わたしが正義について語るなら(著:やなせたかし)を読みました

ご存知アンパンマンの作者、やなせたかしさんの著作。

ポップなメロディーでなにげなく口ずさめてしまう「アンパンマンのマーチ」ですが、メロディーを外した歌詞だけ取り出してみると、結構厳しい問いを突きつけています。

 

なんのために生まれて なにをして生きるのか

答えられないなんて そんなのはいやだ!

 

なにが君のしあわせ?なにをしてよろこぶ?

わからいまま終わる そんなのはいやだ!

 

という歌詞を書いたやなせさんの正義についての話なので、どんな内容かしら?と興味を持ったのがきっかけ。 

ご自身の生い立ちや太平洋戦争の従軍経験を踏まえ、やなせさんが考える正義とその実践方法について述べられていました。

・100%の正義も100%の悪もない。正義は反転する。反転しない正義は貢献と愛だけ。

・やなせさん自身にとっては子どもを飢餓から救うことが一番の正義。

・正義の実践には痛みを伴う。

・正義はそれぞれが自分のやり方・得意な方法で実践すればいい。ただし得意なことを活かすにはそれを一途にやることと、他にもうひとつ武器を持つといい。

・まずは身の回り10人を幸せにする。それが積み重なると全体がよくなる。

 

正義についての内容もさることながら、一番驚いたのは、やなせさんの仕事の幅広さ。
てっきりずっと絵本作家をされていたのだろうと思っていましたが、もともとはマンガ家志望でいらしたそう。
マンガの連載をされていた時期もあったそうですが、ときに舞台演出をされたり、手塚治虫のキャラクターデザインをしたり、テレビで漫画の描き方を説明する役で出演したり、詩とメルヘンを集めた雑誌を発刊されたり。そしてアンパンマンの絵本を初めて世に出されたのは54歳のときだったんですって。
本書にも『虚仮(こけ)の一念』という言葉が出てきましたが、目の前に来た仕事を一途にやり続けることが運をつかむことにつながるんだなぁと改めて実感させられました。

焦らず、たゆまず、しなやかに続けていけば、アンパンマンほどの特大ホームランは打てなくとも、外野に抜ける単打ぐらいは打てるようになるかなぁ、余白を拡げる世界で。

 

アート×テクノロジーの時代 社会を変革するクリエイティブ・ビジネス(著:宮津大輔)を読みました

チームラボ、タクラム、ライゾマティクス、 ザ・ユージーン・スタジオという最先端技術を駆使してアート表現を生み出している4社がなぜそれほどまでに注目を集める作品を世に送り出すことができるのか、それぞれの作品制作の過程や、発想の仕方、組織運営方法面から分析した一冊。

 

チームラボって改めてすごい集団ですね。
「世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う」が伊藤若沖の“枡目描き”をモチーフにしつつその手法をデジタイズしている例が紹介されていましたが、日本の古くからの文化と最新技術を融合させてクリエイティブを生み出していて、世界で評価される作品は目新しいだけじゃなく、やっぱり表現に奥深さがあるんだなと改めて感心。
ただ何せ現物を未体験なので、直近の機会があったら絶対体験しに行こう。

 

それと、本書内でタクラムのプロブレム・リフレーミング(課題そのものの枠組みを問い直すことで、その本質に迫る)や、ザ・ユージーン・スタジオの「一般車の死」の予言などが取り上げられていましたが、課題解決型の“デザイン思考”の対極にある課題提起型の“スペキュラティブ・デザイン”の実践方法を垣間見ることができて刺激的です。

あいにく自分は芸術作品・インスタレーションとして提示する表現手段を今のところ持ち合わせていないのですが、こういう「そもそも」の問い直しは好きなほう。きっと延々飽きずにやることもできる。
いつか何らかの形で「これはそのつもりでやりました」って言えるプロジェクトをやりたいなぁ。

 

 

引き裂かれた道路ーエルサレムの「神の道」で起きた本当のこと(著:ディーオン・ニッセンバウム)を読みました

エルサレムに4年間駐在したウォールストリートジャーナル記者の著者が描いた、かつて東西エルサレムを分けていたアブトル地区・アサエル通り沿いに住む「普通の」人々の暮らしの様子。 

 

アサエル通りを挟んで、西側にはユダヤ系の人々が、東側にはアラブ系の人々が住んでいた。ひとくちにユダヤ系、アラブ系といっても、2陣営に真っ二つに分かれるわけではない。ユダヤ系の中には、中東の各国からイスラエルに移住してきた、アラブ系イスラエル人もいる。

イスラエルユダヤ人の国である」という国家のアイデンティティゆえに、アラブ系住民への差別的待遇を受けることもある中、ユダヤ系・アラブ系どちらの住民もそのことに多様な意見を持っていて、ユダヤ系住民の中にも待遇の差を認め正すべきと考える人もいれば、アラブ系住民の中にも一定の生活インフラや行政サービスが提供されることを評価する人もいる(特にパレスチナ自治機構に比べて)。

 

民族や宗教でひとくくりにせず、そういう機微を含んだ双方の住民たちの葛藤や交流が偏りなく描写されていて、とっても興味深い本でした。

ありきたりですが、「うぉ、エルサレムの現実ってこうなんだ!」と。

銃声が響いていたり、車が突っ込んだり、暴力と隣り合わせの緊張を強いられる一方、道の東西またいでのご近所付き合いや、共存に向けたコミュニティ活動も展開される。

親はやはりというか、もちろんというか、「無事今日帰ってくるだろうか」とっても心配しながら子どもを学校に送り出す。

 

ニュースではセンセーショナルな映像しか飛び込んでこないけれども、多くの普通の人たちは普通の暮らしを続けていけることを願っている。

ユダヤ系・アラブ系両陣営間の緊張が高まるのは、そういう日常の営みとは別の次元で始まることなのに、お互いの「普通」が何か、普段から交換していなければ、日常の生活の中にも猜疑が入りこみ大きくなっていってしまう。

近くにいるだけ、というのは、問題を大きくややこしくしかねなくって、近くにいるほど互いのことを知り合う機会が大切なんだなと思いました。

 

あと、本書で嬉しかったのは、アラブ系・ユダヤ系住民の相互理解促進のため、両方の子どもたちが合同で合唱団を作っていたのですが、その合唱団が日本へリサイタルしに行ったと触れられていたこと。
どこがかは分かりませんが、きっとどこか招聘元が日本にあったに違いない。
いいことやってるなーって、うれしくなりました。

 

引き裂かれた道路: エルサレムの「神の道」で起きた本当のこと

引き裂かれた道路: エルサレムの「神の道」で起きた本当のこと

 

 

プラチナタウン(著:楡周平)、和僑(著:楡周平)を読みました 

東北のとある町を舞台にした地域再生の物語。

商社で穀物取引部門の部長を務めていた主人公が、あるきっかけで故郷の町の町長に就任し、財政再建団体転落目前の町を再生していく。

1冊目プラチナタウンでは、リタイア直後の人々をターゲットに、リタイア後の生活を送るための「プラチナタウン」を築くことで、住民増と雇用増(おもに介護職)、地元農商業の再興を図る。

2冊目和僑では、老人さえ減りゆく将来に向けての次の一手として、地元農産品やそれを使った「日本食」(といってもB級グルメ)の海外輸出・展開を打ち出す。

 

小説なので調子よく進むなぁという箇所はまれにありますが、「はぁ、実際ありそうだよね」というディテールが、いろんなところに散りばめられています。商社の中の様子とか、町議会とか、箱物づくりとか。

あくまで架空の話という前提のもとですが、「地方のお作法」を窺い知る参考文献としてさらっと読むのにはいいんではないかと思いました。

 

プラチナタウン

プラチナタウン

 

 

和僑

和僑

 

 

団地の話(編:東京R不動産)を読みました

社会保障政策としての賃貸集合住宅」という概念がうっすら頭に残っていている時に、図書館の特集コーナーで団地×東京R不動産というワードに出くわし完全に「ジャケ借り」した一冊。

 

ちっちゃい本の中に、詩あり、小説あり、対談あり、写真集あり、団地をめぐる様々な表象が詰め込まれたシャレオツな本でした。個人的に一番素敵な作品と思ったのは松田青子さんの二人のユキという女性が登場する小説でした。

 

団地暮らしのイメージアップ作戦の一環としてたぶん作られたんだろうなぁとゲスな勘繰りですが、その目的は十分に果たしていると思います。

 

団地のはなし 彼女と団地の8つの物語

団地のはなし 彼女と団地の8つの物語

 

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう(著:ジャン・ガブリエルガナシア)を読みました

日経の書評で見つけて読んだ本。
タイトル(邦題)は、若干盛ってる感がします。どちらかというと原題のThe myth of the sinularityの方が内容をよく表していて、人工知能の真実というよりシンギュラリティ論の「神話性」を指摘した一冊です。

 

著者曰く、シンギュラリティ論は、ムーアの法則という観察された事実をあたかも普遍的な原理であるかのように拡大解釈・適用しており、他シナリオとの比較衡量や科学的な根拠を欠く物語=神話にすぎないと切って捨てます。

人工知能は、本来的にモデル化可能な特定目的型の道具であるにも関わらず、シンギュラリティ論や汎用人工知能・強いAIの到来を吹聴する人たちは、人工知能という言葉・外観はそのままに現実性の高くない内容に換骨奪胎しようとしている、と批判します。

 

ここまではふむふむ、そうかもな、と思える分析・批判なのですが、その先、人工知能の開発に携わるITのメジャーたち、GoogleAppleFacebookAmazon、がなぜ自ら開発を進めるAIの暴走に懸念を示す動きをするかについての分析あたりから、若干くもゆきがあやしくなってきました。

これらGAFAは、自らの責任は回避しつつ強いAIの出現は不可避であると人々に信じさせようとしており、データを囲い込むことによって政府に代わり人々を支配しようとしている、というのが著者の主張です。

 

ここまで話が行ってしまうと、それこそ科学的根拠を欠いた「まぁ、そういうシナリオも可能性ゼロではないわな」というレベルの話になってしまい、シンギュラリティ論と同じ穴のムジナになってしまっているなぁ、というのが率直な感想です。

 

今度は過去のブームとは違うといわれる人工知能・AIの先行きについては、いろんな可能性・パターンがまだオープンに存在しているというのが現状だと思っています。

何かに極端に振れているシナリオが出てきたときに、それは一方の端のシナリオだとバランスとった見方ができるよう、いろんなパターンの考察を入れておくという意味で、本書も相対的な意味がある一冊なのだと思いました。

 

そろそろ、人工知能の真実を話そう

そろそろ、人工知能の真実を話そう

 

 

ヒルビリー・エレジー(著:J.D.ヴァンス)を読みました

自身その出身である著者が、自らの半生を振り返ることを通してつづった、アメリカ東部アパラチア山脈沿い一帯に暮らす白人労働者階級の暮らしぶり・価値観・文化的背景の自伝的ルポ。

 

祖母・祖父や姉・叔母など親類に守られ自身は最終的にイエール大学法科大学院を卒業し法曹界で安定した職を得た著者は、大規模製造業の生産拠点が立地することにある意味「乗っかって」中流の生活を手に入れられた時代が過ぎてしまったにも関わらず、自分たちの職業選択(の好み)を変えようとせず、また必要な努力もせず、結果的に繁栄から取り残されてしまった白人労働者階級の悲哀に寄り添いつつも、変わるべきところはあると冷静に指摘している。

 

しかし、本書に描かれたような、失業―薬物・アルコール等への依存症―家庭の崩壊ー貧困という、絵に描いたような貧困の連鎖が繰り返され、著者自身も分析しているような「学習性無力感」が階層的に蔓延しているとしたら(実際しているようだが)本当に悲劇的である。
自身の経験も踏まえて、安定した保護者の存在や、社会関係資本の有無が、子どもの将来を大きく左右していると指摘しているが、いずれも社会階層を固定化し、格差を拡大する方向に作用している。

だから、ヒルビリーにとって、よくよく主張を聞けばとてもまっとうなリベラルであるはずのオバマ前大統領は、もはや自分たちに味方しない、むしろ自分たちの転落を正当化する「実力主義」の世界の成功者で、いちいちもっともなことを言われて逆に腹が立つ存在になってしまう。
それに対して長期的に見れば自分たちの利益を損ないかねない、一見分かりやすい空証文を繰り出すトランプには支持を表明する。

 

なんで昨年大統領選でこんな結果になったのかー100の論説を読むより本書を読んだ方がよっぽど腹落ちして得心がいきました。

自身もその出身であるところのヒルビリーの人たちとその直面する現実に対して捧らえれた、まさに哀歌=エレジーでした。

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち