”お金”について考える本を読みました

直接の引き金はたまたま入った本屋でたまたま手にしたBrutusの「親・お金の、答え。」がぴったりきたことがきっかけですが、いわゆる”法定通貨”を価値貯蔵・交換手段として求め続けることが今後果たしてどこまで有効なのだろうか?というのはずっとモヤモヤ考えていることで、それもあってこのタイミングでこの2冊を読んでみました。

 特に「人の表現が取り交わされる場所」を育んでいきたいと考えている今日この頃、対価としてお金がふさわしいのか?額が十分ならいいのか?十分な額がもらえるだけの対価性を持たない表現は受け取られることすらないのか?みたいなことも気になっていて、なおのこと手段としてのお金を相対化してみたい機運も高まっていたと思います。

 

一冊は有名な西国分寺のクルミドコーヒー店主の影山知明さんの「ゆっくり、いそげ-カフェからはじめる人を手段化しない経済」。

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

 

 

もう一冊は山口揚平さんの「新しい時代のお金の教科書」。  

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

 

 

「お金の教科書」の方は、その名の通り貨幣論的な観点からお金の過去・現在・未来を論じたもので、「ゆっくり、いそげ」の方は、ご自身のカフェ経営の経験を踏まえつつお金一辺倒にしない交換の豊かさや、それがまわりまわってお金の周りもよくする、ということを論じておられました。

 

詳細はそれぞれの本に譲るとして、二冊共通して主張されていることがあったのが印象的でした。それは、

  • お金には文脈をそぎ落とし、無機質化する働きがある
  • モノがありふれた今後は、時間やコミットメントが価値の源泉になる
  • 身元が分かる中での直接交換が意味を持つようになる

というあたりのポイントです。

 

つまり、影山さんの場合は特定多数というつながりの中で、山口さんの場合はブロックチェーンという技術のおかげで、という違いはあれど、ある人が時間を費やしコミットして何かをしたことが有名性をもって評価され信用や価値を生むことになると見ていらっしゃることは共通していました。

 

でも、「そうか、じゃあこれからはお金に代わって信用や評価を稼げばいいのか」、というと、どうもそうでもないように思います。(特に影山さんの方はそのように主張されているわけではありません。)

お金に代わって信用や評価を稼がなければいけないような世の中は、ある意味お金を稼がなければならない(とされている)今より息苦しく生きづらいディストピアになってしまいそうです。

 

そういうことではなくって、お金を介しない交換や、お金を介すにしても厳密に対価性を求めない交換の機会がもっと増えていい、ということがちょうどよい案配なのではないかなぁと思います。
(これを影山さんは call & responseや応答と呼ばれているのかもしれません。)

特にこれを特定多数の中でやろうとする場合、それは小さな経済圏をお金を厳密な交換手段としないで作る、ということになりそうです。

山口さんの本で紹介されていたお金の起源-決まった場所にものを置いては、前にそこに置いた人のものを取っていくやりとりを記録するという記帳のシステムが、今のこの時代でも実際に稼働するような時間・空間を試しに作ってみることや、会費制の小売店というのも、同列な取り組みとしてとらえられるのではないでしょうか。

 

このお題、テーマがテーマだけに考える視角が様々にありそうです。この続きは、評価経済や監視(もしかしたら贈与や表現も)などの本を読んでからまた改めて考えてみたいと思います。

 

アメリカ大都市の生と死(著:ジェイン・ジェイコブズ)を読みました

創造都市の本を何冊か読むと必ず言及されていた本書。やっと読むことができました。

 

より人間的で活気のある都市空間を守ろうと、市民活動家として画一的な当局の都市開発と渡り合ってきた経験もふまえ、都市開発は何を目指しいかに進められるべきかを論じた一冊です。

 

本書を読むにあたっては、訳者山形浩生さんの解説がとても参考になりました。
それは本書が書かれた当時のアメリカにおける大都市の状況と、もともとが活動家である著者が書いた内容の性質・カバーしうる射程についての解説です。

 

著者は、本書を大都市において人々が次々郊外に転出していき中心地の空洞化・スラム化が進んだ1950年代を経た当時(1961年発刊)の文脈だからこそ妥当する内容というつもりで著したのであって、いつでも・どこでも適用可能な理論を打ち出すつもりではありませんでした。(本文中で著者自身も触れています。)
そうした成り立ち・著者自身のバックグラウンドからして、著者自身が居住・活動していたニューヨークのグリニッジ・ビレッジやその他いくつかの都市についての観察や考察に基づき、経験的に書かれているものでもあります。
そのため、今ある現実に対処して何かをしようとしたとき、本書からストレートに処方箋を導くことは実務的に難しく(具体的なサイズ感やターゲット数値の設定など)、またそうすべきでもないのだろうと思います。

 

しかしそれでも著者の観察・分析は地に足がついた詳細なもので、今の時代でも実際に起きていることに通じていて、さすが古典に数えられるだけのものがあります。

用途の混合、短い街路、古い(賃料の安い)建物、人の密集、という著者が挙げる都市の多様性を生み出す4条件も、目標値の設定のためではなく、「もしかしたらこれが損なわれている/損なわれるんじゃないだろうか」という診断的な使い方としては十分有用そうです。

 

しかし本書を読むと、やっぱり今渋谷のあちこちで進められている再開発は多様性を損なう方向に働いている気がしてならないのです。10年後、15年後、あの街はどうなっているだろうか....

 

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

 

 

黙殺 報じられない”無頼系独立候補”たちの戦い(著:畠山理仁)を読みました

一般的には”泡沫候補”と呼ばれるような立候補者たちの選挙戦の様子を記録したルポルタージュ

普段有力候補以外の「その他」として、政策的な主張やその背景にある問題意識を詳しく伝えられることのない候補者にも、ひとりひとり立候補せずにいられない理由があるーー本書を読むと、言われてみれば当たり前だけれども気を付けていないと素通りしてしまうそんな事実を窺い知ることができます。 

こうした事情も踏まえて、筆者は”泡沫候補”などいない、いるのは”候補者”だけだと指摘し、大手マスコミ等による報道の援護射撃をもらえず、独力で何とかして自分の主張を聞いてもらおうと奔走する候補者を敬意をこめて”無頼系独立候補”と名付けています。

主要候補と”無頼系独立候補”でマスコミでの取り上げられ方がどのくらい違っているか2016年7月の東京都知事選を例にとってみると、民放4局の看板ニュース番組において、全21人の候補者のうち、小池百合子増田寛也鳥越俊太郎のいわゆる有力3候補について報じた時間が全体の97%を占めていて、残りの18候補は全員合わせてもたった3%に過ぎなかったそうです。

 

”無頼系独立候補”の一例として、あちこちの選挙で名前を目にするマック赤坂氏にも一章が割かれていますが、氏がなぜあのような奇抜な選挙戦を行っているのか(行わなければならないのか)、この数字を見ると得心がいきました。

 

”無頼系独立候補”の中にも至極まっとうな主張をしている方もいて(他有力候補が首長に当選したのち同じ内容の政策を実行しているケースもあるそう)、そうした候補者のことが有権者にきちんと伝えられない状況は、投票結果の妥当性をも揺るがしかねない問題を孕んでいると思います。

 

最終的には公職選挙法まで行きつくのかもしれませんが、それ以前にも選挙事務の進め方等で、立候補者全員の主張をより公平に有権者に伝えられるようになるのではないか?という気がしました。

著者自身がニコニコ動画と組んで実現しようとした全候補者による政策討論会も、確かに一つの手段です。

あとは候補者の意匠に全く委ねられている選挙公報政見放送について、最低限含めななければならない項目を定めて候補者を比較しやすくすることなんかもあり得るのではないでしょうか。
あるいは立法措置が必要で公式な公報・政見放送がすぐに変更できないようであれば、NPO団体などでそういった情報整備と公開を担い、公式な広報・政見放送を補完することもできそうです。
個人的には市区町村議会選挙で配られる選挙公報で、「〇〇小出身」や「□□野球チームOB・元コーチ」みたいな肩書きを見ると、こんなフックで投票されたらたまらないとゲンナリしてしまうので、有権者にきちんと考えるべきことを考え、判断すべきことを判断させる情報提供のあり方を実現させることにはとても興味があります。

 

筆者も本書で主張していますが、周囲の人から後ろ指をさされたり、あまりに得票が少なければ供託金を没収されたり、ものすごい時間を取られたりするなど、さまざまなリスクを背負って選挙に打って出る候補者たちは、ただ何となく空気に流されて投票したり、そもそも棄権したりしている一般の有権者よりよっぽど真剣に政治的権利を行使していると言えます。決して泡沫と呼んで軽んじられるべき存在ではありません。

 

上記の情報の整え方もそうですが、選挙を、有権者が十分な材料を手にしたうえで判断し声を届けられる仕組みにするため、何かできるはないかなぁと考えてみたいと思います。

 

黙殺 報じられない“無頼系独立候補

黙殺 報じられない“無頼系独立候補"たちの戦い

 

 

TOKYO 0円ハウス 0円生活・独立国家のつくりかた(著:坂口恭平)を読みました

前々から気になっていた坂口恭平さんの本を2冊読みました。

 

「ホームレス」と呼ばれる人たちがいかにクリエイティブに、そしてそれぞれの人にとって本質的と思える暮らしをしているかを体当たりでレポートした「TOKYO 0円ハウス 0円生活」と、政府が・市場が信用ならないのであればそれとは別レイヤーで作動する「独立国家」や「態度経済」を作り出せばいいという「独立国家のつくりかた」の2冊です。

 

両書通読して感じたのは、なんと自分が生きるうえで大切なこと/必要なことをよく考え、よく動く人だろう、ということ。

 

「TOKYO 0円ハウス 0円生活」の下敷きになっている「0円ハウス」は、坂口さんの卒業論文が書籍化されたものなのですが、その制作過程のすごいこと。
多摩川沿いに住んでいる方の家を片っ端から尋ね歩くとか、墨田川の路上生活者の家を調査して回るとか、さらっと書かれていますが、卒論でこれをやってのけるのはただモノではありません。しかもそれを売り込みに使える作品にまで仕上げるあたり、もはや卒業論文というより卒業制作に近いんじゃないかとすら思います。

 

自分が大事だと思うものを貫くこと、そしてそれを実際に形にすること。
人任せにしないで、自分で責任を追える空間=<スペース>を作り出し、持つこと。
このあたりの空間は、家入一真さんの「小さな経済圏」や西川正さんの「あそびの生まれる場所」と相通ずるところがあるな、と感じました。

 

ユニバーサルに全体を包含する大きな物語を描きにくくなっている今、小さくてもいいからそれぞれの人が自分の美学で "My space" を築き、そこに閉じこもらないでオープンに交流し合うことが、より生きやすい社会を構成することにつながるんじゃないかと思いました。

 

いつまでも文句言ったり、批判したり、勉強したり、延々準備体操してないで、さっさとやっちまいな、と言われたような気がします。

 

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

 

  

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

 

 

あそびの生まれる場所(著:西川正)を読みました

著者の西川正さんは、埼玉県で市民活動・まちづくりを支援するNPO法人ハンズオン埼玉の常務理事を務められ、また地域の学童保育を運営するNPOでも理事を務めていらっしゃる方。
その西川さんが、ご自身の経験も踏まえて、関わる人が自発的に/自由に「遊ぼうとする」公共空間の作り方を提案されている一冊です。

 

西川さん曰く、現在は保育や学童を含む様々な公共分野で、お金と引き換えに専門家や役所に任せておけばいいという「サービス化」が進んでいると言います。これは同時に住民を公共の支え手・作り手であることから遠ざけ、サービスの「お客様化」させることを意味しています。
公共の「サービス化」・住民の「お客様化」が進んだ現場では、利用者や周辺住民たちは何かあると苦情を持ち込む存在となり、従事者の側は「何かあると困る」と委縮して事が起きないよう事前に様々な制限事項を設けるようになってしまいます。
そのあおりを受けるのは子どもたちで、子どもたちの育ちの環境から「遊び」がなくなり、多様な経験をしたり自ら取り組もうという姿勢が損なわれりする、という事態が生じているのだそうです。
このような誰にでも開かれているがゆえに誰も自由に使えないという貧しい公共空間のあり方を変え、自由に遊べるようにするには、人々の関係をつなぎ顔を合わせ対話をしながらともに悩む当事者を増やすことが必要で、それにはビジネスとは対極的なコミュニティワークが必要になる、と西川さんは指摘しています。

 

西川さんは、コミュニティワークに関わっていくことを暮らし方の問題だとおっしゃっていますが、自分自身、この暮らし方の改革には大いに賛成です。

昨今あちこちで喧伝されている「働き方改革」は「私」=private の中での仕事(ワーク)と家庭(ライフ)とのバランスを取ろうとする動きです。でも、ここに加えて、「私」=privateと「公共」=publicのバランスをとることも必要なのではないかと思います。

 

子どもたちの成長にとって、与えられたものではない、自由な「遊び」の体験はとても大切です。自由な「遊び」は、自分から発想し、働きかけ、フィードバックを得てまたやり直すという経験をもたらしますが、この経験はAIによって置き換えられない、問題意識を自ら育み問いを立てる力や感性を養うことにつながるからです。
こうした経験はready madeのプログラムを受け身的に受け取ることでは積みあがりにくいもの。子どもたちが自由に駆け回り、試行錯誤し、没頭する中でこそできるものではないでしょうか。
それには「見ぬふりをして見る」大人がいるという環境が必要で、だからこそ「公」的なコミュニティー空間の形成に関わることがわが子の育ちのためにもなるのです。

 

もちろんこのような公的空間ができていると、わが子のためだけではなく、広く子どもたちと子どもを持つ家庭にとってセーフティーネットとしても働くと考えられます。

仕事と家庭の両立が「私」=privateの領域内でのトレードオフとしか捉えられないのであれば、単位時間当たりの収入や頼れる係累の条件が良くない人は、仕事中の家事・育児を代行してもらうサービスを調達するために長時間労働が必要となり、仕事と家庭のバランスなどおよそ取ることができない、という事態に陥ります。

 

このように子どもにとってよい育ちの環境を実現するため、またいざというときのセーフティーネットを手に入れるためにも、賃金労働とサービス購入というサイクルから一歩引いて、「公」を紡ぐコミュニティワークにも参加することが大事なのではないかと思うのです。

もちろん、コミュニティワークは集合的な取り組みなので、自分一人が頑張ったからと言って一足飛びに実現できるものではないでしょう。まずはできるところは始めて少しづつ領域を広げていくのがいいのではないでしょうか。
その意味でも、西川さんがなさってきた「おとうさんのヤキイモタイム」(保育園のお父さんたちが集まって公園でヤキイモをし子どもたちと一緒に食べるイベント)は好例だと思います。

 

保育・学童に限らず様々な公共分野ー公民館や図書館、障碍者福祉、高齢者医療・介護ーでもサービス化とお客様化が広く見られる現状において、本書はとても広い射程への提言を含んだ一冊でした。

 

あそびの生まれる場所

あそびの生まれる場所

 

 

エルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告(著:ハンナ・アーレント)を読みました

ナチ体制下でユダヤ人の移送を差配する立場にあったアドルフ・アイヒマンは、敗戦後潜伏していたアルゼンチンでイスラエル諜報機関により捕らえられ、エルサレムに連行されました。そのエルサレムで開かれたアイヒマンに対する戦後法廷をハンナ・アーレントがレポートしたのが本書です。

 

そのタイトルの通り、裁判がどのように進み、本法廷においてアイヒマンがヨーロッパ各地のユダヤ人の移送にどのように関わったとされたかが分析され、また極刑に処されていったか、がつづられています。

ユダヤ人の歴史」というくくりで、ユダヤ人の人たちがどのような扱いをヨーロッパなどで受けてきたのか通史的に学んだことがなかったので、第二次世界大戦当時においてユダヤ人が自国から移送されることをどれだけ多くの国が歓迎したか、ということを本書で初めて知りました。(同時に、現代の難民受け入れでも積極的な姿勢を見せているスウェーデンなどの北欧諸国は当時から逃れてくるユダヤ人の受容に積極的であった、ということも。)

ナチス・ドイツユダヤ人の歴史について前知識があると、本書でハンナ・アーレントが展開している分析の視覚がいかにユニークかつ一貫したものであるかをもっと深く理解できたかもしれません。

 

レポート本編でアイヒマンはもちろん、告発側である検察やその背後にいるイスラエル政府、ユダヤ人を見殺しにしてきた各国政府、ユダヤ人のリストを提出するなどして結果的に移送に協力した各地のユダヤ人有力者に対して著者は厳しい視線を向けていますが、一番迫力があるのは本書の「エピローグ」「追記」で書き加えられている部分です。

 

ここで著者は、ユダヤ人の虐殺という大惨禍を、アイヒマンという前後不出の極悪人一人がやったことと矮小化することも、国家行為として国・国民全体に拡散することも退けています。また、「上からの命令」があるような行政的殺戮において、自ら思考することなく(または思考することができず)残虐行為を働いた個人を適切に裁くことができるような法体系が未整備であったことも認め、二度と同じような災禍が起こらないようにするためには、行政的殺戮を裁くための法がまず必要で、延長線上では国家間の政治的責任を裁きうる国際法廷が開かれる日もあるかもしれない、としています。

 

 本書が自分にとってハンナ・アーレントの著作に初めて触れる機会になったのですが、ユダヤ人として亡命を余儀なくされた本人の境遇もあってか、「何が正義か」「いかに正義をなしうるか」についての熟慮と、考え抜いた末に見出した本人の基準のようなものが文章の端々からにじみ出ていたように感じました。

ぜひ著者の代表作である「全体主義の起源」や「人間の条件」も読んでみたいと思います。

 

 

テレ朝会見で思うこと

「これはもう、構造的に限界なんじゃないか。」

福田元財務次官によるセクハラ被害を自社社員が受けていたという会見をテレ朝が深夜12時から開き(しかも自社では生放送せず)、「二次被害を恐れて公表しなかった」とのたまったと twitter で目にした時に感じた第一印象である。

 

被害にあった当人の訴えを握りつぶし、他社にリークされた挙句、慌てて深夜にこっそり会見しておいて「二次被害」とはどの口が言うか。どう考えても取材先との関係を慮っての対応であって、決して被害者当人を守ろうというつもりはなかったのだろうと、誰しもが思うだろう。

訴えを聞いた当時の上司は、「これでうちは上ネタが引っ張ってこれそうだ」とほくそ笑みはしなかったか?というのはさすがに邪推が過ぎるか。

→訴えを聞いた上司も女性の方で、「もみ消すため」ではなく会社に潰されると考えて 「記事は出せない」と言われたとのこと。問われるべき対象に上司個人は含まれず会社の姿勢の方のようなので、当該記述は削除します。すみませんでした。

 

これこそまさに「忖度」案件だと思うのだが、テレ朝に対する他メディアの切れ味が鋭くないのは、脛に同じ傷を持つ仲間だからだろう。

「ほぉー、あぶない、うちで起きなくてよかった」と肝を冷やしたメディア上層部がどれだけいただろうか。

 

セクハラ行為を働いた元次官が悪いのは言わずもがなとして、なんでこんなことが起こるのだろうか?という原因を考えてみると、これはいわゆる番記者として取材対象に張り付き、属人的な関係を築いて情報を引き出すことが取材行為とされていることに尽きるのではないだろうか。

まだ他には出ていない・出していない「貴重な」情報を手に入れようと、取材対象のもとに足しげく通い、時には取材対象が喜びそうなよその情報を提供する。

「いい情報」が入るかどうかが、取材対象と取材者の個人的な仲の良さで決まる。

 そういう構図から抜け出せないでいるから、取材者がハラスメントの被害者になり、上司は見て見ぬふりをする。

これが今回表面化した一件の経緯だったのではないか。

 

マスコミ各社は、もうこんな構図に優秀な記者たちを無駄遣いするのをやめてはいかがか。

個人的なつてで情報を手に入れるのを取材と呼ぶのはやめたらいい。

多分記者たちの労働時間も無駄に長くなっているだろう。

そもそもそういうもたれあいの中で入手された情報は、報道するうえで果たして本当に「いい情報」なのだろうか?
取材対象者が何らかの意図をもってリークした情報かもしれない。
報道する側も取材対象を慮って表に出す範囲やトーンを調整しているかもしれない。
裁判だって証拠の入手方法が適切でなければ証拠として採用されないのだから、報道でも入手経路が不適切であれば当該情報は発信しないという判断があってしかるべきである。

 

今回の一件でも改めて露見したが、今のマスコミと取材対象者たちには「あっち側」の事情があって、このままでは受け手側はそのことを踏まえて出てくる情報を読み解かなければならない。

今や速報的な抜きをやったとしてもその情報の賞味期限は半日もない。

これは皮肉ではなく、優秀な記者たちに信頼もされなければ賞味期限も短いような情報を追いかけさせるのは、とっても生産性が低いと思う。

 

速報性のあるニュース情報については取材者が等しく受け取れる機会なり手段なりを整え属人性とそれに伴う過重な負担を排し(もしかしたら記事作成自体はヒトでなくAIがやってしまうのかもしれない)、より分析的で受け取り手が考えるきっかけ・材料になるような発信に記者たちが取り組んだほうが、みんながハッピーではないか。

 

このままマス・メディアが信頼を落とし受け取り手から(ますます)そっぽを向かれるようになると、人々はSNSやネット検索などよりパーソナライズされた情報にしか接しなくなり、マスがよって立つ共有された情報基盤がなくなってしまうのではないか、そうなるとそもそも話はかみ合わないし、社会的合意の形成が機能不全を起こすようになるのではないか、と危惧している。

 

どうか、一つくらいはマスを担えるメディアが残っていきますようにと願っている。