RED―ヒトラーのデザイン(著:松田行正)を読みました

ヒトラーが大衆操作に用いたデザインを解説した書。

 

ナチ党のシンボル・ハーケンクロイツの運用だったり、ポスターのアングル・陰影の使い方だったり、直線的な設計だったり、過去に成功した事例とモダニズムの要素(モダニズムそのものは嫌悪していたらしいので、あくまで要素)をうまくミックスして、大衆の心理に訴えかけるブランド・デザインが、ヒトラーは天才的にうまかったらしい。

 

やや下からあおり気味に撮られた遠くを見据える顔のポスターで力強さを演出したり、色を使ったイメージづくりを行ったり、大勢に同じ動作(行進など)を繰り返しさせてひとりひとりの思考能力・判断力を奪っていったり、宗教的な要素を取り入れてみたり、日本の政党でもやってるねぇというテクニックが出てきて、「ははぁー、これか!」と随所で膝を打ちたくなりました。

これを全部統一的なディレクションのもと貫徹させるとあのような熱狂的な支持が生まれてしまうんだなぁ。日本の政党は不徹底でよかったと思うと同時に、紙一重なのかもしれないと、ちょっとうすら寒くなりもしました。

 

映画や写真、新聞・ポスター等の資料もふんだんに掲載されていて、ヒトラーのデザインの仕掛けを視覚的にも感じられる一冊です。

 

RED ヒトラーのデザイン

RED ヒトラーのデザイン

 

 

<弱いロボット>の思考ーわたし・身体・コミュニケーション(著:岡田美智男)を読みました

ごみを集める、他愛のない会話を続ける、など人間と共同で何かをするロボットの製作を通じて人間のコミュニケーションの特徴を研究する著者の本。
人工知能、ロボット、自己、コミュニケーションデザイン、身体性、引き算のデザイン、余白、共有された志向性など、フックになる切り口がたくさんあった一冊でした。

 

個人的にうれしかったのは、経験的に感じていたことに言葉を与えてもらったこと。

 

 

もう数年前、友人と奄美大島へ旅行に行ったのですが、その時移動するレンタカーの中で、お互いが人生において何を大切に思っているのかなど、相当深い話をすることができた、という経験があります。普段カフェや飲み屋にいてもなかなかそこまではいけない、というような深い話ができて驚いたのを覚えています。

運転席と助手席に並んで座りながら通り過ぎていく奄美大島の風景を一緒に眺め、それがいい刺激だったのかね、なんて話していたのです。
おりしもその日は小学生だったか中学生だったかのロング・ウォークの日にあたっていて、まばらに歩道を歩く生徒たちや、生徒たちを応援している地元の方々の姿を横目に見ながらのドライブでもありました。

 

あれ以来、車で、特に横並びに座りながらの会話には何かあるとうっすら考えていたのですが、この本を読んでそれがどういう仕組みで起こったのか、窺い知ることができたのです。

 

ひとつには、私たちは、ひとまず自分の外側に対して働きかけてみなければ自分を認識できない、システムとしてオープンな・不完結な身体であるということ。

例として挙げられていたのは、自分の目の内側から見たままの自画像を描こうとすると顔を描くことはできず、他社のリアクションを通じてしか自分を見られないということや、自動車の運転に習熟する過程では、自分の動作の結果はそれによって車がどう動くか・景色がどう移っていくかを知らなければならないということ。

ドライブで景色が流れていくさまは、自分が本当のところどう思っているのか内省し理解するのにいい環境であったのだと思います。

 

ふたつめには、<並ぶ関係>の効用。

この対義語が<対峙する関係>なのですが、ようは二人が第三者的な媒介物に向かっている関係のことを指しています。媒介物を前に並ぶ関係にあるとき、人は「相手もこう考えているだろう・こうするだろう」というなり込みが働き、自他非分離な間身体的コミュニケーションが起きやすくなるそうです。

実は例のドライブ中にもこれは前の席と後ろの席では起きなかったよね、という話は出ていたのですが、まさに運転席・助手席で並んで奄美の風景を目にしていたことで、この自他非分離なコミュニケーションができていたんじゃないか、と気づきました。

 

 

本書で例として取り上げられていた、自己完結的に機能を果たすのではなく、人間に半ば委ねるような、人の関わりしろ・余白を残したロボットのことを著者は<弱いロボット>と呼んでいますが、この<弱いロボット>、今後ロボットと人間が共生していく中で幸せな共存・協働の形を考える大きなヒントのような気がします。

著者も指摘している通り、機能が自己完結しているロボットに対しては、ロボットに対する人間の要求水準が際限なくエスカレートしていく。これに対して人の関わりしろが残っている<弱いロボット>では、お互い不簡潔な存在として支え合うのでそんなことは起きない。

これは例えば介護にロボットを投入する場合においても、過大な要求がされるのを防ぎ、なにより介護を受ける人本人の自活力を維持するため、必要な設計思想ではないかと思うのです。

そして介護に限らず、人間がロボットを使っていたつもりがいつの間にかロボットに人間が使われていたという事態に陥らないためにも、奉仕者=ロボット vs 被奉仕者=人間 を超える関係を築くことが必要なんじゃないかと思いました。

 

んー、ポイントがたくさんあってまとまりきらないですが、コミュニケーションはとりあえずでおずおずと差し出してみることから始まるというのも本書での指摘でしたので、ひとまずこのくらいのところで本稿は終わり!

 

 

ボコ・ハラムーイスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織(著:白戸圭一)を読みました

毎日新聞記者の著者の手による、少女200人以上を誘拐し世界に衝撃を与えたボコ・ハラムの誕生から今日に至るまでの系譜を追った本。 

 

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ナイジェリアは、人口成長率が経済成長率を上回りひとりあたりGDPが下がるような経済停滞の時期を経験した後、資源価格上昇の波に乗り2003年~2012年の平均成長率が5.9%という高度成長を遂げる。
しかし世界数多くの資源国の例と違わず、この成長の成果はナイジェリア国内で均等には配分されず、腐敗や大きな経済的格差を生み出した。それと同時にこの間も人口は増え続けたため、失業状態にある若年層も増えていった。

こうした社会の歪みの原因を西洋型の政治・経済制度に求めた一部のイスラム教徒は、イスラム法シャリーアの導入と厳格な運用を求めるようになる。
その声を受けイスラム教住民が多数いるナイジェリア北部の諸州では、選挙の際シャリーアの導入をかかげる政治家も出てきたものの、いざ当選すると実際に運用することはなかった。

これを裏切りととらえ既存制度への不信・不満を募らせたグループが、イスラーム反政府運動を展開し始める。
そしてボコ・ハラムも、その起源をたどればこうしたイスラーム反政府運動組織のひとつに過ぎなかった。

 

しかし拘束された指導者が獄中で警察官により射殺されたこと、治安当局の弾圧を受け国外に一時退避したメンバーがソマリアアルジェリアアルカイダとかかわりのあるテロ組織と接触したことから、ボコ・ハラムはグローバル・ジハードを掲げたテロ集団に変容していく。

正規軍と正面衝突しても勝ち目のないボコ・ハラムにとって、衝撃的な手段によりテロ行為を行うことは、グローバル・ジハードの系譜に自らを位置づけ、ヒト・モノ・カネを呼び込む手段であった。こうして一躍世界にその名を広めることになる少女の集団誘拐事件を起こすに至ったのである。

 

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イスラーム国に関する書籍でも述べられていましたが、基本的に人がテロ組織に走る原因は同じところにあるように思います。

雇用機会が十分でない中、一部の富める者は富み、他多数は失業など不安定な就労状態が続く。
既存の制度を見てみても、腐敗が横行し、すでに経済的・政治的パワーを有した人たちに有利に働いているように思われ、それを制度内の方法で正す可能性が見いだせない。これは宗教的には堕落した状態であり、イスラーム本来のシャリーアに基づく社会統治を実現しなければ回復できない。
だから体制転換のための聖戦=ジハードが必要だ。

大まかに言うとこれがテロに走る人たちの思考回路にあるようです。

(ちなみにこう考えるようになるには社会を俯瞰してみる視点が必要なため、テロ組織に加わる人の中に高学歴の人が多いのはある意味さもありなん、なことなのだそうです。)

 

著者も指摘の通り、テロ組織にとってはグローバル・ジハード=資源(ヒト・モノ・カネetc.)を集めるために必要な旗印、すなわち「ブランド」となっている。

そのことも踏まえて、テロ(とテロ組織に走る人)を減らしていくためにはいくつかの段階が考えられるんじゃないかと思います。

〇グローバル・ジハードの「ブランド力」を低下させる。それにはもっと有効かつクールな解決策のオプションが必要。

〇既存社会にみられる歪みを正す方法はシャリーアの厳格な導入・運用しかない、という接続関係を切れないだろうか?食品にハラルがあるように、法・制度にもシャリーアそのものではなくともイスラム適合的であるというハラルの認証が付与できないか?

〇もっとも、一番根源的な解決策は、雇用機会の拡大その他の方法によって社会参加・一定の経済力獲得の機会を提供し、ガバナンスを改め、より広い社会的包摂を実現すること。

 

法曹の世界にリーガルマインドがあるように、シャリーアにもより抽象的な次元でのマインドがありえるんじゃないか(字面を超えた解釈を禁じる考え方もあるかとは思いますが)。
両者をメタ化した上で接点を探り、現実の制度に落とし込んでいくという作業ができれば、既存のシステムから排除されていると感じるテロ予備軍を減らすことができる、と考えるのは楽観的過ぎでしょうか。

 

ボコ・ハラム:イスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織

ボコ・ハラム:イスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織

 

 

日本の長い敗戦ー敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか(著:橋本明子)を読みました

太平洋戦争の敗戦というトラウマを日本社会がどう乗り越えようとしているのか、その乗り越え方がどう安全保障政策や外交姿勢、国民の政府への信頼感に現れてくるのか分析した一冊。アメリカの大学で社会学の教鞭をとっている筆者が著した"The Long Defeat - Cultural Trauma, Memory and Identity in Japan"という書籍を、日本人向けに編・訳したもの 。

 

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戦争の体験、分けても敗戦の体験は、敗戦国の人々にとって受け入れることが難しい記憶となる。筆者は本書で、日本で見られる敗戦やそこから引き出される教訓を語り継ぐ「語り」を英雄、被害者、加害者、の3つの類型に整理している。

 

英雄の語りでは、戦争で散っていった日本兵は祖国を守るため命を投げ出したのであって、私たちの今の繁栄は彼ら英雄の犠牲の上に成り立っている、という語られ方をする。

被害者の語りでは、戦争責任の所在を明確にすることを往々にして避けつつ、戦争に巻き込まれ命を落とした日本兵や一般人、特に戦争末期の銃後の暮らしの厳しさが語られ、戦争は絶対に避けなくてはならないものと語られる。

加害者の語りでは、アジア近隣諸国で行った植民地支配や残虐行為の罪責を認め、謝罪と和解が必要であると語られる。

 

これら3つの語りに対応するように、敗戦からの道義的回復を図ろうとするアプローチも、ナショナリズム(英雄)、平和主義(被害者)、国際協調(加害者)の3パターンに分類される。

大まかに言って、ナショナリズム憲法改正・集団的安全保障に積極的で「普通の国」になることを目指し、平和主義は護憲・反戦主義を貫くことを主張し、国際協調は謝罪と和解を最重要視する。

 

このように敗戦の物語とそこからの回復のアプローチは、それが交じり合わないまま並存してきたが、文化的トラウマを抱えていること自体、国民がアイデンティティを刷新していく契機となる。

「日本の道義的回復は、国民としての新しい自己を形成し、日米同盟の次元を超えた政治的アイデンティティを構築することなしには達成できない。」

 

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平和主義を掲げ、敵をなるべく作らないような外交的努力もし、国連他国際機関にも一定の貢献をしてきてなお、日本は太平洋戦争についての反省が足りないと指摘される所以が本書を読んでよくわかりました。

日本の平和主義は、戦争責任を認め反省したところから生まれたものではなく、身近な人や同胞が命を落とすような道を選んでしまったことへの悔恨や、世界における道義的地位を高めたいという道義的回復の手段として選択されている。
そこに戦地で行ったことへの反省が含まれていないからこそ、自己憐憫だと批判されやすい。

 

また、敗戦の記憶を語り継ぐ具体的な場・メディアとして家庭、学校教育、マスコミの3者を取り上げて分析されていましたが、その内容も説得的で興味深かったです。具体的内容はぜひ本書を手に取って読んでみてください。

 

本書を読んで一番心に残ったことは、このまま進むとよくない結果になりそうだと思った時に何もしないでいることは、責任の放棄であるということ。
敗戦の記憶の例からみるに、事後振り返る際、自分が何もしなかったことは棚に上げられがちで、自分を巻き込まれた被害者として正当化したくなる心理が働く。
平和主義者のアプローチでさえ、戦争は断絶した過去の体制・社会が引き起こしたことと一線引いた向こう側の出来事と位置づけている。

でも、これはすごく身近な例で言えば、いじめが起きている教室内で見て見ぬふりをすることと同じ。

だからと言って、これはという時、街に出てシュプレヒコールを上げればいいということではないのだけど、インターネットもSNSもあって昔より発信することが容易になった分、これは変だなと思った時はちゃんと自分の声を発しようと思ったのでした。

 

 

 

わたしが正義について語るなら(著:やなせたかし)を読みました

ご存知アンパンマンの作者、やなせたかしさんの著作。

ポップなメロディーでなにげなく口ずさめてしまう「アンパンマンのマーチ」ですが、メロディーを外した歌詞だけ取り出してみると、結構厳しい問いを突きつけています。

 

なんのために生まれて なにをして生きるのか

答えられないなんて そんなのはいやだ!

 

なにが君のしあわせ?なにをしてよろこぶ?

わからいまま終わる そんなのはいやだ!

 

という歌詞を書いたやなせさんの正義についての話なので、どんな内容かしら?と興味を持ったのがきっかけ。 

ご自身の生い立ちや太平洋戦争の従軍経験を踏まえ、やなせさんが考える正義とその実践方法について述べられていました。

・100%の正義も100%の悪もない。正義は反転する。反転しない正義は貢献と愛だけ。

・やなせさん自身にとっては子どもを飢餓から救うことが一番の正義。

・正義の実践には痛みを伴う。

・正義はそれぞれが自分のやり方・得意な方法で実践すればいい。ただし得意なことを活かすにはそれを一途にやることと、他にもうひとつ武器を持つといい。

・まずは身の回り10人を幸せにする。それが積み重なると全体がよくなる。

 

正義についての内容もさることながら、一番驚いたのは、やなせさんの仕事の幅広さ。
てっきりずっと絵本作家をされていたのだろうと思っていましたが、もともとはマンガ家志望でいらしたそう。
マンガの連載をされていた時期もあったそうですが、ときに舞台演出をされたり、手塚治虫のキャラクターデザインをしたり、テレビで漫画の描き方を説明する役で出演したり、詩とメルヘンを集めた雑誌を発刊されたり。そしてアンパンマンの絵本を初めて世に出されたのは54歳のときだったんですって。
本書にも『虚仮(こけ)の一念』という言葉が出てきましたが、目の前に来た仕事を一途にやり続けることが運をつかむことにつながるんだなぁと改めて実感させられました。

焦らず、たゆまず、しなやかに続けていけば、アンパンマンほどの特大ホームランは打てなくとも、外野に抜ける単打ぐらいは打てるようになるかなぁ、余白を拡げる世界で。

 

アート×テクノロジーの時代 社会を変革するクリエイティブ・ビジネス(著:宮津大輔)を読みました

チームラボ、タクラム、ライゾマティクス、 ザ・ユージーン・スタジオという最先端技術を駆使してアート表現を生み出している4社がなぜそれほどまでに注目を集める作品を世に送り出すことができるのか、それぞれの作品制作の過程や、発想の仕方、組織運営方法面から分析した一冊。

 

チームラボって改めてすごい集団ですね。
「世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う」が伊藤若沖の“枡目描き”をモチーフにしつつその手法をデジタイズしている例が紹介されていましたが、日本の古くからの文化と最新技術を融合させてクリエイティブを生み出していて、世界で評価される作品は目新しいだけじゃなく、やっぱり表現に奥深さがあるんだなと改めて感心。
ただ何せ現物を未体験なので、直近の機会があったら絶対体験しに行こう。

 

それと、本書内でタクラムのプロブレム・リフレーミング(課題そのものの枠組みを問い直すことで、その本質に迫る)や、ザ・ユージーン・スタジオの「一般車の死」の予言などが取り上げられていましたが、課題解決型の“デザイン思考”の対極にある課題提起型の“スペキュラティブ・デザイン”の実践方法を垣間見ることができて刺激的です。

あいにく自分は芸術作品・インスタレーションとして提示する表現手段を今のところ持ち合わせていないのですが、こういう「そもそも」の問い直しは好きなほう。きっと延々飽きずにやることもできる。
いつか何らかの形で「これはそのつもりでやりました」って言えるプロジェクトをやりたいなぁ。

 

 

引き裂かれた道路ーエルサレムの「神の道」で起きた本当のこと(著:ディーオン・ニッセンバウム)を読みました

エルサレムに4年間駐在したウォールストリートジャーナル記者の著者が描いた、かつて東西エルサレムを分けていたアブトル地区・アサエル通り沿いに住む「普通の」人々の暮らしの様子。 

 

アサエル通りを挟んで、西側にはユダヤ系の人々が、東側にはアラブ系の人々が住んでいた。ひとくちにユダヤ系、アラブ系といっても、2陣営に真っ二つに分かれるわけではない。ユダヤ系の中には、中東の各国からイスラエルに移住してきた、アラブ系イスラエル人もいる。

イスラエルユダヤ人の国である」という国家のアイデンティティゆえに、アラブ系住民への差別的待遇を受けることもある中、ユダヤ系・アラブ系どちらの住民もそのことに多様な意見を持っていて、ユダヤ系住民の中にも待遇の差を認め正すべきと考える人もいれば、アラブ系住民の中にも一定の生活インフラや行政サービスが提供されることを評価する人もいる(特にパレスチナ自治機構に比べて)。

 

民族や宗教でひとくくりにせず、そういう機微を含んだ双方の住民たちの葛藤や交流が偏りなく描写されていて、とっても興味深い本でした。

ありきたりですが、「うぉ、エルサレムの現実ってこうなんだ!」と。

銃声が響いていたり、車が突っ込んだり、暴力と隣り合わせの緊張を強いられる一方、道の東西またいでのご近所付き合いや、共存に向けたコミュニティ活動も展開される。

親はやはりというか、もちろんというか、「無事今日帰ってくるだろうか」とっても心配しながら子どもを学校に送り出す。

 

ニュースではセンセーショナルな映像しか飛び込んでこないけれども、多くの普通の人たちは普通の暮らしを続けていけることを願っている。

ユダヤ系・アラブ系両陣営間の緊張が高まるのは、そういう日常の営みとは別の次元で始まることなのに、お互いの「普通」が何か、普段から交換していなければ、日常の生活の中にも猜疑が入りこみ大きくなっていってしまう。

近くにいるだけ、というのは、問題を大きくややこしくしかねなくって、近くにいるほど互いのことを知り合う機会が大切なんだなと思いました。

 

あと、本書で嬉しかったのは、アラブ系・ユダヤ系住民の相互理解促進のため、両方の子どもたちが合同で合唱団を作っていたのですが、その合唱団が日本へリサイタルしに行ったと触れられていたこと。
どこがかは分かりませんが、きっとどこか招聘元が日本にあったに違いない。
いいことやってるなーって、うれしくなりました。

 

引き裂かれた道路: エルサレムの「神の道」で起きた本当のこと

引き裂かれた道路: エルサレムの「神の道」で起きた本当のこと