新しい分かり方(著:佐藤雅彦)を読みました

Eテレピタゴラスイッチ」の監修を手掛けていらっしゃる方の本と新聞の書評欄で見かけて読んでみた一冊です。

著者の佐藤雅彦さんは、電通ご出身でその後独立、メディアクリエーターとして多方面に活躍され(だんご三兄弟バザールでござーるなど!)、今は慶應と東京藝大で教授も務められています。

 

なんでこの本を作ったのか、どんな狙いを込めたのか、というのが本書の「あとがき」に書かれていましたが、それがとっても素敵でした。

いわく、「初めてなのに、とてもよく分かり、その場で使いこなせる。しかも、その能力を使えば、今後生きること自体に前向きになれる。」そういう「まだ発現の機会を与えられていない生得的能力」が発現するのを促そうとして、この本を著したのだそうです。
だから、この本には、「こんなことが自分に分かるんだ」とか「人間はこんな分かり方をしてしまうのか」ということを分かるための機会をたくさん入れたのだそう。

 

そういう後に残る余韻というか、財産というか、を考えて作品を作る、エンパワメントを目的としたクリエイティブって、制作の動機としてとても素敵だなぁと思いました。

 

ちなみに本書の構成は、前半に上記のような「新しい分かり方」を体験する作品が並んでいて、後半に開設を兼ねた随想が続き、最後にあとがきがあるという流れになっています。

作品を体験してから随想・あとがきを読むのもいいですが、「あとがき」を先に読んでマインドセットしてから読み進めるのもよさそうです。

 

ひとつひとつの作品の体験が面白くて、あっという間に読み進んでしまう本でした。

ぜひご自身でも体験してみてください!

 

新しい分かり方

新しい分かり方

 

 

道徳感情論(著:アダム・スミス)を読みました

本書にも序文を寄せているアマルティア・センの著作で言及されていたのがきっかけで読んだ一冊です。ナイーブな合理的経済人を前提することが批判を受けることが多くなった昨今、市場主義や自由放任主義の元祖?のように言われるアダム・スミスは決してそのような考え方の持ち主ではなかったとセンは指摘していて、果たしてどんな思想を持っていたのか気になって読んでみました。

 

本書を読むと、確かにスミスは「人は自分の利益だけを追求していればいい」という主張を行っているわけではないことが分かります。

ことの良しあし・認否を決めるのは、中立的な観察者を想定したとして、共感を得られるかどうか、にあるというのがスミスの主張の眼目だと思いました。

正義、ことにそれを明文化しようとする法律・制度も後追い的に追認するだけで、まず確かなのは体感として湧き上がる感情であるとも言っていて、経済学で登場するよりも倫理・感性的な色彩が強い思考空間にあった人だったんだな、と感じます。

 

一方、そう捉えられかねないと思わせる主張もやはりあって、それは共感を得られるような望ましいあり方というのは今置かれている環境・境遇によって異なっていて、だからこそまずは自分に近しい家族、階級、祖国の人たちのことを考えればよい、それ以上は全能の叡智の領域である、とするような主張です。

すぐに思い出したのはブルデューの「ハビトゥス」の概念で、スミスはあたかも階級が再生産されるのはやむを得ない、それを粛々と受け入れて分相応のよしとされるべき姿めざして進むことに喜びを覚えるべしと説いているような内容が見受けられました。

現在ある制度を一変させるような抽象的な主義や、同心円の遠方にある人たちにも普遍させるような理念についてはこれを退け、極めて保守主義的な立場を取っていたのだな、と感じさせます。

 

限定合理性の方に近い見方をしていたという意味では市場主義や合理的経済人の元祖というのは一面的な評価に基づくように思いますが、だからと言ってリベラルに行くわけでもなく、スミスの視点がどこから発していたかと言えばより倫理性の強い保守主義であった、というのが本書を読んで自分が得た印象でした。

 

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

 

 

贈与論(著:マルセル・モース)を読みました

 新しいお金の話の本を読んだとき、お金を媒介した売買取引以外の交感について言及される中で取り上げられていたのがきっかけで本書を読みました。

 

贈与や交換が社会的にどのような意味を持っているのか、要素に分解することなくあくまで全体的な性質として説明を試みている一冊で、ポリネシアメラネシア、北米、古代ローマなど、地理横断的・時代横断的な比較を行ったうえで分析を加えています。

 

特に南太平洋でのケースとして取り上げられていた「ポトラッチ」が印象に残ったのですが、「ポトラッチ」は持てる全てといっていいくらいの贈与行うことで相手を圧倒し、覇を競うという性格を持っていたのだそうです。

「ポトラッチ」を勝ち抜くことは、集団内部にもそれだけ多くの分配の元をもたらすことになるので、その集団の首領にすれば力(パワー)の淵源にもなります。

 

溜め込むのではなく、集団の中に対しても外に対しても気前よく配れば配るほどパワーを手にしていくというのは、今自分たちが普通に慣れてしまっている社会の慣行とはある意味真逆であるようで面白かったですが、ふと、もしかしたら今の社会でも同じようにスルーを増やす人が情報や人と人の繋がりの結節点になって、いわゆるソフトパワーを備えることにもなるのかもしれないと思ったりもしました。

 

贈与といっても深奥にはいろいろな思惑があって、贈ったり・受けたりで結ばれる関係がどんなものかよく目を凝らして見てみないと、ナイーブにいい・悪いとは言えないんだなぁ。自分が確信犯的にそれをするのはちょっと気が引けるけど・・・。

 

贈与論 他二篇 (岩波文庫)

贈与論 他二篇 (岩波文庫)

 

 

インド哲学10講(著:赤松明彦)を読みました

イスラムの本は昨年だいぶ読んだのですが、そういえばインド・ヒンドゥーの世界観ってあまり触れたことがないなと思い読んでみました。

 

インド哲学における「存在と認識」 の捉え方について解説している一冊です。

 

ざっくりとらえたところでは、インド哲学では根源的な一者が全ての存在のもとにあり、それが多様な形をとって現れるのは、言葉で認識するからだ、というのがおおまかなところのようです。

 

インド人と言えばよくしゃべるというイメージをよく耳にしますが、なるほどインドの人たちにとって言葉というのが、そして言葉によって伝えたい内容や意味を絞り込みかたどっていくことがどれだけ大切なことなのか、なんとなく伺えたような気がします。

 

インドの思想の幹を知るには、業(カルマ)や輪廻など本書では取り扱わないとされていたフィールドも見てみないといけないと思うので、いつかまたそっちの方も読んでみたいと思います。

 

インド哲学10講 (岩波新書)

インド哲学10講 (岩波新書)

 

 

Hit Refreshマイクロソフト再興とテクノロジーの未来(著:サティア・ナデラ)を読みました

Microsoftのサティア・ナデラ 現CEOによる同社のチェンジの状況と今後向かう道を示した一冊。いわゆるGAFAを向こうにまわして(完全に向こうにまわすわけではなく、「同じ顧客のために争い、同じ顧客のために尽くす旧来の仲間」と著者は仰っていますが)どう舵取りをし、未来の技術的な見取り図とその中で自社が占めようとするポジションをどう描いているのか知りたくて読んでみました。

ご自身の出自やバックグラウンドも関係してか、顧客理解にしても、企業文化にしても、しきりに「共感」という言葉を使っているのが印象に残りました。

そして自社の文化として定着させようとした「成長マインドセット」は、出典がキャロル・ドゥエック博士の『マインドセット「やればできる!」の研究』という書籍なのですが、同書は自分も読んでいました。あれほどの企業のCEO が自分と同じようなビジネス書を読んでいるとは!とちょっと驚いたのですが、それをあのジャイアントかつパワフルな会社の組織運営に実際に取り込んでいるところに、同じ読書であってもインパクトの大きさが全く違うよな~と思ったり。

一番関心があった技術的将来像では、クラウドのさらに先の技術的シフトとして、複合現実、人工知能量子コンピューターの3つが挙げられていました。
複合現実では、視界がコンピューター画面となり、デジタル世界と現実世界が混然一体となる体験をすることになる、と予見しています。インターネットネイティブの世代がいるように、没入型のコンピューター経験しか知らない、複合先日世代の人々が中心の時代が来るかもしれない、とのこと。
人工知能については、おなじみCortanaのようなパーソナルアシスタントがより普及し、同時に大量のデータに基づく機械学習を医療(病気の診断etc)などに活用できるようになると見ています。
そしてこれらが必要とする強力なコンピューティングを満たす鍵となるのが、量子コンピューターで、実現した暁にはムーアの法則を打ち破りコンピューターの物理を変える、と考えられているそうです。

方向性として感じたのは、人間の知覚はよりアルゴリズムに包まれ、時空のあり方の変化がより加速していくだろうな、ということ。
趨勢がそっちに向かっていくとき、文字通りの意味でフィジカルな移動や体験の位置づけはどう変わっていくか、複合現実に代替されないものは何があるか、もしくは逆に複合現実の供給に関われるようなリソースを蓄積・確保しうるか、を考えておくことが必要と認識しました。さぁ、何ができる・何をしようかしら?

 

ご本人も著書の中で仰っていますが、現職CEOが自社の今の動き・今後の方針をまとまった形でパブリッシュするのはなかなか珍しく、内外とのコミュニケーションとしていい形だなぁと思いました。

 

Hit Refresh(ヒット リフレッシュ) マイクロソフト再興とテクノロジーの未来

Hit Refresh(ヒット リフレッシュ) マイクロソフト再興とテクノロジーの未来

 

 

私はすでに死んでいるーゆがんだ<自己>を生み出す脳(著:アニル・アナンサスワーミー)を読みました

私あるいは自己とはどこからやってくるのか?という問いに、神経科学の知見によって切り込んでいく一冊。

<自己>がゆがむ各種障がいの分析を通じて、では正常に作動する自己とは何をしているのか?何がどう動いているのか?を明らかにしようとする章立てもだんだん核心に迫っていく感じがして読ませるものだったのですが、各章で取り上げられる症例とその分析自体も興味深く、全体としてとても読みごたえがありました。

 

最近の考え方だと、脳は生存のために必要な恒常性(ホメオスタシス)を保つべく、最少エネルギーの法則を満たそうとしているそうです。すなわち、身体の外部・内部両方について予測を立て、知覚からのフィードバックを得て必要な指令を出し、併せて予測モデルを更新していく、いわば絶えずベイズ推定を行っているようなものなのだとか。(「予測する脳」)

そこでは、自己主体感(自分の行動は自分が行っているという感覚)や自己位置感覚、自己同一性など、自己の一部の側面さえもが、予測され構築された客体としての自己であって、では構築主である自己=主体としての自己とは何か?という問いが最終的には残り(その神経科学的基礎を問うのが意識のハードプロブレム)、そもそも存在するのかを巡って存在派と非存在派に二分されているのが現状だそうです。

 

いずれにしても、自己が外部や内部であっても身体から切り離された独立な存在として措定されるデカルト的発想は時代遅れとされており、自己感覚は身体も組み込まれた神経プロセスの産物であり、脳、身体、精神、さらに文化まで加わってその人らしさが作られている、というのが今の新しい描き方となっているとのことでした。

 

脳の予測や学習・行動の基盤形成のために身体知覚が欠かせないという知見は、AIに関する本を何冊か読んで汎用AIの実現のためには身体感覚とのループが必要で、それって結局人間をまるまるコピーするようなものになってしまうんじゃないか?ということを直感的に感じていたので、なんだか裏付けが見つかったようでとても納得がいきました。

統合失調症自閉症など完全に頭の中に閉じていそうな障がいでさえ、客体としての自己を錨としてつなぎとめているところの自分の身体についての知覚が関わっている、というのも新鮮な気づきです。

身体及び身体性へのアテンションがますます高まりそうな予感を感じさせる一冊になりました。

 

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

 

 

一九八四年(著:ジョージ・オーウェル)、評価の経済学(著:デビッド・ウォーラー、ルパート・ヤンガー)を読みました

お金の未来の本を読んだときに、今後は評価や信用がお金にとって代わっていく、という方向性が示されていました。いわゆる評価経済や信用経済というやつです。

それを目にした時、直感的にそれは息苦しい世の中になってしまうんじゃないかなぁと思ったので、関連本を読んでみました。

 

1冊目はそのまま、「評価の経済学」。 

評価の経済学

評価の経済学

 

今や個人から組織や企業果ては国家に至るまで、あらゆる主体が自らの評価を上げようとする評価ゲームに参加している様相を呈していますが、そもそも評価とは何で、それを高める戦略的なポイントは何かを説いています。

そもそも前提としてあるのは、評価とは自分以外の他人が自分に対して抱くものである、ということ。なので完全にコントロールすることはできない。それでも

  • 行動(人は行動を見て判断する)
  • ネットワーク(評価は人から人に伝わる)
  • 物語(どんなストーリーで伝えられるか)

の3点に気を配るとよくできる可能性がある、ということでした。

 

2冊目は「一九八四年」。 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

ジョージ・オーウェル全体主義が完成した近未来を舞台にその恐ろしさを描いた小説で、そこでは万能かつ無謬とされる指導者(層) 、反体制的な行動・思想に対する徹底した弾圧、機械や家族含む隣人による常時監視・密告、過去の改竄などが登場します。

 

評価経済・信用経済が行きつくところまで行き、望ましいとされる行動規範が少数の手に握られ(それがアルゴリズムの場合には握っているのが人の手であるかさえ微妙)、実際の行動は衆人に常時監視・評価(evaluation)され、そのレコードがブロックチェーンなどの技術により保存され自分のコントロールが及ばない、という状態になると、これはあたかも一九八四年でジョージ・オーウェルが描き出した全体主義の完成像のようではないか、とやはり思った次第です。

※まぁこの本を関連本として選んでいる時点である程度確信犯的ではありますが。そう遠くない国では同じような事態が進行中である気がしてなりません。

 

個人的には、評価・信用は通貨と交換されることによって、一定程度、評価経済・信用経済といわゆる普通のお金がまわる経済は並存していくのではと考えています。ただ、評価・信用にせよ、通貨にせよ、いずれも累積効果が大きく、持つ人はますます持つようになっていき、所有高順に人々を並べるとべき乗分布に近くなっていくんじゃないかと思います。

 

そういう分布の不平等度もそうですし、先に見たような全体主義的環境も、そこに追い込まれないための逃げ道は絶対にあった方がいい。お金でも、評価でも、信用でもなく交換が媒介されるとしたら何があるだろうか?
実に凡庸で手垢まみれの考え方ではありますが、やはりそこは信頼なんじゃないかと考えています。reputationでも、creditでもなく、trust。多分信頼をはぐくむには対面でのやりとりや、ともに過ごす時間・共通体験が必要で、ネット上で計測・積みあがっていく評価と比べるとだいぶアナログな世界の話しになるんだろうなぁと思います。

 

自分が直感的にリアルな場・空間をしつらえたのも、この変がざわっとしたからだったのかもしれない、と改めて気づかされました。

次は贈与論や信頼の本を読んでみたいと思います。