうるか?というメノンの問いに対し、ソクラテスはそもそも徳とは何か?を問い直し徳の定義を試みます。

自分が繰り出す定義をことごとく退けられ心が折れかけたメノンをソクラテスはこう言って励まします。

 

『ひとが何かを知らない場合に、それを探求しなければならないと思うほうが、知らないものは発見することもできなければ、探求すべきでないと思うよりも、われわれはすぐれた者になり、より勇気づけられて、なまけごころが少なくなるだろう』

 

しかしそれでも徳は教えられうるか?という問いにメノンが固執したため、ソクラテスは仮に教えられるものならば、という仮定に立って議論を進め、実際に教えられる人・教えられている人がいないので、徳は教えることができる知ではない、それは神に恵まれたよき思わくであると結論を下し、この対話編は結末を迎えます。

 

それと、本書の中で画期的なのは、「想起」という概念が出てきていることなんだそうです。

人間の魂は不死であり、われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、すでにあらゆるものを学んで知ってしまっている。
だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、じつは、「学ぶ」とか「探求する」とか呼ばれているものは、すでに獲得しながら忘れていた知識を思い起こすことに他ならない。
これはのちの「イデア」と「感覚的事物」の分離の萌芽なんだそうです。

すべて学んで生まれてくるというこの見方、最近どこかの子ども論で目にした気がしますが、原形はここにあったんですね。

 

すべて携えて産まれてきたはずの何かを思い起こす探求、ずっと続けていかなければ!

 

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)

 

 

クラウド時代の思考術(著:ウィリアムパウンドストーン)を読みました

邦題よりも英語の副題の方が本書の内容をよく表しています。
すなわち、簡単にググれる今の時代に物事を記憶することは大事なのだろうか??

知識を得るための努力が、知識を得たことで手に入る見返りより大きいという合理的な無知がありうる。
また脳は(調べられるからなどの理由で)それを必ずしも記憶しなくていいと判断したことは忘れるようにできている。
つまり些細な事実を覚えておくことは、インターネットがなかったころに比べて格段に不利な状況にあるといえる。

それでも、本書の結論としては、物事を自分の頭で記憶することは大事なんだそうです。

物事を自分の頭でたくさん覚えていればそれだけたくさんの物事周辺の文脈を捕まえることができて、これによって直観力と想像力が磨かれる。
それは自分が何を知らないかを理解する手助けになり、何を検索で調べればいいかを教えてくれる。
しかし自分が知らないことを理解していなければ、何を調べればいいのか/調べる必要があるのかさえ気づかない。
自分が何を知らないかを把握していない偏った世界認識が集合的に作用するとき、誤った社会的選択がなされてしまうこともある。

 

だからこそ、探求を続けること、学習を続けることは今もって大事なんだそうです。

 

それと興味深かったのが、十分な情報を得られていない人々が集まって社会的選択を行うとき(通常それが一般的なのだけれど)、その無知を補う方法として討議民主主義が挙げられていたこと。(この間読んだ「不平等を考える:政治理論入門」で目にしたばっかり!)
討議民主主義とは、社会構成を反映するような構成になるように参加者を選び、同じ情報を提供したうえで選択を討議させると(例えば自分たちのエネルギー源をどう構成するかなど)、長期的に見ても合理的な選択に落ち着くようになる、というようなもの。
学校教育の現場ではディベートが始まっていますが、すでに社会に出ていて社会的選択を行っている大人にこそ、こういう討議の場が必要なんじゃないかと思います。

本書でも指摘されていましたが、事前の条件を整えず(選ぶことについて判断の材料となる情報をよく与えらえれている、感情的な効果に重きを置いた煽りに流されない、など)投票権を行使することだけにこだわりすぎると、本当は社会にとって幸福じゃない選択がなされてしまうこともある。 

投票以外の時に何をするかこそが大事なんだなぁ。

 

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

 

 

保守とは何か(著:福田恆存、編:浜崎洋介)を読みました

福田恆存氏のまとまった一冊の本かと思ったらさにあらず。
いくつかの随筆をまとめた、短編集(?)的な書籍でした。

氏の保守観について直接言及しているのは、そのままズバリ、「私の保守主義観」というわずか5ページのごく短い小論。

いわく、保守とは、革新が自らの足下に広がり、自らが大事にしてきたものが脅かされていると感じるようになって立ち現れるもので、常に後手に回るものである。
改革の必要性の立証責任は革新にあり、そのため革新は主義を持っていなければならないが、保守にはその責任もないため、主義・イデオロギーを持つ必要などない。
保守派は改革の影響にせよ何にせよ将来の見通しを持たないものであり、積極的に先回りすべきではない。

 

現状のしきたりや掟に不満を持つ改革主義がまず立ち上がり、保守派は遅れてくるというのは、なるほどそうかもなぁと思いました。

それ以外のところについては、いわゆる政治的な保守論とは若干毛色が違っているように思います。

 

昨年「保守主義とは何か」(著:宇野重規)に始まり、日本の精神・思想のエッセンスは何だろう?という考察を続けてきました。今年の初めには神道の本を続けて読んでみたし、つい先日は丸山真男の「日本の思想」も読みました。

今改めてなんでこのテーマを追いかけてきたか振り返ってみると、日本が世界にある意味って何だろう?何をどういうやり方でやるのが、いや、むしろどういうあり方であるのが、日本自身にとっても世界にとってもハッピーなんだろう?ということについて、自分なりに答えを出したかったからだと思います。

Gゼロと言われる世界にあって、どう立ち位置をとるのか。
さすがにもう単純にキャッチアップするだけの目標を思い描くことも難しい。
(まだ日本の外側に比べればいくぶんましかもしれないけど)内外で社会の分断が広がっている。

いくら人口減に突入し縮んでいく傾向に入ってしまっているからといって、内側のことばかり考えていていいはずがない。
経済的には相当海外に依存しているわけだし。

自分の仕事に近い話で言えば、昨今右肩上がりと喧伝されているインバウンド旅行にしたって、これが今の世界の人に提供できる核心的な日本のバリューですというものに根ざした骨太で迫力のある内容のものは見出し切れていないように思うのです。

 

わずか半年ですが、渉猟の結果たどり着いた中間成果としては、過去の中にそのまま発掘してこられるような確固たる支柱はなさそうだな、ということ。
一方でヒントになりそうな財産としてはやはり思想的寛容性が高いということ。
これを異なる価値観・考え方・信仰の雑居に堕するにまかせず包摂性を高める方向に活かすことができれば、分断され断片化した世界・社会をブリッジし、ひとりひとり違うことがダイバーシティとして尊重される世界に近づけることに貢献できるんじゃないか?
そんな風に考えています。

それを実現するカギは、オープンであることと、直接のコミュニケーションを活発にすること。

うん、このあたりがこれからやるべきこと・やりたいことになっていくんだろうな。

 

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

 

 

不平等を考える:政治理論入門(著:齋藤純一)を読みました

確か日経新聞の書評で見かけたのが、本書を読もうとしたきっかけ。
たまたま都議選直前のタイミングで手に入り、タイムリーで面白かったです。

本書は3部構成になっています。

第一部では平等な関係とは何かについて色んな基準(機会の平等、結果の平等、運の平等、関係論的平等)を引きつつ検討しています。
あえて一言で言えば、共有する制度のもとで対等な市民として尊重されることが平等な関係、とされています。

ただし、この対等な市民としての尊重は、社会的・経済的格差が大きすぎると容易に損なわれる(社会・経済的なポジションが市民としての立場に影響する)とされ、それを是正する制度として、続く第二部で社会保障と平等の関係について考察されています。
社会・経済的不平等を社会保障によって抑制しなければならないのは、人びとがそれによって生きていくために他者の意思に依存しなければならないような状態に陥るのを避けるためとされていますが、特に「生の複数性」の考え方-食うや食わずやの状態を離れ自らの「善の構想」を追求できるようにすることが社会を豊かにする、という視点はとてもポジティブな捉え方だな、と思いました。
また社会保障制度のあり方についても考察されており、事後的対処と事前の支援を対比し、社会保障制度は人びとが社会的協働に参加していく際に対等な足場に立つために必要な事前の支援の方がより望ましいとされています。
個人的に刮目だったのは、個人の多様性を認める上でも、社会的包摂を考える上でも、さらにこれからますますリターンの大きい雇用口が減っていくことを踏まえても、社会的協働を、財を生産する賃金労働に限定せず、コミュニティの維持・再生のための活動や、排除や周辺化を防ぎ人々を社会につなぎとめようとする活動、国外で貧困に対処するための活動などについても正当に評価し、これに従事する人びとが安定した生活条件を得られるようにすることもまた、社会保障の役割と指摘されていることでした。

続く第三部では、こうした制度を市民が生み、維持・再編していく仕組みとしての民主主義と平等の関係について考察されています。

本書で一番読み応えがあったのがこの第三部で、投票者という立場にせよ立候補者という立場にせよ、選挙以外の手段・機会で、普通の人が制度をつくることにどう関わっていけばいいかのヒントが示されていたように思います。

筆者によれば民主主義とは多数決で押し切るための手段ではなく、少数者も同じく尊重されるべきと指摘します。それを具体的に実現するため必要なのが、ある政策や制度を支持するまたは支持しない理由を開示し検討することで、これによって多様な観点-もしかしたら今ここにはいない・参加できない主体の観点も含めてーを決定に反映できるようになるとしています。このプロセスは「熟議」と呼ばれ、「熟議」を経て蓄積されていく「理由のプール」が、将来にわたって政治的決定を方向づける政治文化を形成するのだそうです。
この熟議の機会をひらくことこそ、必ずしも特定の政策について支持・不支持を表明できるわけではない選挙とは違ったルートで、市民に制度の編者・作者としての役割を果たさせうるものだろうと思いました。

アプローチにおいては保守的な手段をこそ取るべき(理想やビジョンにおいてはアイデアリスティックであったとしても)というのが基本的なスタンスでありながら、こらえ性がない自分にはとても政治家はムリで、じゃあどうしたもんかねぇと思っていたのですが、この熟議の「場をひらく」というのであればこれまで経験がないわけでもなく、また好きなことでもあるので、無理せずできるかもしれないなぁと思っています。

コンパクトながら自分にとっていいヒントがいっぱい詰まった一冊でした。

 

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)

 

 

POWERS OF TWO二人で一人の天才(著:ジョシュア・ウルフ・シェンク)を読みました

「孤高の天才」というイメージは誤りであって、クリエイティビティやイノベーションは社会的つながりやネットワークから生まれる。最も分かりやすい例は二人組で、ビートルズしかり、アップルしかり、創造的な偉業は、相互補完的な二人組が成し遂げている。

具体的には二人組は6つのステップを踏む。

似ているけど違う二人が出会い(①)、信用・信頼を深め互いを自らの一部と感じて「私たち」が前面に出るようになり(②)、弁証法的な関係をもとに役割分担が決まり(③)、互いに相手が動きやすい十分な余地がある距離を保ち(④)、協力と競争を同時に繰り広げてさらなる高みに挑戦するが(⑤)、やがて互いの違いに耐えきれなくなったり外からくさびを打ち込まれたりするとお互いへの積極的関与の中断に至ることもある(しかし不可逆的な変化を遂げてしまった二人の関係は完全には消えてなくならない)(⑥)。

 

うまくいくペアの役割分担として「主演俳優と監督」「液体と容器」「夢想家と実務家」が挙げられていましたが、実体験で腹落ちして良く分かります。
監督で容器で実務家の自分は、主演俳優で液体で夢想家の相手と組むと、モノゴトがはかどるんだなぁ。

必ずしもペアだけではなく、うまくワークするチームの目安としても応用できるんじゃないかと思いました。

POWERS OF TWO 二人で一人の天才

POWERS OF TWO 二人で一人の天才

 

 

日本の思想(著:丸山真男)を読みました

多分「保守主義とは何か?」を読んだ時に言及されていた一冊。日本には保守すべき機軸が確立してこなかったという指摘を、思想面で論じている本だろうと思って読みました。

曰く、日本人の中で、思想は、古いものが新しいものと対決せず、雑然と同居してしまう。だから新しいものもすぐに受け入れるし、外的環境が変われば旧い思想が忽然と姿をあらわしたりもする。
唯一伝統らしいものといえば「思想的寛容性」であり、それゆえに一貫性を備えたそれだけに排他的ともなるイデオロギーや思想に対しては、アレルギーを持っている。

著者の神道の評価も面白かったです。

神道はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。

1957年に初出の論稿で、当時の時代背景を踏まえた立論(全体主義マルクス主義・政治と文学など)も多分に含んでいて必ずしも全てを消化しきれたわけではないですが、思想の雑居という伝統を脱し、せめて交雑した雑種を生み出すためにも、仲間内のタコ壺から出て「他者」とコミュニケーションしようとする強靭な自己統御力を具えた主体を自分たちが生み出さなければならない、という本文むすびの指摘は、(あいにく)今なお有効な箴言だと感じました。

 

 

 

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)