バングラデシュの小学校×アート教育?

今さらですが、私は自分を左脳人間と自認しています。
楽器は一切弾けませんし、絵もここ最近はアンパンマンくらいしか描いてません。
だからかえってということもあるかもしれませんが、最近いろんなこと(例えばAIとか子どもとか)がきっかけでアートについて考える機会が増えてきました。

 

中でも最大のきっかけになっているのは、やはりバングラデシュの小学校のことです。
実は、かの地の小学校には、図工や音楽などのいわゆる芸術系の科目が一切ありません。(ついでに言うと体育も)
『それって子どもの情操的にどうなんだ?』と思い、じゃあ授業時間外や自分たちがツアーで行った時にできることで、どんな体験を子どもたちにしてもらうのがいいんだろう?と妄想を始めたのですが、これが意外と奥深い問いでした。

 

確かに自分たちも小学校・中学校・高校と、図工、音楽、書道、美術と色々なアート系の授業は受けてきました。しかし、単純にそれ(の短縮版)を再現すればいいってもんじゃないだろうと思います。
実際子どもたちは教わらなくたって歌は歌っているし、踊りが上手な子もいるし、毎年のツアーでは必ず歴史物の演劇を披露してくれるし、作って持っていった折り紙とかあっという間に解体してオリジナルの作品に仕上げちゃうし、お勉強として習わずとも子どもたちなりにできているところもあるという現実があるのです。
だとしたらもう何もやることはないかと言うと、そうでもないような気が・・・。

 

人に話聞いたり、本読んだりもして、ぐるぐる考えて、自分なりにひとつの答えにたどりつきました。
それは、アートは一種のコミュニケーション手段であって、アートを教わる・学ぶ上で一番大事なのはリテラシーを身につけることなんじゃないか、ということです。

経験的に、優れた作品が鑑賞者の心を動かすのは作り手が作品に込めた思いや気持ちが届くからなんじゃないかと思います。
 作品はメディアであって、大切なのはそれを介してやりとりされるメッセージ。

もしそうなら、作品を作る上での技術やテクニック・鑑賞する上での蘊蓄うんぬんより、自分の中の大切にしていることや気持ち・想いに形を与えていく上で色んな形の表現手段がどう使えるのか、はたまたひとつの作品を前にして作り手の意図を自分なりにどう受け止めるのか、ということを身につけていく方がよっぽど本質的なのではないかと思うのです。

 

その上でバングラデシュの小学校のことに立ち返ると、実はわれわれが1年に一回現地を訪れて色んな形で子どもたちと戯れていること自体、アートのリテラシーを上げることにつながりうるのかもしれません。
毎年準備してくれる演劇もそうですし、それ以外にも子どもたちはありとあらゆる方法で、コミュニケーションをとろうとしてくれます。
それを受け取り、何が伝わってきたのか、それをどう感じたのかをしっかりフィードバックすることが、何よりのコミュニケーション手段としてのアートの体験になっているのかもしれないなぁ、と思うのでした。

 

小学校のある村に通い始めてはや6年。
最近古株のメンバーにはだいぶ慣れてきて「ああ、また来たね」と思われている感も否めませんが、また今年も『伝えようとしないと伝わらない他者』として立ち現れ、リアクションしてこようと思います。