弱いつながり 検索ワードを探す旅(著:東浩紀)を詠みました

今日的な意味での『旅』の真価とはなんだろう?

ストリートビューを開けば、世界中いたるところの街並みを、景色を、自分の居どころでたちどころに目にすることができる。
SNSを除けば各スポットの映える写真・動画がアップされている。
旅は2次情報を追いかけ、なぞり、追認するだけのものでしかないのか?

はたまた、都市から地方に移住する人や多拠点生活する人が増え始めるにいたり、さらっとうわべだけをなでるように各地を訪れる旅に、人は手ごたえを感じるのだろうか?

 

そんなもやっとした問いを抱えていたところ、たまたまこの本に行き当たりあっという間に読み終えました。本書の論旨としては、

・環境の産物にすぎない人間が、すこしでもかけがえのない自分を生きるためには、意図的に環境をかく乱するしかない

・特に、SNSでのエコーチェンバー現象や、フィルタリングのパーソナライズが進んだインターネットは環境を固定化する傾向が強い

・固定化から逃れるためには、インプットを変えることが必要であり、そのためには身体を置く環境を変える=旅に出るしかない

・村人でも旅人でもない、観光客として、日常にたまにノイズを入れる生き方もいいのでは

・軽薄で無責任な観光客だから弱いつながりのネットワークを張ることができる

・実際に行ってモノに身を晒すと言葉による解釈を超えた動物的反応が起きる、そこで抱く「憐み」に連帯の可能性を見出すことができる

といったところ。

 

それで、もともと抱えていた問題関心への応答で言うと、実際に旅に出ることにはそれでもやっぱり意味がある(と著者は言っている。)
VRのヘッドセットを取ってすぐに現実に戻るのではなく、身体を移動させる時間がかかるということが大事で、その移動の時間に違った環境からのインプットを得て新しいワードでの検索を試みようという欲望が生まれる。
それに、ネット上には言葉になったものしかアップロードされていない。でも言葉に依存して生きている以上、言葉にならないもの・経験を言葉にする努力は常に必要である。それには言葉に先立って言葉にならないものに触れに行く、つまり旅して経験することが必要になる。
人がどれだけ情報フィルタリングや環境から逃れられなくとも、その中で豊かに生きようとするには、検索する言葉を豊かにするしかなく、それには旅することが有効だ、というのが著者の主張。

 

もうひとつの移住・定住と無動の間の点では、観光客でも十分である(と著者は言っている。)
確かに観光客はうわべをなでるだけの軽薄で無責任な存在であるが、観光客として実際に行って触れるからこそ言葉より先に立つ動物的反応が起こって弱いつながり(weak tie)を持つことができ、弱いつながりにしかできないことができ言えないことを言うことができる。

 

VRの発達が進むと、旅は、(自分が)「行く」ものではなく、(コンテンツが)「来る」ものになるのではないかと思っていたりしたのですが、物理的に身体を移動させる意義が見出せてちょっとホッとしました。

加えて、お客さんと旅先の関係をどう築いていけばいいのか、切り口と深さのところで立ちすくんでいたのですが、それもお客さんにとっては日常のノイズで十分で、旅先にとっては弱いつながりの人で十分、と割り切れて少し肩の力が抜けそうです。

 

何か特別なアクティビティやコンテンツ目がけるわけなく(もちろんそれもそれでありですが)、異質(そう)なモノに実際に触れに行くーーこれからの旅のコアな真価はそのあたりが強くなっていくんじゃないかと感じました。

 

 

正義論、行きつく先は議論

井上達夫さんの「世界正義論」がきっかけでいつか読もうと思っていた正義論シリーズ。今がそのタイミングになりました。3冊はどちらかというと理論寄り、もう1冊は具体的な難民問題を題材に考察した本でした。

理論寄りの3冊はいずれもロールズの正義論(先験的制度主義)を批判的に再検討しつつ、違った正義へのアプローチを模索する内容のもので、かいつまむとこんな感じの概要です。

 

「正義のアイデア」(アマルティア・セン著)

・最上の制度的枠組みを求めるより、目の前の不正義を少しでも緩和するためにどのように社会選択を行うのがよいか?を考えるアイデア=ケイパビリティアプローチを提示(包括的な理論ではない、ということを認めている)

 

「正義のフロンティア」(マーサ・ヌスバウム著)

ロールズなど先験的制度主義をとる正義論の限界を踏まえ、顕在化してきている新たな地平(障碍者・外国人・動物)に対応できるような正義論アプローチを目指した野心的取り組みで、センは示すことを控えるケイパビリティのリストも示している

 

「正義への責任」(アイリス・マリオン・ヤング著)

・1人1人の正義との向き合い方を考察、各アクターが既存のルールにのっとって行動しているにも関わらず特定の集団の不利性が固定化されてしまうような構造的不正義とかかわりなく生きていける個人はほとんどいない

・構造的不正義は特定の個人や制度が原因ではないので、罪を着せることがその解決に向けた責任の根拠にはなりえず、自らの選択・行動が不正義の再生産に関わっているという責任の分有が根拠となる

・構造的であるがゆえに個々のアクターだけでは不正義は解消できず、取り組みは自ずと社会的・政治的となる

 

一方残りの1冊、ヨーロッパで巻き起こっている反難民の動きという特定のイシューにつき考察しているのが「自分とは違った人たちとどう向き合うか」(著:ジグムント・バウマン)で、根底には自己責任の名のもと個人化が過剰に進み、恐れや抑圧を抱えたヨーロッパ各国の市民が難民をスケープゴートにしており、政治家も便乗して難民問題を安全保障化するなどして人気取りに走っていると分析している。

 

4冊連ねて読んでみて共通して見られたのが、正義の実現には議論すること・会話することが欠かせない、という主張。

 

・ケイパビリティアプローチを有効に作用させるには、何が指標としてふさわしいか、ある施策がケイパビリティを向上させうるか、どの指標をどれだけ向上させることがたとえ他の指標を差し置いたとしても望ましいのか、などを議論を通じてその都度決めていかねばならない。

 ・構造的不正義を正すには、個のアクターがそれぞれの立場・ポジションで孤立して選択を変えてもシステム全体を変えるには至らないので、他のアクターに変革に参加するよう促すような政治的な動き、コミュニケーションが必ず必要になる。

・難民を分かり合えない違った人ととらえ続けることから脱するには、途中衝突や紆余曲折があるにしても会話を続けていくしか道はない。

 

 やはりというか、偏りのない公正な社会的選択を行い、不正義を改善して正義に近づけていくには、様々な人の間でのコミュニケーションが欠かすことのできない鍵であるようです。センは民主主義とは、この公共的討議を通じた統治であって、投票・選挙のみが民主主義を作っているのではないという見方に与していました。

 

国境をまたぐ正義ってなんだろう?どうやって存在・成立根拠を持たせられるのだろう?個人として自分ができることは何なんだろう?というのが正義論シリーズを読もうと思った動機だったのですが、何をおいても議論・対話することが欠かせないのだというごくありきたりな結論が、どの本・アプローチからも導かれて、単に素朴なだけでなく、「あ、それでいいんだ」と素直に思えるようになったのは収穫でした。

グローバルジャスティスの話に限らず、やっぱり熟議・議論する継続的な場や機会をつくることはいつかやってみたいなぁ。

 

正義のアイデア

正義のアイデア

 
正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 
正義への責任

正義への責任

 

 

 

「持続可能な資本主義」(著:新井和宏)、「なめらかなお金がめぐる社会。あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ。」(著:家入一真)を読みました

一方は独立系投信・鎌倉投信の取締役、一方は(主に)クラウドファンディングサービス・CAMPFIREの社長と、違った立場のお二人ですが、立脚している問題意識は通底するものを感じました。

それは、どちらも効率性・規模を最大化しようとする資本主義のあり方に疑問を呈しているということ。

その対案として取り組まれているのが、鎌倉投信の場合が信頼をベースに「いい会社*」に長期投資するという運用姿勢であり、CAMPFIREの方が資金調達を簡単にして小さな経済圏の形成を促すという金融包摂の拡充です。

 

*「いい会社」とは自社のミッションを積極的に拡大解釈して、ステークホルダーの幅を広げ、そのステークホルダーと価値を創造し分かち合っている会社のこと。

 

零細企業の代表としては、事業を、会社を、どう組み立てていくか、深く考えさせられる2冊となりました。

よくよく考えて思いあたったのは、その人にしかできない旅行の企画というのは、個人が小さな経済圏を築く一手段となりえるし、それは旅行先にとっても新しい来訪の形が増えて喜ばれるかもしれない、ということ。

人数・回数が多くなくても、「好き」という個人的な好みや思い入れが形になって、それに共感した人が集まるグループというのは、旅先の土地と一回だけではない、継続的なかかわりができる可能性もあるんじゃないだろうか、という希望的観測も。

あとは何となく社内で抱えている業務も、どう切り分けて、誰にどう担ってもらうと、全体として生み出せる価値が上がるのか、とかも検討の余地がありそうです。

 

大きくて長いものから飛び出す自由が、良くも悪くも増えた今だからこそ、小さくてもgoodな経済的生態系をどう作るか考えるヒントになる本でした。

 

持続可能な資本主義

持続可能な資本主義

 

 

RED―ヒトラーのデザイン(著:松田行正)を読みました

ヒトラーが大衆操作に用いたデザインを解説した書。

 

ナチ党のシンボル・ハーケンクロイツの運用だったり、ポスターのアングル・陰影の使い方だったり、直線的な設計だったり、過去に成功した事例とモダニズムの要素(モダニズムそのものは嫌悪していたらしいので、あくまで要素)をうまくミックスして、大衆の心理に訴えかけるブランド・デザインが、ヒトラーは天才的にうまかったらしい。

 

やや下からあおり気味に撮られた遠くを見据える顔のポスターで力強さを演出したり、色を使ったイメージづくりを行ったり、大勢に同じ動作(行進など)を繰り返しさせてひとりひとりの思考能力・判断力を奪っていったり、宗教的な要素を取り入れてみたり、日本の政党でもやってるねぇというテクニックが出てきて、「ははぁー、これか!」と随所で膝を打ちたくなりました。

これを全部統一的なディレクションのもと貫徹させるとあのような熱狂的な支持が生まれてしまうんだなぁ。日本の政党は不徹底でよかったと思うと同時に、紙一重なのかもしれないと、ちょっとうすら寒くなりもしました。

 

映画や写真、新聞・ポスター等の資料もふんだんに掲載されていて、ヒトラーのデザインの仕掛けを視覚的にも感じられる一冊です。

 

RED ヒトラーのデザイン

RED ヒトラーのデザイン

 

 

<弱いロボット>の思考ーわたし・身体・コミュニケーション(著:岡田美智男)を読みました

ごみを集める、他愛のない会話を続ける、など人間と共同で何かをするロボットの製作を通じて人間のコミュニケーションの特徴を研究する著者の本。
人工知能、ロボット、自己、コミュニケーションデザイン、身体性、引き算のデザイン、余白、共有された志向性など、フックになる切り口がたくさんあった一冊でした。

 

個人的にうれしかったのは、経験的に感じていたことに言葉を与えてもらったこと。

 

 

もう数年前、友人と奄美大島へ旅行に行ったのですが、その時移動するレンタカーの中で、お互いが人生において何を大切に思っているのかなど、相当深い話をすることができた、という経験があります。普段カフェや飲み屋にいてもなかなかそこまではいけない、というような深い話ができて驚いたのを覚えています。

運転席と助手席に並んで座りながら通り過ぎていく奄美大島の風景を一緒に眺め、それがいい刺激だったのかね、なんて話していたのです。
おりしもその日は小学生だったか中学生だったかのロング・ウォークの日にあたっていて、まばらに歩道を歩く生徒たちや、生徒たちを応援している地元の方々の姿を横目に見ながらのドライブでもありました。

 

あれ以来、車で、特に横並びに座りながらの会話には何かあるとうっすら考えていたのですが、この本を読んでそれがどういう仕組みで起こったのか、窺い知ることができたのです。

 

ひとつには、私たちは、ひとまず自分の外側に対して働きかけてみなければ自分を認識できない、システムとしてオープンな・不完結な身体であるということ。

例として挙げられていたのは、自分の目の内側から見たままの自画像を描こうとすると顔を描くことはできず、他社のリアクションを通じてしか自分を見られないということや、自動車の運転に習熟する過程では、自分の動作の結果はそれによって車がどう動くか・景色がどう移っていくかを知らなければならないということ。

ドライブで景色が流れていくさまは、自分が本当のところどう思っているのか内省し理解するのにいい環境であったのだと思います。

 

ふたつめには、<並ぶ関係>の効用。

この対義語が<対峙する関係>なのですが、ようは二人が第三者的な媒介物に向かっている関係のことを指しています。媒介物を前に並ぶ関係にあるとき、人は「相手もこう考えているだろう・こうするだろう」というなり込みが働き、自他非分離な間身体的コミュニケーションが起きやすくなるそうです。

実は例のドライブ中にもこれは前の席と後ろの席では起きなかったよね、という話は出ていたのですが、まさに運転席・助手席で並んで奄美の風景を目にしていたことで、この自他非分離なコミュニケーションができていたんじゃないか、と気づきました。

 

 

本書で例として取り上げられていた、自己完結的に機能を果たすのではなく、人間に半ば委ねるような、人の関わりしろ・余白を残したロボットのことを著者は<弱いロボット>と呼んでいますが、この<弱いロボット>、今後ロボットと人間が共生していく中で幸せな共存・協働の形を考える大きなヒントのような気がします。

著者も指摘している通り、機能が自己完結しているロボットに対しては、ロボットに対する人間の要求水準が際限なくエスカレートしていく。これに対して人の関わりしろが残っている<弱いロボット>では、お互い不簡潔な存在として支え合うのでそんなことは起きない。

これは例えば介護にロボットを投入する場合においても、過大な要求がされるのを防ぎ、なにより介護を受ける人本人の自活力を維持するため、必要な設計思想ではないかと思うのです。

そして介護に限らず、人間がロボットを使っていたつもりがいつの間にかロボットに人間が使われていたという事態に陥らないためにも、奉仕者=ロボット vs 被奉仕者=人間 を超える関係を築くことが必要なんじゃないかと思いました。

 

んー、ポイントがたくさんあってまとまりきらないですが、コミュニケーションはとりあえずでおずおずと差し出してみることから始まるというのも本書での指摘でしたので、ひとまずこのくらいのところで本稿は終わり!

 

 

ボコ・ハラムーイスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織(著:白戸圭一)を読みました

毎日新聞記者の著者の手による、少女200人以上を誘拐し世界に衝撃を与えたボコ・ハラムの誕生から今日に至るまでの系譜を追った本。 

 

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ナイジェリアは、人口成長率が経済成長率を上回りひとりあたりGDPが下がるような経済停滞の時期を経験した後、資源価格上昇の波に乗り2003年~2012年の平均成長率が5.9%という高度成長を遂げる。
しかし世界数多くの資源国の例と違わず、この成長の成果はナイジェリア国内で均等には配分されず、腐敗や大きな経済的格差を生み出した。それと同時にこの間も人口は増え続けたため、失業状態にある若年層も増えていった。

こうした社会の歪みの原因を西洋型の政治・経済制度に求めた一部のイスラム教徒は、イスラム法シャリーアの導入と厳格な運用を求めるようになる。
その声を受けイスラム教住民が多数いるナイジェリア北部の諸州では、選挙の際シャリーアの導入をかかげる政治家も出てきたものの、いざ当選すると実際に運用することはなかった。

これを裏切りととらえ既存制度への不信・不満を募らせたグループが、イスラーム反政府運動を展開し始める。
そしてボコ・ハラムも、その起源をたどればこうしたイスラーム反政府運動組織のひとつに過ぎなかった。

 

しかし拘束された指導者が獄中で警察官により射殺されたこと、治安当局の弾圧を受け国外に一時退避したメンバーがソマリアアルジェリアアルカイダとかかわりのあるテロ組織と接触したことから、ボコ・ハラムはグローバル・ジハードを掲げたテロ集団に変容していく。

正規軍と正面衝突しても勝ち目のないボコ・ハラムにとって、衝撃的な手段によりテロ行為を行うことは、グローバル・ジハードの系譜に自らを位置づけ、ヒト・モノ・カネを呼び込む手段であった。こうして一躍世界にその名を広めることになる少女の集団誘拐事件を起こすに至ったのである。

 

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イスラーム国に関する書籍でも述べられていましたが、基本的に人がテロ組織に走る原因は同じところにあるように思います。

雇用機会が十分でない中、一部の富める者は富み、他多数は失業など不安定な就労状態が続く。
既存の制度を見てみても、腐敗が横行し、すでに経済的・政治的パワーを有した人たちに有利に働いているように思われ、それを制度内の方法で正す可能性が見いだせない。これは宗教的には堕落した状態であり、イスラーム本来のシャリーアに基づく社会統治を実現しなければ回復できない。
だから体制転換のための聖戦=ジハードが必要だ。

大まかに言うとこれがテロに走る人たちの思考回路にあるようです。

(ちなみにこう考えるようになるには社会を俯瞰してみる視点が必要なため、テロ組織に加わる人の中に高学歴の人が多いのはある意味さもありなん、なことなのだそうです。)

 

著者も指摘の通り、テロ組織にとってはグローバル・ジハード=資源(ヒト・モノ・カネetc.)を集めるために必要な旗印、すなわち「ブランド」となっている。

そのことも踏まえて、テロ(とテロ組織に走る人)を減らしていくためにはいくつかの段階が考えられるんじゃないかと思います。

〇グローバル・ジハードの「ブランド力」を低下させる。それにはもっと有効かつクールな解決策のオプションが必要。

〇既存社会にみられる歪みを正す方法はシャリーアの厳格な導入・運用しかない、という接続関係を切れないだろうか?食品にハラルがあるように、法・制度にもシャリーアそのものではなくともイスラム適合的であるというハラルの認証が付与できないか?

〇もっとも、一番根源的な解決策は、雇用機会の拡大その他の方法によって社会参加・一定の経済力獲得の機会を提供し、ガバナンスを改め、より広い社会的包摂を実現すること。

 

法曹の世界にリーガルマインドがあるように、シャリーアにもより抽象的な次元でのマインドがありえるんじゃないか(字面を超えた解釈を禁じる考え方もあるかとは思いますが)。
両者をメタ化した上で接点を探り、現実の制度に落とし込んでいくという作業ができれば、既存のシステムから排除されていると感じるテロ予備軍を減らすことができる、と考えるのは楽観的過ぎでしょうか。

 

ボコ・ハラム:イスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織

ボコ・ハラム:イスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織

 

 

日本の長い敗戦ー敗戦の記憶・トラウマはどう語り継がれているか(著:橋本明子)を読みました

太平洋戦争の敗戦というトラウマを日本社会がどう乗り越えようとしているのか、その乗り越え方がどう安全保障政策や外交姿勢、国民の政府への信頼感に現れてくるのか分析した一冊。アメリカの大学で社会学の教鞭をとっている筆者が著した"The Long Defeat - Cultural Trauma, Memory and Identity in Japan"という書籍を、日本人向けに編・訳したもの 。

 

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戦争の体験、分けても敗戦の体験は、敗戦国の人々にとって受け入れることが難しい記憶となる。筆者は本書で、日本で見られる敗戦やそこから引き出される教訓を語り継ぐ「語り」を英雄、被害者、加害者、の3つの類型に整理している。

 

英雄の語りでは、戦争で散っていった日本兵は祖国を守るため命を投げ出したのであって、私たちの今の繁栄は彼ら英雄の犠牲の上に成り立っている、という語られ方をする。

被害者の語りでは、戦争責任の所在を明確にすることを往々にして避けつつ、戦争に巻き込まれ命を落とした日本兵や一般人、特に戦争末期の銃後の暮らしの厳しさが語られ、戦争は絶対に避けなくてはならないものと語られる。

加害者の語りでは、アジア近隣諸国で行った植民地支配や残虐行為の罪責を認め、謝罪と和解が必要であると語られる。

 

これら3つの語りに対応するように、敗戦からの道義的回復を図ろうとするアプローチも、ナショナリズム(英雄)、平和主義(被害者)、国際協調(加害者)の3パターンに分類される。

大まかに言って、ナショナリズム憲法改正・集団的安全保障に積極的で「普通の国」になることを目指し、平和主義は護憲・反戦主義を貫くことを主張し、国際協調は謝罪と和解を最重要視する。

 

このように敗戦の物語とそこからの回復のアプローチは、それが交じり合わないまま並存してきたが、文化的トラウマを抱えていること自体、国民がアイデンティティを刷新していく契機となる。

「日本の道義的回復は、国民としての新しい自己を形成し、日米同盟の次元を超えた政治的アイデンティティを構築することなしには達成できない。」

 

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平和主義を掲げ、敵をなるべく作らないような外交的努力もし、国連他国際機関にも一定の貢献をしてきてなお、日本は太平洋戦争についての反省が足りないと指摘される所以が本書を読んでよくわかりました。

日本の平和主義は、戦争責任を認め反省したところから生まれたものではなく、身近な人や同胞が命を落とすような道を選んでしまったことへの悔恨や、世界における道義的地位を高めたいという道義的回復の手段として選択されている。
そこに戦地で行ったことへの反省が含まれていないからこそ、自己憐憫だと批判されやすい。

 

また、敗戦の記憶を語り継ぐ具体的な場・メディアとして家庭、学校教育、マスコミの3者を取り上げて分析されていましたが、その内容も説得的で興味深かったです。具体的内容はぜひ本書を手に取って読んでみてください。

 

本書を読んで一番心に残ったことは、このまま進むとよくない結果になりそうだと思った時に何もしないでいることは、責任の放棄であるということ。
敗戦の記憶の例からみるに、事後振り返る際、自分が何もしなかったことは棚に上げられがちで、自分を巻き込まれた被害者として正当化したくなる心理が働く。
平和主義者のアプローチでさえ、戦争は断絶した過去の体制・社会が引き起こしたことと一線引いた向こう側の出来事と位置づけている。

でも、これはすごく身近な例で言えば、いじめが起きている教室内で見て見ぬふりをすることと同じ。

だからと言って、これはという時、街に出てシュプレヒコールを上げればいいということではないのだけど、インターネットもSNSもあって昔より発信することが容易になった分、これは変だなと思った時はちゃんと自分の声を発しようと思ったのでした。