「アントフィナンシャルー1匹のアリがつくる新金融エコシステム」を読みました

日本より断然進んでいる中国のキャッシュレス化の立役者、アントフィナンシャルの出自からこれまでをまとめた一冊。「アリペイやってるとこでしょ」とだけ思っていたら大間違い、という話でした。

 

スタートこそアリババ上での売買に伴う信用保証からであるものの、インクルーシブファイナンスを旗印に、フロントエンドでは決済から資産運用、保険、農村へのマイクロファイナンスといった各種金融商品の流通市場を作り上げ、バックエンドでは金融機関向けにクラウドコンピューティングやAIを使ったビッグデータ分析、セキュリティ・リスク管理といったサービスを提供しているそうで、まさに金融プラットフォーマーというに相応しいサービスラインナップが揃っています。
今のところ世界中どこを見渡しても同じようなラインナップのサービスをそろえているプラットフォーマーはないんじゃないでしょうか。
日本では新奇なもの、ちょっとコワいものとして見られることの多い個人の信用スコア「芝麻信用」もアントフィナンシャルのサービスです。

 

お金が動くシーンを作り出し(例:決済サービスが使えるオフラインの店舗・業種を増やす、農村にマイクロファイナンスの拠点を作るなど)、その流れをデータとして処理・収集できる基盤を提供し、その基盤を経由して金融機関がシーンにあう金融商品を提供できるようにつなぐという立ち位置の取り方が、なるほどプラットフォーマーとはこういう発想・立ち回りをするのか、と参考になりました。(ちなみに北京大学デジタル金融研究センターの研究者の方々が著者のもともと中国国内で刊行された書籍ということもあって、「芝麻信用」他アントフィナンシャルが有するデータの中国政府との共有の有無などには触れられていませんでした。)


中国社会の実像については全く疎いのですが、本書を通じて中国的な美徳の一端を垣間見たような気がしました。それは、上に立つ人は人々のためになることを考えぬき貫徹すべく実行する、だから安心して全てを任せなさい、そうすれば上手くいく、というような考え方です。アリババのジャック・マーと習近平国家主席を一緒にすると怒られそうですが、こうした考え方がアントフィナンシャルの包括性と中国政府の政治姿勢に通底しているように思われたのです。

はた目からはちょっとパターナリズムが行き過ぎていて自由がないようにも思えてしまうのですが、きっと中国の社会をリードする人たちからすればこれが人々のためを思えばこそのスタンスなのかもしれません。

 

いつかもっと深く中国の人と交わるときが来たら確かめてみたいと思います。

 

アントフィナンシャル――1匹のアリがつくる新金融エコシステム

アントフィナンシャル――1匹のアリがつくる新金融エコシステム

 

 

誰も農業を知らない(著:有坪民雄)を読みました

現役の専業農家の著者が農業の現実を解き明かしつつ、農業をめぐる各種提言や昨今の改革に批判的検討を加えている一冊。これだけ農地が余ると言われ続けていると、いつかどこかで関わることもあるかもしれないとなんとなく考えていたので、興味を持って読んでみました。

 

農業には製造業のように直線的に規模の経済が働くわけではない(ノコギリの刃状になる)のでむやみに大規模化すると生産性がかえって低下する場合があり自ずと適正規模があること、六次産業化と言っても二次・三次それぞれに専業業者がひしめいているのでその競争を勝ち抜いて成功できるのはごく一部であること、農業と一言で言っても場所によって環境や作物が異なっているため全体をひとくくりにして議論できないこと、など農家の方の目線に立つとこう見える、という視座がとても新鮮でした。

 

中でも農薬に対して一般で持たれているイメージがいかに悪すぎるかということ、実際には作物への残留も周囲の環境への影響も慎重に検証されていて、費用対効果も鑑みれば使わないという選択がいかに敢えて多くの労苦を引き受けることになるかという考察は、一番印象に残りました。自分も実証的なリスク分析なんか踏まえないで、印象論で忌避すべきと感じていたところがあったなぁと感じています。

 

本書を読んで、いざ農業に関わるときが来るとしたらどんな姿勢で臨めばいいか、ちょっと心構えができたような気がしました。

 

誰も農業を知らない: プロ農家だからわかる日本農業の未来

誰も農業を知らない: プロ農家だからわかる日本農業の未来

 

 

AIと憲法(編著:山本龍彦)を読みました

AIの勃興・隆盛が、憲法で規定されている原理や理念に投げかけている問いについて考察した本です。AIやビッグデータ関連の分野ではおなじみの選挙を含むターゲティング広告や信用スコアの話から、珍しいところでは教育・裁判制度まで広く取り上げられていて読みごたえがあります。

 

本書では下記のような憲法の規定・理念とAIとの衝突について指摘・検討がなされていました。

 

1.個人の尊重原理
新セグメント主義によって集団的拘束からの自由が侵害されたり(例:犯罪予知・再犯予測・入試・就職試験・融資審査など)、AI分析過程のブラックボックス化が個人の尊厳(自律)を侵害する。

 

2.プライバシー権(=自己情報コントロール権)
意図しない相手に情報が開示されたり分析されたりする。

 

3.自己決定原理(幸福追求権の一部)
プロファイリング・スコアリング・行動ターゲティング広告によって自己決定が阻害される。

 

4.教育を受ける権利
AI教材を使った個別化が「不自由を選ぶ自由」(例:成績が芳しくなくとも他の人と同じ速度で学習しついて行くことを選ぶこと)を阻害する可能性がある

 

5.教育の自由
教育の自由は人間の教師が担っており、「囚われの聴衆」である子どもたちに対し政府の言論が一方的に浴びせられるのを防ぐ防波堤となっているが、万一人間の教師が不在となればその役割が果たされなくなる

 

6.教育の機会均等
入試にAIを活用すると過去の偏りが温存され、これまでのデータでは不利とされている属性を帯びた志願者を不当に差別してしまう。

 

7.政治的代表(=命令委任ではなく自由委任)
市民の欲望の集計を政策決定に反映させる場合には、代議員による制度化された熟議を後退させる懸念がある。

 

8.表現の自由
フィルター・バブルに囲まれ公共圏でのインフォーマルな熟議が阻害される。

 

フィルターバブルや選挙や広告、プロファイリングによる差別の恐れについてはこれまでも聞き知っていましたが、教育の自由・機会均等にも影響が及ぶというのは新しい発見でした。

便利になると思って使ったサービスが積み重なると、知らず知らずのうちに憲法に掲げた理念や原理を掘り崩すことにつながりかねない、というのはなかなか恐ろしい状況です。結局AI自体が悪いわけではなく、どう使うかが問われているのだと思います。一ユーザーとしても「このまま使っていくとどうなるのか?」ということを自覚的に問い直し続けることが必要だと思いました。

 

それにしても、憲法の「個人の尊重」という規定は、多様な生き方を選ぶ権利を肯定するとても大事な条項ですね。自分の生き方が不当に抑圧・制限されているんじゃないかと感じる方たちにもっと声高に活用されてもよさそうなものですが、そうされないのには何か理由があるのでしょうか…。また別の機会に調べてみたいと思います。

 

AIと憲法

AIと憲法

 

 

デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義(著:福田直子)を読みました。

最新のデータサイエンスとSNSが合わさって、世論形成や人々の投票行動にどのように影響を与える可能性があるかを紹介した本です。
著者ご自身がドイツ在住でいらっしゃるということもあって、ネット選挙最先端のアメリカに加え、ドイツやヨーロッパの事例も取り上げられているのが興味深かったです。
(なぜAfDが躍進しているのか、カタルーニャの独立を問う国民投票やイギリスのEU脱退を問う国民投票の例など)

 

中でも一番読みごたえがあったのは、ケンブリッジアナリティカ社を初めとするデータに基づく心理分析を踏まえて広報PRに当たるトランプ大統領選挙対策チームの動きの紹介と、ロシアによるとされるボット等を利用した欧米諸国でのディスインフォメーション活動を通じた民主政治の攪乱の話しでした。

 

トランプ陣営は浮動層をターゲットに、相手によってはトランプ支持に引き込むため、また敵対相手の支持者に対しては投票に行く気を削ぐため、個別化された広告やニュースフィードを読ませたりしていたのだそうです。

またロシアも同大統領選で、反ヒラリー的な偽情報をボットを使って大量にばらまき、そのような雰囲気を作り出していたと言います。ブレグジット国民投票やドイツの2017年の連邦議会選挙でも同じような介入(ドイツの場合、難民によってロシア系ドイツ人の少女がレイプされたというニュースが捏造であった可能性があるとのこと)があったと見られているそうです。

正直各国で劣勢に立たされた政治勢力がロシアを悪者にして人々の目を外に向けさせようとしているのではとちょっと思っていたのですが、本書を読んで実際介入が繰り返されているようだということが分かってきました。

本書でもサイバー戦争では発電所を狙うか?という節があったのですが、今やもっと根深いところで社会を機能不全に陥れようとする策動が常に繰り広げられていて、まさに常在戦場という新常態にあるのが実情なのだなと感じます。

 

プラットフォーマーが集めた個人情報により私たちが細分化され、個別化された情報(そしてフェイクニュースなどのディスインフォメーションも)が届けられるとしたら、もはや投票によってどんな社会的意思が示されたことになるのか全く判読不能なのではないでしょうか。個々人の間で接している情報や支持するに至った理由が重なりを失って行く先には、民主政治の機能不全が待っているとしか思えません。
こういう環境下で「政党」というまとまりは何を意味していくことになるのでしょう…

EUが個人情報やプラットフォーマーへの規制を強めているのはアメリカへの対抗心から来ている部分が大きいのではとうがった見方をしていましたが、自分たちの社会を分裂と機能不全から守らなければならないというかなり深刻な問題意識もあったのだなと思い直しました。

 

それにしても、ちょっと前まで土地が果たしていたような資産的な働きを、今は個人情報が果たしているのだとつくづく思います。
保有している個人情報については「登記」し、移転や譲渡する際にはきちんとトラックできるようにし、資産課税を課すことが、個人を守り、新たに生まれる格差を埋める財源を生む策なのではないかと思うのですがどうなんでしょう?? 

 

 

フィルターバブル ― インターネットが隠していること(著:イーライ・パリサー)を読みました

インターネット体験のパーソナライゼーションとその弊害について説いた一冊。

 

検索、ページ閲覧、クリック、いいね!、購買などなどインターネット上のあらゆる振る舞いはトラッキングされ、データとして蓄積され、分析され、画面の向こう側から見た「わたし」の像を私自身が知らない間に描き出している。その収集されたデータや描かれた「わたし」像は、ウェブサービスの利用体験を向上させ利用頻度を上げたり滞在時間を伸ばすために使用されるほか、モノを売りたい主体や、投票行動を方向付けたい政治勢力に販売され、広告やインフォマーシャルとして届けられる。このようにして、ひとりひとりのインターネット体験がその人特有のものに個別化されていくーーこのことは一見ユーザーにとって見たいものがすぐ見られるという快適さを増しメリットをもたらすように見えるが、実際には本人があずかり知らぬところで進行するプロセスで、問題も孕んでいる。

 

本書で指摘されているのは、下記のような問題です。

・不愉快かもしれないが大事な話題/情報が届かなくなる
・異質なものとの出会いがなくなりイノベーションの機会が減る
・「自分ループ」から抜け出せなくなる
アルゴリズムが描き出した「わたし」像を知ることはできず、訂正する機会もない
・共有される情報が減り公共圏が成立しにくくなる
・購買行動や政治的選択・世論を知らない間に誘導されてしまう
・どのようなデータを集め、どのように扱っているかについて、プラットフォーマーが説明責任を負っていない

 

この本を読んで真っ先に感じたのは、「しまった!」ということ。本書の原著が刊行されたのが2011年、日本語版の単行本が発行されたのが2012年。今から7~8年前にはもうこの問題が指摘されていたということです。「アクシオム」という個人データの会社のことも、そんなに活発にユーザーデータが取り引きされていることも本書で初めて知りました。薄々「どうなのかなぁ」と思いつつも、それとはっきり認識せぬまま7~8年も過ごしてしまったことが「しまった!」でした。

実感として最近自分の想定外のことに出くわすことが前より減ったなと感じていて、それは自分が歳を取って新鮮に驚ける感覚を失いつつあるのではないかという危機感めいたものを抱いていたのですが、情報への接し方が「自分ループ」にはまりつつあることも一因だったのではないかと思います。

 

「自由」というのは思春期の頃から自分を形作ってきた大事な価値観なのですが、その根本となる「知ること」がそれと気づかぬうちにフィルタリングされ、「選ぶこと」さえも影響を及ぼされていると考えると、自分はおよそ「自由」とは言えない状況に置かれているのではないかと感じてしまいます。

きっとこれは「なんかあるっぽいけど、みんなそうしてるし、ま、いっか」と看過せず、立ち止まって考えてみることが必要なテーマです。

ユーザー側にいる人たちのことはもちろんのこと、個人情報を収集・分析・ターゲティングする側にいる人たちの顔も浮かんでくるのですが、みんなこういう状況をどのくらい分かってそうしていて、そのことについてどう思っているんだろう、というのを一度ざっくばらんに聞いてみたいなぁと思いました。

 

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)

 

 

ソーシャルメディアと<世論>形成(著:遠藤薫)を読みました

ソーシャルメディア、世論形成それぞれにまつわるトピックやケーススタディを広く取り揃えている一冊です。

 

誰もが発信者になれるソーシャルメディアが発達したことで、旧来のマスメディアが情報伝達を寡占する時代が終わり、クロスメディアが当たり前となる時代(著者の言葉では感メディア社会)になってきていると著者は指摘しています。
こと政治については、オバマ大統領が誕生する過程で顕著であったように、ビッグデータ化された個人のプロフィール・嗜好を踏まえたターゲティングと情報発信がなされ、選挙結果を左右するほどになっている。それに対しマスメディアやジャーナリズムの側の分析力、テック対応が進んでおらず、権力の側からの影響力行使を監視する力が弱いことを指摘しています。
日本についても自民党のネット選挙への対応が紹介され、データによる有権者の志向の分析やメディア横断的な情報発信に取り組んでいる様子が取り上げられていました。

 

個人的に本書で一番新しい発見があったのは、著者と津田大介さんの対談のパートです。お名前は度々拝見していた津田大介さんの来歴や、なぜそれらに取り組んでこられたのかという「つもり」の話を初めて窺い知ることができました。

 

ソーシャルメディアによる世論形成の全体像・モデルのようなものを析出するを期待するという方よりも、関連のあるトピックの広がりや考える切り口を広めにさらいたいという方向けの本だと思います。

 

ソーシャルメディアと〈世論〉形成

ソーシャルメディアと〈世論〉形成

 

 

ふたつの日本「移民国家」の建前と現実(著:望月優大)を読みました

ニッポン複雑紀行で編集長を務め、在留外国人や移民のルーツを持つ子どもたちの様子をリポートしてきた望月優大さんの手になる「移民」についての新書が出たので読んでみました。

 

本書で望月さんは、留学、技能実習日系人など、日本が本音(=雇用調整しやすい安価な労働力が欲しい)と建前(=人材育成策として期間限定で受け入れる)を使い分けてとってきた外国人受け入れの各種制度と実態を概観しながら、既に日本が実質的に移民国家となっていることを明らかにしています。
詳細は本書に譲るとして、日本に滞在する外国籍の人々や帰化した人とその子どもたちなど外国にルーツのある人々を足し合わせると、その数はすでに400万人を超えているそうです。今でさえ人口の3%を占めていますが、今後いわゆる日本人が少子化で減っていく一方、外国ルーツの人々は増えていくでしょうから、比率はさらに上がっていくと考えられます。
その上で、外国人労働者を単なる使い勝手の良い労働力としてではなく、1人の人間として向かい合っていくべきだ、という指摘をされています。

 

かつてのようにアジア各国と大きな物価差があり、札びらで顔をはたくような失礼な扱いをしても「一時だけ我慢すれば・・・」と思われていた頃とは違い、数十年物価が全く上がらずみるみるアジア各国との差が縮まっている中では、日本としても「どうやって行き先として選ばれか」を真剣に考える必要があると思います。

その際、交換可能な労働力としてではなく、一個人として・一人の人間として人権と尊厳を尊重されるというのは必要最低限の条件であって、それさえ守られないのではやがてスタートラインにも立てなくなる日も来るのではないかと感じてしまいます。

本書で取り上げられている技能実習生や留学生の実情を目にして胸が苦しくなりました。

 

本書の終章「ふたつの日本」の中で平成の時代を振り返って望月さんが指摘されているのは、平成は「大いなる撤退」の時代であったということです。平成に進んだ労働力としての外国人受け入れと日本人の間での非正規雇用の増加というのは別々に起こったことではなく、いずれも集団のために個人の力を利用しつつ個人を守ることからは手を引き本人の自己責任に帰せしめるという力学の表れでした。
ジグムント・バウマンが訴える「撤退」のもともとの英語表現は Disengagement であったそうです。それは engagement 、つまり関与しなくなること。「誰が」かというと、国や企業が、「誰に」かというと一人一人の個人に。
望月さんも指摘している通り、「移民」への Disengagement は矢印の方向がちょっと変わればすぐに私たち自身への Disengagement へと転化しうるもので、これはあっち側の誰かの問題ではなく、こっち側のわれわれの問題であるという認識が必要だと思います。

 

日本がなんとか社会の安定を保ち、ハード・ソフト両方のインフラが持ちこたえているうちに、一種世界のサンドボックスとして国を開き、この環境を使って本人の資質を存分に発揮してもらえるようきちんとした社会の成員として外国から来る人々を迎え入れることが、自国籍の国民だけでは自分たちの生活を支えることさえままならなくなってきた日本ができる世界への貢献なのではないかと思いました。

 

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)