私はすでに死んでいるーゆがんだ<自己>を生み出す脳(著:アニル・アナンサスワーミー)を読みました

私あるいは自己とはどこからやってくるのか?という問いに、神経科学の知見によって切り込んでいく一冊。

<自己>がゆがむ各種障がいの分析を通じて、では正常に作動する自己とは何をしているのか?何がどう動いているのか?を明らかにしようとする章立てもだんだん核心に迫っていく感じがして読ませるものだったのですが、各章で取り上げられる症例とその分析自体も興味深く、全体としてとても読みごたえがありました。

 

最近の考え方だと、脳は生存のために必要な恒常性(ホメオスタシス)を保つべく、最少エネルギーの法則を満たそうとしているそうです。すなわち、身体の外部・内部両方について予測を立て、知覚からのフィードバックを得て必要な指令を出し、併せて予測モデルを更新していく、いわば絶えずベイズ推定を行っているようなものなのだとか。(「予測する脳」)

そこでは、自己主体感(自分の行動は自分が行っているという感覚)や自己位置感覚、自己同一性など、自己の一部の側面さえもが、予測され構築された客体としての自己であって、では構築主である自己=主体としての自己とは何か?という問いが最終的には残り(その神経科学的基礎を問うのが意識のハードプロブレム)、そもそも存在するのかを巡って存在派と非存在派に二分されているのが現状だそうです。

 

いずれにしても、自己が外部や内部であっても身体から切り離された独立な存在として措定されるデカルト的発想は時代遅れとされており、自己感覚は身体も組み込まれた神経プロセスの産物であり、脳、身体、精神、さらに文化まで加わってその人らしさが作られている、というのが今の新しい描き方となっているとのことでした。

 

脳の予測や学習・行動の基盤形成のために身体知覚が欠かせないという知見は、AIに関する本を何冊か読んで汎用AIの実現のためには身体感覚とのループが必要で、それって結局人間をまるまるコピーするようなものになってしまうんじゃないか?ということを直感的に感じていたので、なんだか裏付けが見つかったようでとても納得がいきました。

統合失調症自閉症など完全に頭の中に閉じていそうな障がいでさえ、客体としての自己を錨としてつなぎとめているところの自分の身体についての知覚が関わっている、というのも新鮮な気づきです。

身体及び身体性へのアテンションがますます高まりそうな予感を感じさせる一冊になりました。

 

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

 

 

一九八四年(著:ジョージ・オーウェル)、評価の経済学(著:デビッド・ウォーラー、ルパート・ヤンガー)を読みました

お金の未来の本を読んだときに、今後は評価や信用がお金にとって代わっていく、という方向性が示されていました。いわゆる評価経済や信用経済というやつです。

それを目にした時、直感的にそれは息苦しい世の中になってしまうんじゃないかなぁと思ったので、関連本を読んでみました。

 

1冊目はそのまま、「評価の経済学」。 

評価の経済学

評価の経済学

 

今や個人から組織や企業果ては国家に至るまで、あらゆる主体が自らの評価を上げようとする評価ゲームに参加している様相を呈していますが、そもそも評価とは何で、それを高める戦略的なポイントは何かを説いています。

そもそも前提としてあるのは、評価とは自分以外の他人が自分に対して抱くものである、ということ。なので完全にコントロールすることはできない。それでも

  • 行動(人は行動を見て判断する)
  • ネットワーク(評価は人から人に伝わる)
  • 物語(どんなストーリーで伝えられるか)

の3点に気を配るとよくできる可能性がある、ということでした。

 

2冊目は「一九八四年」。 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

ジョージ・オーウェル全体主義が完成した近未来を舞台にその恐ろしさを描いた小説で、そこでは万能かつ無謬とされる指導者(層) 、反体制的な行動・思想に対する徹底した弾圧、機械や家族含む隣人による常時監視・密告、過去の改竄などが登場します。

 

評価経済・信用経済が行きつくところまで行き、望ましいとされる行動規範が少数の手に握られ(それがアルゴリズムの場合には握っているのが人の手であるかさえ微妙)、実際の行動は衆人に常時監視・評価(evaluation)され、そのレコードがブロックチェーンなどの技術により保存され自分のコントロールが及ばない、という状態になると、これはあたかも一九八四年でジョージ・オーウェルが描き出した全体主義の完成像のようではないか、とやはり思った次第です。

※まぁこの本を関連本として選んでいる時点である程度確信犯的ではありますが。そう遠くない国では同じような事態が進行中である気がしてなりません。

 

個人的には、評価・信用は通貨と交換されることによって、一定程度、評価経済・信用経済といわゆる普通のお金がまわる経済は並存していくのではと考えています。ただ、評価・信用にせよ、通貨にせよ、いずれも累積効果が大きく、持つ人はますます持つようになっていき、所有高順に人々を並べるとべき乗分布に近くなっていくんじゃないかと思います。

 

そういう分布の不平等度もそうですし、先に見たような全体主義的環境も、そこに追い込まれないための逃げ道は絶対にあった方がいい。お金でも、評価でも、信用でもなく交換が媒介されるとしたら何があるだろうか?
実に凡庸で手垢まみれの考え方ではありますが、やはりそこは信頼なんじゃないかと考えています。reputationでも、creditでもなく、trust。多分信頼をはぐくむには対面でのやりとりや、ともに過ごす時間・共通体験が必要で、ネット上で計測・積みあがっていく評価と比べるとだいぶアナログな世界の話しになるんだろうなぁと思います。

 

自分が直感的にリアルな場・空間をしつらえたのも、この変がざわっとしたからだったのかもしれない、と改めて気づかされました。

次は贈与論や信頼の本を読んでみたいと思います。

”お金”について考える本を読みました

直接の引き金はたまたま入った本屋でたまたま手にしたBrutusの「親・お金の、答え。」がぴったりきたことがきっかけですが、いわゆる”法定通貨”を価値貯蔵・交換手段として求め続けることが今後果たしてどこまで有効なのだろうか?というのはずっとモヤモヤ考えていることで、それもあってこのタイミングでこの2冊を読んでみました。

 特に「人の表現が取り交わされる場所」を育んでいきたいと考えている今日この頃、対価としてお金がふさわしいのか?額が十分ならいいのか?十分な額がもらえるだけの対価性を持たない表現は受け取られることすらないのか?みたいなことも気になっていて、なおのこと手段としてのお金を相対化してみたい機運も高まっていたと思います。

 

一冊は有名な西国分寺のクルミドコーヒー店主の影山知明さんの「ゆっくり、いそげ-カフェからはじめる人を手段化しない経済」。

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

 

 

もう一冊は山口揚平さんの「新しい時代のお金の教科書」。  

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

 

 

「お金の教科書」の方は、その名の通り貨幣論的な観点からお金の過去・現在・未来を論じたもので、「ゆっくり、いそげ」の方は、ご自身のカフェ経営の経験を踏まえつつお金一辺倒にしない交換の豊かさや、それがまわりまわってお金の周りもよくする、ということを論じておられました。

 

詳細はそれぞれの本に譲るとして、二冊共通して主張されていることがあったのが印象的でした。それは、

  • お金には文脈をそぎ落とし、無機質化する働きがある
  • モノがありふれた今後は、時間やコミットメントが価値の源泉になる
  • 身元が分かる中での直接交換が意味を持つようになる

というあたりのポイントです。

 

つまり、影山さんの場合は特定多数というつながりの中で、山口さんの場合はブロックチェーンという技術のおかげで、という違いはあれど、ある人が時間を費やしコミットして何かをしたことが有名性をもって評価され信用や価値を生むことになると見ていらっしゃることは共通していました。

 

でも、「そうか、じゃあこれからはお金に代わって信用や評価を稼げばいいのか」、というと、どうもそうでもないように思います。(特に影山さんの方はそのように主張されているわけではありません。)

お金に代わって信用や評価を稼がなければいけないような世の中は、ある意味お金を稼がなければならない(とされている)今より息苦しく生きづらいディストピアになってしまいそうです。

 

そういうことではなくって、お金を介しない交換や、お金を介すにしても厳密に対価性を求めない交換の機会がもっと増えていい、ということがちょうどよい案配なのではないかなぁと思います。
(これを影山さんは call & responseや応答と呼ばれているのかもしれません。)

特にこれを特定多数の中でやろうとする場合、それは小さな経済圏をお金を厳密な交換手段としないで作る、ということになりそうです。

山口さんの本で紹介されていたお金の起源-決まった場所にものを置いては、前にそこに置いた人のものを取っていくやりとりを記録するという記帳のシステムが、今のこの時代でも実際に稼働するような時間・空間を試しに作ってみることや、会費制の小売店というのも、同列な取り組みとしてとらえられるのではないでしょうか。

 

このお題、テーマがテーマだけに考える視角が様々にありそうです。この続きは、評価経済や監視(もしかしたら贈与や表現も)などの本を読んでからまた改めて考えてみたいと思います。

 

アメリカ大都市の生と死(著:ジェイン・ジェイコブズ)を読みました

創造都市の本を何冊か読むと必ず言及されていた本書。やっと読むことができました。

 

より人間的で活気のある都市空間を守ろうと、市民活動家として画一的な当局の都市開発と渡り合ってきた経験もふまえ、都市開発は何を目指しいかに進められるべきかを論じた一冊です。

 

本書を読むにあたっては、訳者山形浩生さんの解説がとても参考になりました。
それは本書が書かれた当時のアメリカにおける大都市の状況と、もともとが活動家である著者が書いた内容の性質・カバーしうる射程についての解説です。

 

著者は、本書を大都市において人々が次々郊外に転出していき中心地の空洞化・スラム化が進んだ1950年代を経た当時(1961年発刊)の文脈だからこそ妥当する内容というつもりで著したのであって、いつでも・どこでも適用可能な理論を打ち出すつもりではありませんでした。(本文中で著者自身も触れています。)
そうした成り立ち・著者自身のバックグラウンドからして、著者自身が居住・活動していたニューヨークのグリニッジ・ビレッジやその他いくつかの都市についての観察や考察に基づき、経験的に書かれているものでもあります。
そのため、今ある現実に対処して何かをしようとしたとき、本書からストレートに処方箋を導くことは実務的に難しく(具体的なサイズ感やターゲット数値の設定など)、またそうすべきでもないのだろうと思います。

 

しかしそれでも著者の観察・分析は地に足がついた詳細なもので、今の時代でも実際に起きていることに通じていて、さすが古典に数えられるだけのものがあります。

用途の混合、短い街路、古い(賃料の安い)建物、人の密集、という著者が挙げる都市の多様性を生み出す4条件も、目標値の設定のためではなく、「もしかしたらこれが損なわれている/損なわれるんじゃないだろうか」という診断的な使い方としては十分有用そうです。

 

しかし本書を読むと、やっぱり今渋谷のあちこちで進められている再開発は多様性を損なう方向に働いている気がしてならないのです。10年後、15年後、あの街はどうなっているだろうか....

 

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

 

 

黙殺 報じられない”無頼系独立候補”たちの戦い(著:畠山理仁)を読みました

一般的には”泡沫候補”と呼ばれるような立候補者たちの選挙戦の様子を記録したルポルタージュ

普段有力候補以外の「その他」として、政策的な主張やその背景にある問題意識を詳しく伝えられることのない候補者にも、ひとりひとり立候補せずにいられない理由があるーー本書を読むと、言われてみれば当たり前だけれども気を付けていないと素通りしてしまうそんな事実を窺い知ることができます。 

こうした事情も踏まえて、筆者は”泡沫候補”などいない、いるのは”候補者”だけだと指摘し、大手マスコミ等による報道の援護射撃をもらえず、独力で何とかして自分の主張を聞いてもらおうと奔走する候補者を敬意をこめて”無頼系独立候補”と名付けています。

主要候補と”無頼系独立候補”でマスコミでの取り上げられ方がどのくらい違っているか2016年7月の東京都知事選を例にとってみると、民放4局の看板ニュース番組において、全21人の候補者のうち、小池百合子増田寛也鳥越俊太郎のいわゆる有力3候補について報じた時間が全体の97%を占めていて、残りの18候補は全員合わせてもたった3%に過ぎなかったそうです。

 

”無頼系独立候補”の一例として、あちこちの選挙で名前を目にするマック赤坂氏にも一章が割かれていますが、氏がなぜあのような奇抜な選挙戦を行っているのか(行わなければならないのか)、この数字を見ると得心がいきました。

 

”無頼系独立候補”の中にも至極まっとうな主張をしている方もいて(他有力候補が首長に当選したのち同じ内容の政策を実行しているケースもあるそう)、そうした候補者のことが有権者にきちんと伝えられない状況は、投票結果の妥当性をも揺るがしかねない問題を孕んでいると思います。

 

最終的には公職選挙法まで行きつくのかもしれませんが、それ以前にも選挙事務の進め方等で、立候補者全員の主張をより公平に有権者に伝えられるようになるのではないか?という気がしました。

著者自身がニコニコ動画と組んで実現しようとした全候補者による政策討論会も、確かに一つの手段です。

あとは候補者の意匠に全く委ねられている選挙公報政見放送について、最低限含めななければならない項目を定めて候補者を比較しやすくすることなんかもあり得るのではないでしょうか。
あるいは立法措置が必要で公式な公報・政見放送がすぐに変更できないようであれば、NPO団体などでそういった情報整備と公開を担い、公式な広報・政見放送を補完することもできそうです。
個人的には市区町村議会選挙で配られる選挙公報で、「〇〇小出身」や「□□野球チームOB・元コーチ」みたいな肩書きを見ると、こんなフックで投票されたらたまらないとゲンナリしてしまうので、有権者にきちんと考えるべきことを考え、判断すべきことを判断させる情報提供のあり方を実現させることにはとても興味があります。

 

筆者も本書で主張していますが、周囲の人から後ろ指をさされたり、あまりに得票が少なければ供託金を没収されたり、ものすごい時間を取られたりするなど、さまざまなリスクを背負って選挙に打って出る候補者たちは、ただ何となく空気に流されて投票したり、そもそも棄権したりしている一般の有権者よりよっぽど真剣に政治的権利を行使していると言えます。決して泡沫と呼んで軽んじられるべき存在ではありません。

 

上記の情報の整え方もそうですが、選挙を、有権者が十分な材料を手にしたうえで判断し声を届けられる仕組みにするため、何かできるはないかなぁと考えてみたいと思います。

 

黙殺 報じられない“無頼系独立候補

黙殺 報じられない“無頼系独立候補"たちの戦い

 

 

TOKYO 0円ハウス 0円生活・独立国家のつくりかた(著:坂口恭平)を読みました

前々から気になっていた坂口恭平さんの本を2冊読みました。

 

「ホームレス」と呼ばれる人たちがいかにクリエイティブに、そしてそれぞれの人にとって本質的と思える暮らしをしているかを体当たりでレポートした「TOKYO 0円ハウス 0円生活」と、政府が・市場が信用ならないのであればそれとは別レイヤーで作動する「独立国家」や「態度経済」を作り出せばいいという「独立国家のつくりかた」の2冊です。

 

両書通読して感じたのは、なんと自分が生きるうえで大切なこと/必要なことをよく考え、よく動く人だろう、ということ。

 

「TOKYO 0円ハウス 0円生活」の下敷きになっている「0円ハウス」は、坂口さんの卒業論文が書籍化されたものなのですが、その制作過程のすごいこと。
多摩川沿いに住んでいる方の家を片っ端から尋ね歩くとか、墨田川の路上生活者の家を調査して回るとか、さらっと書かれていますが、卒論でこれをやってのけるのはただモノではありません。しかもそれを売り込みに使える作品にまで仕上げるあたり、もはや卒業論文というより卒業制作に近いんじゃないかとすら思います。

 

自分が大事だと思うものを貫くこと、そしてそれを実際に形にすること。
人任せにしないで、自分で責任を追える空間=<スペース>を作り出し、持つこと。
このあたりの空間は、家入一真さんの「小さな経済圏」や西川正さんの「あそびの生まれる場所」と相通ずるところがあるな、と感じました。

 

ユニバーサルに全体を包含する大きな物語を描きにくくなっている今、小さくてもいいからそれぞれの人が自分の美学で "My space" を築き、そこに閉じこもらないでオープンに交流し合うことが、より生きやすい社会を構成することにつながるんじゃないかと思いました。

 

いつまでも文句言ったり、批判したり、勉強したり、延々準備体操してないで、さっさとやっちまいな、と言われたような気がします。

 

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

 

  

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

 

 

あそびの生まれる場所(著:西川正)を読みました

著者の西川正さんは、埼玉県で市民活動・まちづくりを支援するNPO法人ハンズオン埼玉の常務理事を務められ、また地域の学童保育を運営するNPOでも理事を務めていらっしゃる方。
その西川さんが、ご自身の経験も踏まえて、関わる人が自発的に/自由に「遊ぼうとする」公共空間の作り方を提案されている一冊です。

 

西川さん曰く、現在は保育や学童を含む様々な公共分野で、お金と引き換えに専門家や役所に任せておけばいいという「サービス化」が進んでいると言います。これは同時に住民を公共の支え手・作り手であることから遠ざけ、サービスの「お客様化」させることを意味しています。
公共の「サービス化」・住民の「お客様化」が進んだ現場では、利用者や周辺住民たちは何かあると苦情を持ち込む存在となり、従事者の側は「何かあると困る」と委縮して事が起きないよう事前に様々な制限事項を設けるようになってしまいます。
そのあおりを受けるのは子どもたちで、子どもたちの育ちの環境から「遊び」がなくなり、多様な経験をしたり自ら取り組もうという姿勢が損なわれりする、という事態が生じているのだそうです。
このような誰にでも開かれているがゆえに誰も自由に使えないという貧しい公共空間のあり方を変え、自由に遊べるようにするには、人々の関係をつなぎ顔を合わせ対話をしながらともに悩む当事者を増やすことが必要で、それにはビジネスとは対極的なコミュニティワークが必要になる、と西川さんは指摘しています。

 

西川さんは、コミュニティワークに関わっていくことを暮らし方の問題だとおっしゃっていますが、自分自身、この暮らし方の改革には大いに賛成です。

昨今あちこちで喧伝されている「働き方改革」は「私」=private の中での仕事(ワーク)と家庭(ライフ)とのバランスを取ろうとする動きです。でも、ここに加えて、「私」=privateと「公共」=publicのバランスをとることも必要なのではないかと思います。

 

子どもたちの成長にとって、与えられたものではない、自由な「遊び」の体験はとても大切です。自由な「遊び」は、自分から発想し、働きかけ、フィードバックを得てまたやり直すという経験をもたらしますが、この経験はAIによって置き換えられない、問題意識を自ら育み問いを立てる力や感性を養うことにつながるからです。
こうした経験はready madeのプログラムを受け身的に受け取ることでは積みあがりにくいもの。子どもたちが自由に駆け回り、試行錯誤し、没頭する中でこそできるものではないでしょうか。
それには「見ぬふりをして見る」大人がいるという環境が必要で、だからこそ「公」的なコミュニティー空間の形成に関わることがわが子の育ちのためにもなるのです。

 

もちろんこのような公的空間ができていると、わが子のためだけではなく、広く子どもたちと子どもを持つ家庭にとってセーフティーネットとしても働くと考えられます。

仕事と家庭の両立が「私」=privateの領域内でのトレードオフとしか捉えられないのであれば、単位時間当たりの収入や頼れる係累の条件が良くない人は、仕事中の家事・育児を代行してもらうサービスを調達するために長時間労働が必要となり、仕事と家庭のバランスなどおよそ取ることができない、という事態に陥ります。

 

このように子どもにとってよい育ちの環境を実現するため、またいざというときのセーフティーネットを手に入れるためにも、賃金労働とサービス購入というサイクルから一歩引いて、「公」を紡ぐコミュニティワークにも参加することが大事なのではないかと思うのです。

もちろん、コミュニティワークは集合的な取り組みなので、自分一人が頑張ったからと言って一足飛びに実現できるものではないでしょう。まずはできるところは始めて少しづつ領域を広げていくのがいいのではないでしょうか。
その意味でも、西川さんがなさってきた「おとうさんのヤキイモタイム」(保育園のお父さんたちが集まって公園でヤキイモをし子どもたちと一緒に食べるイベント)は好例だと思います。

 

保育・学童に限らず様々な公共分野ー公民館や図書館、障碍者福祉、高齢者医療・介護ーでもサービス化とお客様化が広く見られる現状において、本書はとても広い射程への提言を含んだ一冊でした。

 

あそびの生まれる場所

あそびの生まれる場所