日本の夜の公共圏:スナック研究序説(著:谷口浩一、スナック研究会)を読みました

「スナック」とはいかなる社会空間かを、法学・政治学・文学等の研究者たちが各々の専門分野の視点から考察した一冊。
スナックがどのような法規制の下今あるような業態にたどりついたのか、また開業・経営に当たってはどのような届出や基準を求められるのかといった法制度的な話から、社交の場・公共圏としてのスナックの機能について論じたものなど、多様に真面目に考察されていて面白かったです。

 

これは本書全体を通して受ける印象ですが、真面目にふざけている、もしくはふざけたテーマをいたって真面目に取り扱っているところに粋を感じます。
なにせ研究会自体、スナックを会場としてお店のママたちにも発表を聞いてもらいながら行ったとのことです。また本研究会にサントリー文化財団が助成を出しているところも、さすが「やってみなはれ」の度量の広さというか、でもギリギリ本業に関わらなくもないか、という絶妙の線を行っていて、思わずニヤリとさせられます。

 

今でこそオジサンの牙城であったり、地域の夜の公民館だったり、まるいイメージのスナックですが、原宿族と呼ばれる若者たちが赤坂・青山あたりでたむろしていたのがスナックだったと知って、もともとそういうルーツだったのかと、今のイメージとのギャップに新鮮な驚きを覚えました。

いずれかの章でオルデンバーグのサード・プレイスになぞらえられていましたが、昼間の身分関係なく集った者同士が社交するというスナックはまさにサード・プレイスだと思います。最近、ポップアップ型のスナックが流行りだしたのも、そういう社交の場を求める声に応えたものなのかもしれません。

本書は序説と謳われている通り、本編が続いて用意されているらしいです。早く本編も読んでみたいなぁと思いました。

 

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

 

 

美容整形というコミュニケーションー社会規範と自己満足を越えて(著:谷本菜穂)を読みました

なぜ人は美容整形を受けるのか?

一般的には社会規範(美しくあるべき、という社会〔特に異性〕からの圧力)によるという見方と、当該個人が身体改変を通してアイデンティティを再構築しようとしているという見方がなされてきました。

しかし著者自身の先行研究からは、美容整形の実践者は動機として「自己満足」を挙げることが明らかになっています。

その場合の「自己」とはどんな人たちかをさらに調査したところ、属性としては女性で、一定の経済力があること、身体意識としては他者の評価を気にし、老化を感じ、社会のルールに縛られる必要はないと考えている人たちであるということが分かりました。
また評価を気にかける対象である「他者」についての分析を進めたところ、広く社会一般であったり、男性であるわけではなく、母親、娘、同性の友人など、女性のネットワークからの影響が大きいことも分かりました。

ここから著者は、美容整形とは、一般化された社会でも、個別的な個人でもなく、近しいネットワーク上でのコミュニケーションに契機が埋め込まれており、影響するアクター間の関係性をも考察の対象とする必要があると結論付けています。

 

本書の一番の力点は実践者のきっかけの分析にあるのだと思いますが、個人的に一番興味深かったのは、日本での社会規範を明らかにするために女性誌テキストマイニングによって分析している第一章の部分でした。
著者の考察によれば、1980年代以降女性誌の美容関連記事では成分をアピールする科学性が目立つようになりますが、同時にその効能としては「(肌なり本人なりの)本来」への回帰という「自然さ」を打ち出すものだったといいます。
そこには、誰にでも当然に訪れ免れるものではない「老い」を本来の姿からの逸脱とし、治療可能な病として位置付けるからこそ、各種美容製品・サービスの利用が正当化されるという背景構造があるのだそうです。

いかにして美容への「投資」を消費者に納得させていったかというこの構造の解き明かしが、読んでいて実に面白かったです。

しかし、作り手の人たちは、自分たちの仕事をこういう形でメタに分析されるとどんな気持ちなんだろう?というのもちょっと気になるところではあります・・・。

 

近いようで遠い・遠いようで近い美容整形という実践が、社会規範やマスコミの影響も受けつつ、身近な女性同士のコミュニケーション がトリガーになってなされているという様子は、「あぁそうだったのね」と思わされる結論でした。
なかなか直接聞く機会がない実相を垣間見せてくれるユニークな一冊でした。

 

美容整形というコミュニケーション――社会規範と自己満足を超えて

美容整形というコミュニケーション――社会規範と自己満足を超えて

 

 

地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門(著:木下斉)を読みました

家業を畳みに地元に帰った主人公が気付くと実家の再生・地元の活性化に奔走するというストーリー仕立てで、地域再生に取り組む上での心構えや留意点を伝えている本。
ストーリー自体は若干出来すぎの感もするものの、その分展開が早くてすいすい読み進められます。

章と賞のあいだにはさまれるコラムや、場面に関連して付される著者自身のコメントがなかなか毒気を孕んでいて、読んでいてニヤリとさせられます。

 

しかし全編を通じて繰り返し念押しされる補助金に頼るべきではないという著者の主張には強く同意します。公的財源が出どころの仕事をした経験がありますが、正直いまいちスッキリしないこともありました。手金でやることの方が自由がきいて後々まで効果なりインパクトが残る仕事ができるように思います。

 

着々と成果を上げていく主人公は決して凡人には見えませんが、どんな落とし穴や非難が待っているかという心の準備のために読むといいのではないかと思いました。 

 

地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門

地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門

 

 

恋文の技術(著:森見登美彦)を読みました

大学院の研究のため、大学のあった京都から石川県の研究所に1人”飛ばされた”守田一郎が、大学の後輩、先輩、元家庭教師の教え子らに送った手紙でストーリーが進んでいく書簡体の小説。書簡体小説湊かなえの『告白』以来でしたが、どちらも傑作で、面白い小説のジャンルだと思います。

 

実は守田一郎が手紙を送る宛先に著者である森見登美彦氏も出きていて、詳しくはネタバレっぽくなるので明かしませんが、フィナーレに向かって『恋文の技術』という小説を読んでいたはずの自分が手紙をやりとりしている登場人物たちのレイヤーにいつのまにか引き入れられている感覚に陥って、うまいなぁという感じでした。

文章も”飛ばされた”守田一郎のひねくれた感じが文面によく表れていて、テンポよく一気に読めます。

森見登美彦さんの作品は初めてでしたが、他も読んでみたいと思わせてくれる一冊でした。

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

 

 

ファンベース(著:佐藤尚之)を読みました

なんと今や世界中の砂浜の粒の数より情報量が多いそうである。そうなると、単発型のの広告施策はおよそターゲットに届きにくくなっている。だからこそ、今後のセールスは既に関心を持ち、好ましく思ってくれているファンをベースに行うほうが有効である。(パレートの法則の通り、セールスの多くはファンが支えている)

ファンの支持を強くするために必要な施策は下記。

〇共感を強くする
 A ファンの言葉を傾聴し、フォーカスする
 B ファンであることに自信を持ってもらう(他のファンの声を可視化する)
 C ファンを喜ばせる。新規顧客より優先する。

〇愛着を強くする
 D 商品にストーリーやドラマを纏わせる
 E ファンとの接点を大切にし、改善する
 F ファンが参加できる場を増やし、活気づける

〇信頼を強くする
 G それは誠実なやり方か、自分に問いかける
 H 本業を細部まで見せ、丁寧に紹介する
 I 社員の信頼を大切にし「最強のファン」にする

ファンをコアファンに引き上げるのに必要な施策は下記。

〇熱狂される存在になる
 J 大切にしている価値をより前面に出す
 K 「身内」として扱い、共に価値を上げていく

〇無二の存在になる
 L 忘れられない体験や感動を作る
 M コアファンと共創する

〇応援される存在になる
 N 人間をもっと見せる、等身大の発信を増やす
 O ソーシャルグッドを追求する。ファンの役に立つ

ファンの方と近しく接する前に、まずは常連さんを温かく迎える準備をすることが必要である。誰が常連さんか?何を望んでいるか傾聴する。居心地やメニューを整える。

 

答えは既存客の中にあるというのは心強いと思った。しかし、いざとなるとなかなか双方向に舵を切ると思い切れないのも正直なところ。なんでだろうと考えると、わざわざ時間を取っていただいたり、フォームなりに記入していただいて手間をかけてしまうのは悪いのではないか?という気持ちになるからだと思う。

声を聞くという意味での事後アンケートはそれとして場を設けつつ、それとは別に前向きに構想できる機会も作ってみたら、うしろめたさも軽減できるかしら。

ファンベース (ちくま新書)

ファンベース (ちくま新書)

 

 

<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー(著:知念渉)を読みました

ヤンキーと呼ばれる子たちはどのように学校生活を送り、どのように労働市場に出ていくのか ー 著者は実際に高校で<ヤンチャな子ら>と三年間を共に過ごし、中退・卒業後もインタビューを続けて分析を行った。

これまでのヤンキーについての研究は、ファッション・趣味などの若者文化、学校生活・規範との葛藤という生徒文化、出身家庭が属する社会階層という階層文化、いずれか一つに寄せる形で行われてきたが、著者はそのアプローチを排しこれら3つの側面が本人に及ぼす作用を重層的に分析している。

その結果、<ヤンチャな子ら>の集団は一様ではなく内部に社会的亀裂があること、社会関係の有無が進路選択を分けていること、が明らかになった。

 

本書は著者の博士露文がもとになっているだけあって、筋の展開はとても論文っぽい(先行研究の批判的検討→本研究のアプローチ・意義→研究結果→結果についての考察)ものの、文章は読みやすく一般書としても十分読める内容だった。

本文中には著者と子どもたちが実際に交わしたやりとりの様子も引用されているが、年頃のしかもヤンキーの男の子が抱く自分の家族への思いを素直な形で引き出しているのはすごいことだと思った。それだけ著者が子どもたちと関係性を築けていたということの現れであろう。

また一見みな同じに見えるヤンキー集団内での相対的なポジションが、本人が依拠できる社会関係の広さ・強さと関りがあるというインサイトもいい。社会関係が弱い・ないと、その場をなんとか自力でしのがなければならず、一貫性や先の見通しを欠いた進路選択を行いやすくなる。

 

本書結論から導き出される政策的インプリケーションとして著者が指摘している、貧困・虐待その他の要因で養育困難な環境下にある子ども(そして親)の社会関係を編み直す必要性があるという点には強く同感する。
財源を整え専門職を手厚く配置するという行政的介入も必要かもしれないが、普通のご近所さんたちが関われるようになれば、より早く柔軟に対応できるようにも思える。
高齢者福祉も含めてだけれども、地域の社会関係に参画できる人が増えるよう、長時間労働の制限はもっと厳しくしてもいいのではないかと思った。

 

 

インターネット的(著:糸井重里)を読みました

本書の初版は2001年刊。折しもインターネットが一般に普及しようかという頃に、インターネットそのものよりもそれを介して何ができるか、人と人との関りがどう変わっていくか、インターネット的なあり方や思考法、表現法について論じた本。

インターネット時代のあり方のカギはリンク、フラット、シェア。そんな中では情報は出した人のところに集まってくる。そして何かを作ることのコストが低減して創造すること・発信することの敷居が下がるため、作り手としての世界観・人間観・幸せ観が問われることになる。同じことは消費の側にも通用して、自分は何が好きで何を喜ぶのかに自覚的でなければならず、消費もクリエイティブにならなければならない。

 

著者の糸井重里氏は父親と同学年である。むしろ生まれは彼の方が早い。その年代の人が18年前、2001年にこれを予見していたというのはスゴイことだ改めて感服しました。例えば自分がその年齢になった暁に、その時に起きている契機についておよそ20年後にも通用するような見方を持てるだろうか?いや、同じ歳まで待たなくったっていい。今すぐにでも。

AIだ、デジタルネイチャーだと、激変を喧伝するものは多くあれど何が本質なのか、何がメルクマールなのか?よくよく考え見極め、しかも見極めたのちにはそれに飛びついてみなければならない。

さて、自分は何に飛びつこう?

 

インターネット的 (PHP文庫)

インターネット的 (PHP文庫)