自民党ー「一強」の実像(著:中北浩爾)を読みました

タイトルこそ「自民党」と銘打たれていますが、単にひとつの政党の正体を暴くというような本ではなく、1990年代からの一連の政治改革の意味や、政策立案(という名の陳情処理)過程など、学校では教わってこなかった政治のリアルまでバランスよくカバーした一冊でした。

 

例えば、幹事長や政調会長など、新聞で党人事決定と目にして何気なく「そうか」と思っていたポジションが、それぞれどういう役職で、そこにその人が就くことがどういう意味を持つのか、ということを本書を読んで初めてちゃんと分かるようになりました。

また、つい都議会選前まで安倍一強と言われてきましたが、これは安倍総裁に帰することのできる属人的な要因もあるかもしれませんが、小選挙区制の導入(中選挙区より高い得票率を得られる顔役としての総裁の比重の増加)や政党助成金制度(派閥を通じた資金配分が難しくなった)など、一連の政治改革に対応していった結果党の集権化が進んだことの現われでもあったようです。

そしてその安倍総裁が首相に返り咲く時の基軸になったのが、地方組織を反抗の拠点とした民進党への対抗という戦略だったとのこと。こうして考えてみると、もちろん一連のスキャンダルもありましたが、悲しいかな仮想敵であった民進党が弱くなりすぎてあまりにも一人勝ちに見えてしまった結果「おごり」と言われるようになった部分もあったのではと思えてしまいます。

 

実は個人的にも一度自民党の「朝食勉強会」の末席の末席に座らせてもらったことがあったのですが、役所の人もたくさん詰めていて「ああ、こうやって政策の根回しがされているのか」と身をもって体験したことがありました。国会答弁案作りでの残業と合わせ、民主主義ってのは本当にコストがかかるんだな、と思ったのを覚えています。
それと同時に、三権分立って何だっけ??みたいな気持ち悪さもありました。
与党にこれだけの役人がブレーンというか、ぶら下がりというか、いずれにせよアウトプット受け取ると同時にインプットしていれば、それは野党より断然有利だろうなと。
国会の論戦って本当に意味ないんだなとも…。

これで思い当たりましたが、こういう慣性的な利害調整過程の原体験があるから、具体的な制度変更案と実施の戦略を持たずに政治プロセスの転換をスローガン的に掲げる勢力にはまず「ホンマかいな」と眉唾になってしまうみたいです。

 

 最近の選挙の動向は、見聞きしてうっすら想像していた通り、投票率が低いときに固定票が厚い自民党が有利になり、投票率が高い時には無党派層の風が吹いて追い風にも向かい風にもなる。固定票の中でも強いのは世襲議員の地元後援会と創価学会の票とのこと。
そういう環境下で広くて薄い利益の実現を求めるにはよっぽど強い風を吹かせるしかないんでしょうかねぇ…。

 

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

 

 

人々の声が響き合うときー熟議空間と民主主義(著:ジェイムズ・S・フィシュキン)を読みました

齋藤純一氏著の「不平等を考える」 で見かけた「熟議民主主義」の親玉っぽい本と目して手に取った一冊でした。

現実の政治に自らが及ぼせる影響がほぼないと考えられるとき、政治的イシューに関心を寄せ情報収集したり考察したりする苦労はどうせ報われないから何もしないという「合理的無知」や、本質的な政策の比較ではなく候補者への個人攻撃や人々の感情を動かそうとする「説得産業による印象操作」があるとき、単純な投票では真の民意は諮れない。

実際の社会構成を反映した、参加者一人一人が自分の声が尊重されると感じられるぐらいの小グループで、公平な情報を与えらえれかつ偏りのないファシリテーションにより討議を行った場合にこそ、本当に人々が望む声を見出すことができる。それを実現するのが討論型世論調査であり、熟議民主主義である。

というのが著者の主な主張です。

 

この主張を裏付けるため、民主主義の形態として、競争的民主主義、エリートによる熟議、参加民主主義、熟議民主主義の4形態を挙げ、民主主義が叶えるべき4つの価値、政治的平等、政治参加、熟議、非専制、を各形態がどう満たすかの比較考察も行われていました。

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民主主義についてこういう整理がされているものを目にしたのは初めてでしたし、政治的平等、政治参加、熟議の3つを同時に満たすことはできないというトリレンマの存在も初めて知りました。
なので、この整理と評価がどのくらい標準的(もしくは熟議民主主義びいき)であるのか、もっと他の立場からの考察も含めて相対化する必要があるなと考えています。

 

一方で本書を手に取ったおおもとの関心、多様な視点を含んだ「理由のプール」を蓄積する手段としての「熟議」とは?というところに立ち返って考えてみると、「熟議」の質を閉示す5つの指標ー情報・実質的バランス・多様性・誠実性・考慮の平等ーは、実際何に気を付けて「熟議」の場を設定・運営しなければならないか考えるうえで参考になりました。
他方「熟議」の結果をフォーマルな政治プロセスに直接反映させようとすると、かなり大がかり(参加者を全国から一か所に集め、謝金も払って泊まり込みで議論させる)な仕組みが必要となるようで、あまり現実的ではないように思いました。
ここはフォーマルな政治プロセスへの接続にこだわりすぎず、「熟議」の結果を発信・見える化することで「理由のプール」を貯めていくという齋藤氏の見立ての方が現実性がありそうです。

 

バイオやAIなど先端的な技術をめぐる規制を定めるためだったり、セクシャルマイノリティー・認知症当事者・相対的貧困下にある家庭や子どもなど当事者の意思を実際の制度や慣行の変革に活かすためだったり、はたまた憲法改正のような自分たちに大きく影響する政治的判断だったり、代表を選ぶための選挙だけでは真の民意を汲み取れず、かといって生の意見を問う直接投票をするだけでは乱暴で、「熟議」が求められる場面は少なからずあると感じています。
これをカジュアルに、でも実質を伴うように開けるようになれたらワクワク刺激的だろうなぁと妄想してしまうのでした。

 

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義

人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義

 

 

生活保障ー排除しない社会へ(著:宮本太郎)、共生保障ー<支え合い>の戦略(著:宮本太郎)を読みました

齋藤純一さんの「不平等を考える」で言及されていたことがきっかけで読み始めた2冊。

 

夫が働き妻が家族のケアをするといういわゆる標準家庭を前提に、各種補助金や公共事業など主に供給サイドへのテコ入れで経済成長と雇用の確保、さらには企業内での人材育成を賄うことで「支える側」を作り、そこから外れ困窮する人たちを属性ごとに絞り込むことで「支える側」を支えるという形で整えられてきたのが日本の社会保障制度の特徴でした。
しかしこの社会保障制度が、未婚化、高齢化、グローバル化、雇用の劣化などの環境変化により機能不全に陥っており、制度の間に落ちてしまったり、困難が複合化することで十分な社会保障が受けられなくなっているのが現状だそうです。

この環境変化に対応するため著者が必要と指摘しているのが、「支える側」・「支えられる側」という二分法や福祉と雇用の断絶を乗り越え、支え合いへの参加をひろく促すことと指摘しています。

これを端的に概念図として示しているのが下記のもの。

支え合いへの参加の機会として「雇用」と、生きる場である「居住・コミュニティ」があり、そこを一時離脱しなければならないような周囲の要因があっても、再びこの支え合いに戻ってこられるような、出入りができる施策が求められるとしています。

 

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Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの詳細な内容や、すでに地域で実践されている例(藤里町社会福祉協議会NPO法人ふるさとの会、社会福祉法人生活クラブ風の村、弘前市富士宮市鹿児島市ナガヤタワー、シェア金沢など)は本書に譲るとして、感じたことを3点ほど。

 

1点目は、住宅の問題は大きいのだな、ということ。
たまたま並行して読んでいた都市における住宅サービスをめぐる政治の論考でも指摘されていましたが、日本では新築住宅を購入することへの動機づけが制度的に(多分文化的にも)強く、住まいを得ること・住まうことが極めて個人的な選択とみなされている傾向があるんじゃないでしょうか。
それが良質な賃貸住宅の供給や中古住宅の流通を妨げ、基本的なニーズである住まうことのコストを非常に高くしているし、同時に地域的な連帯、社会関係資本の蓄積の妨げとなり、困窮世帯の孤立化を招きやすくしていると思います。

 

2点目は、これはもう社会契約を新しく結びなおすくらいのつもりでやらなければ、実現しえないのではないか、ということ。

上記の住宅の件もそうですが、今まで量の差はあれ企業を通じて提供されてきた住宅や家族扶養にかかる手当をもはや企業が支給しえなくなっている現状を踏まえれば、こういった基本的なニーズを自力で満たせない場合には公的な制度で手当を支給する必要があると思います。

また社会保障や福祉へのニーズが社会全体に広がっているという見方にもとづき、選別主義から普遍主義への移行が模索されてきたそうですが、これはまさに今の時代に必要とされているアプローチです。
すなわち、LIFE SHIFTにも著されている通り、人生100年時代を迎え、「強い個人」として「支える側」であり続けるためにも、意識的に、一時的に、働くことの第一線から離れ、じっくりトレーニングを受けたり、自分が進みたい道について落ち着いて考える時間をとることが必要になってくるんじゃないかと思います。でも実際は、一時的に(あるいはその後好条件の仕事につけなければ恒久的に)収入が落ち込むことを懸念して、働くことを休めない。そうするとどこかで自分の働き手としての劣化が著しくなり、働きたくても働けない状況に追い込まれてしまう。
高齢化に伴う介護への従事の必要性や自らの病気の発症、グローバル化とテクノロジーの加速的進化による経済競争の激化(による失業)など、起きてしまった困難への事後的対処という意味もさることながら、社会保障や福祉は、今働き手として活躍している人たちにとっても、これからも積極的な役割を果たし続けるために必要になってきているのだと思います。

これらを実現するためには、当然今よりさらに大きな財源が必要になるのですが、追加的な負担への抵抗感がとても大きい。

これまでは、とりあえず真面目に働くから、そこからこぼれた人たちへの対応はよしなにやっておいてよ、でやってこれたかもしれません。 
でも上記の通り、社会保障や福祉はどこか別のあっち側の人たちだけのものではなく、今は一見遠いところにいるように感じている人たちにとっても、実はすぐ隣にあるべきものになってきているのが現実なのではないでしょうか。同じ制度の下にいる者として、自分たちが必要としている権利・義務関係が大きく変わってきているのだと思います。

著者である宮本太郎氏は政府の審議会の座長等も務められた方で、こういう主張を持った人が中にいてもこれだけ制度変革は進まないということは、制度の受益者であり同時に法の編者でもある自分たち一人一人の発想がよほど大きく変わらないと 変革も実現しなさそうだなぁと感じました。

 

3点目は、共生社会でも目指されているアクティベーションや社会的包摂を実際に実現できたとすれば、それは日本の大きな世界への貢献にもつなげられるかもしれないということです。
違いを違いとして認め、ないものではなくあるものに目を向け、本人の意思を尊重しながら多様な形で社会への参加の機会を開いていくというのが、アクティベーション・社会的包摂の根底にある姿勢だと理解しています。これは、高齢者や障碍者のみならず、ありとあらゆるマイノリティとされる人たちも含むダイバーシティを容れた社会と極めて親和性が高い姿勢だと思います。
テロに走ってしまう人たちや、移動先の社会になじめない難民・移民の人たち、自分たちは取り残されたその他大勢だと感じているような、周縁化されていると感じている人たちにどう社会参加の道を開いていくかというのは、グローバルにも緊急性が高い課題だと思うのです。
もし日本でダイバーシティを容れつつ社会的包摂を実現するような社会保障も含む制度が実現できたら、それは世界にとっても何らか示唆を与えうるようなものになるのではないかと思います。

 

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

 

  

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

 

 

2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方(著:藤野貴教)を読みました

読後の感想は一言「やはり」である。
何がって、やはり自分は彼に、彼の本拠地・幡豆で会いたい。
どういう道のりでここにたどり着いたのか。
ここからどこに向かおうという「意思」をもっているのか。


もともと面白そうなことやっているな、というのはSNSで見て感じていました。

しかし本書の端々から垣間見える彼の視線には、僭越ながら感覚的に近しいものを感じたし(例えば、お金になりやすいことと引き換えに、自分の中の大切なもの、時間・自由・感情を犠牲にしているのかもという一節とか)、さらには実は一番取り組みたいのが「子どもの教育の未来を創る」ことというのを読んで、これはもう、と思うに至ったのであります。

 

頭に思い浮かぶ話したい・聞きたいことも多々あります。
本書の肝であるこの図は『Powers of Two』と読み合わせると二人が組み合わさって達成されるのでもいいんじゃないかとか、

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なんでこの二人がつながってないんだろうっていう将来教育のことをやりたいけど今職業的には人材育成・研修を仕事にしている自分のソウルメイトの話とか、問いを立てるAIって本当に作れないんだろうかとか。

でもそれとは別に、気持ちの部分で彼の世界(観)を体感してみたいという好奇心がムクムク湧くし、きっとそれは自分にとって他では得がたい異化体験になるんじゃないかという予感もびんびんする、というのが大きいです。

 

じゃ果たして逆に自分が返せるものがあるんだろうか?というのが不安ではあるのですが、気持ちを持っていれば、機会はいつか来るべき時にやってくると思っているので、その時にちゃんとキャッチできるようにアンテナをオンにしておかなくっちゃと。

 

ちなみに、本の内容は、AIが当たり前になっていく世の中で、AIと人間がそれぞれどんな仕事に向いていてどう協働することがハッピーかを、ロールモデルとなる方たちの例も引きながらわかりやすく示してくれています。

AIの最新の動向もよくまとまっているし、読みやすいので、ぜひ読んでみてください!

 

2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方

2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方

 

 

「接続性」の地政学(著:パラグ・カンナ)を読みました

本書での著者パラグ・カンナの主だった主張を要約するとこんな感じになります。


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21世紀、これからの世界中の人々の繁栄は、サプライチェーンにかかっている。
メガシティを含む都市が基本的な経済の単位になり、外部への開放性・他の都市との接続性が地政学的な重要性を増していく。

そこでは国境はサプライチェーンの流れを阻害する要因になりかねない。
政治的な軋轢があるようなら、主権国家はどんどん小さく分割していけばいい。
政治的に落ち着けば、経済活動がスムーズになり、小さすぎる国家は国を開放して接続性を高めようとするだろう。
(EUに加盟した東欧諸国や、東ティモールのように)
政治的な国境を無理に守り続けることは高価につく。
紛争を解決し、しばしばその原因となる貧困を緩和し、そのままでは周縁化されかねない人々に社会参加と雇用の機会を提供するには、経済的な接続性を高めサプライチェーンに参加できるような施策が必要である。

 

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著者は上記のことを、中国の一帯一路構想をはじめとする各国へのインフラ建設支援や、中東~ヨーロッパに至る様々なパイプライン敷設など様々な具体例を挙げつつ説明しています。

特に中国の動きは本当にたくさん取り上げられていて、中国の視点から世界をどう見ているか、何を戦略的な目標に据えているのか、を垣間見ることができます。
例えば中国が南シナ海の資源開発に固執し、ミャンマーを抜けてインド洋に至るアクセスのためにインフラを建設し、はたまた陸上でシルクロードの復活を目指すのは、ひとえに化石燃料資源の多くをボトルネックであるマラッカ海峡を通して輸入し続けることのリスクを低減したいからである、というように。

 

日本の外交、特にODAも、長らくインフラ重視で展開されてきていたのですが、一時ソフト重視の風潮に流され、折からの予算縮減と合わさって、右肩上がりに対外投資・対外支援を増やしていった中国に全く追いつけなくなってしまいました。

国レベルであれ自治体や都市レベルであれ、経済的な活力を維持しそこに暮らす人々の雇用・生活を守るため、限られた資源を有効に投資するにはそれが「接続性」の向上に寄与するかどうかがひとつの判断基準になるのではないかと思います。

 

もはやグローバリゼーションの流れが逆行することは考えられなくなった今、何を戦略的な目標に据えればいいのかの指針を示している一冊でした。

 

「接続性」の地政学 上: グローバリズムの先にある世界

「接続性」の地政学 上: グローバリズムの先にある世界

 

 

「接続性」の地政学 下: グローバリズムの先にある世界

「接続性」の地政学 下: グローバリズムの先にある世界

 

 

暗い時代の人々(著:森まゆみ)を読みました

丸山真男の「日本の思想」を読んだときに、なぜこんなに文学と政治と科学の三社関係が出てくるのか解せず、「そんなもんなのかー」と思っていた時に書評で目にして読むことにした一冊。
満州事変(1930年)から太平洋戦争終結(1945年)までの最も精神が抑圧された時期に、「精神の自由」をかけて戦った9人の人々(斎藤隆夫山川菊栄、山本宣治、竹久夢二、久津見房子、斎藤雷太郎と立野正一、古在吉重、西村伊作)の足跡が描かれています。
日本近代史を普通に学ぶ中ではほとんど教わることのない、当時当局から取り締まりの対象となるような、権利の抑圧に抵抗する活動(共産主義、労働運動など)がどのような人たちによって担われ、また行われていたかを垣間見ることができました。

そして精神主義、科学主義、文学がどう絡まっていたか、そのとっかかりはつかめた気がします。

本書を読んで自分なりに理解したところでは、国粋主義は直接体験や実感をもとにする精神主義で、それに対抗したのが科学的とされていた唯物論に立つマルクス主義、文学はその間を揺れ動いていたようです。 
なぜ文学がここに登場するかというと、当時人々に考えを広げるためにはとにかく雑誌を作って配る(買ってもらう)しか手段がなかった。だから運動に携わる人たちは、みんな押しなべて雑誌を作っていました。
いきおい文章表現が中心になり、また検閲の目をくぐるための擬制もあったのでしょうか、文学が思想の表明の中心手段として用いられていたようです。

今でいうところのウェブメディアを作るようなものでしょうか。

しかし、雑誌とウェブメディアで大きく違いそうだと思うのは、雑誌は喫茶店やお店に配布し、そこに読み手が物理的に集まるのに対し、ウェブメディアではそうした読み手通しの出会いがないということ。

本書でも取り上げらえれている京都の喫茶フランソア(店主立野正一)や花やしき(山本宣治の実家)などのように、アジト的に集まれる場というのは、やはり何か新しいことを始めたり仕掛けたりするうえでとても大事な役割を果たしているんだなぁと感じました。

 

本書で取り上げられている中で特に強く印象に残ったのは、冒頭に取り上げられている「リベラルな保守主義者」斎藤隆夫氏。明治、大正、戦前、戦後を政治家として生き抜いた斎藤隆夫という人を恥ずかしながら本書で知りました。
氏が行った三大演説、普通選挙法成立に際しての普通選挙賛成演説、二・二六事件後に軍部の責任を問うた粛軍演説、日中戦争の終え方を時の政府に問うた反軍演説は、その頃の時代背景を鑑みるととても勇気ある行動です。
戦争当時、こういうステーツマンもいたということは、もっと教えられてもいいんじゃないでしょうか。

 

暗い時代の人々

暗い時代の人々

 

 

メノン(著:プラトン)を読みました

プラトンの対話編の一つ、メノンを読みました。

徳は教えられうるか?というメノンの問いに対し、ソクラテスはそもそも徳とは何か?を問い直し徳の定義を試みます。

自分が繰り出す定義をことごとく退けられ心が折れかけたメノンをソクラテスはこう言って励まします。

 

『ひとが何かを知らない場合に、それを探求しなければならないと思うほうが、知らないものは発見することもできなければ、探求すべきでないと思うよりも、われわれはすぐれた者になり、より勇気づけられて、なまけごころが少なくなるだろう』

 

しかしそれでも徳は教えられうるか?という問いにメノンが固執したため、ソクラテスは仮に教えられるものならば、という仮定に立って議論を進め、実際に教えられる人・教えられている人がいないので、徳は教えることができる知ではない、それは神に恵まれたよき思わくであると結論を下し、この対話編は結末を迎えます。

 

それと、本書の中で画期的なのは、「想起」という概念が出てきていることなんだそうです。

人間の魂は不死であり、われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、すでにあらゆるものを学んで知ってしまっている。
だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、じつは、「学ぶ」とか「探求する」とか呼ばれているものは、すでに獲得しながら忘れていた知識を思い起こすことに他ならない。
これはのちの「イデア」と「感覚的事物」の分離の萌芽なんだそうです。

すべて学んで生まれてくるというこの見方、最近どこかの子ども論で目にした気がしますが、原形はここにあったんですね。

 

すべて携えて産まれてきたはずの何かを思い起こす探求、ずっと続けていかなければ!

 

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)