だって未来があるじゃないですか。

『ワタクシはもっと誰かのために何かできないものか?』

他者の他者としての余白を持つということは、あっさり言ってしまえばそういうことです。

誰を『誰か』に選ぶかは人それぞれだと思いますが、自分の場合、“途上国の子どもたち”を、その『誰か』に据えています。

なんで途上国の子どもたちかって?

だって 、子どもたちには未来があるじゃないですか。
それも、今厳しい環境に生きていて、そのままだったらその子が将来実現させらるかもしれないあんなこと・こんなことが絶対に実現できない、それを少しでもやわらげたり環境を良くしたりできたら、その子本人にとってもハッピーな未来が拓けるだろうし、世界にとっても何かその子でなければ果たせなかった成果や貢献が得られてやっぱりハッピーになりそうじゃないですか。

思い切って単純化すると、イメージはこんな感じ↓です。 

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縦軸にその子が達成できたかもしれないこと、横軸に年齢をとってみます。

aがベースケース。何もしなければこんな感じの一生を過ごすとします。

対するbがハイケース。体が健康で、勉強を続けられて、などの諸条件が整えば、これだけのことができるかもしれません。(点線がどれだけの傾きになるかは本人の努力と運による部分もあります)

このbとaに挟まれた三角形っぽい形のところ全部が、いわゆるその子の未来ってやつです。

逆に病気になって動けなくなってしまったり、社会からの疎外感を感じて犯罪やテロなどの暴力行為に加担するようなことになってしまえば、a´のようなローケースの経路へと移行します。
そのbとの差たるや!

子どもたちは先が長いだけに(生き延びられれば、という条件付きですが)、子どもである時期にきちんと環境を整えてあげられれば、その後積もり積もっていく効果がとっても大きなインパクトを生むはずです。

だから、ワタクシは、より厳しい環境に生きる“途上国の子どもたち”を『誰か』に選んでいます。

 

という理屈っぽい理由とは別に、個人的な原体験もあるのですが、それはまた別の機会に!